第15話 菜摘15 大伴娘

ああ…藤の枝がはびこって実に鬱陶しいものよ。橘の咲き誇る世はもうないのか?


橘諸兄たちばなのもろえさま。思えば昔、貴方が宴席でこぼした愚痴から全てが始まったような気が致します。


橘が藤原を呪詛した。不敬である。

 

とその場にいた貴族たちは色めきたちましたが、聖武太政天皇は

 

「酒に酔った老人のたわごとをいちいち真に受けるのか?」と笑って諸兄さまをお許しになりました。

 

しかし、それを好機と黒い企みを思いついた者がいたのです。

 

「見なさい山部王、上席の『あいつ』が片頬をひきつらせて笑っている。あれははかりごとを考える時の彼の癖だ。

また血が流れますよ」

 

と末席に並んで座って酒を飲んでいた私に囁きかけたのが…まだ磐梨別いわなしわけと名乗っていた、

 

和気清麻呂でした。

 

「あいつ」とは上席に座している藤原仲麻呂。

 

女帝、孝謙のいとこで、女帝と男女の仲で、橘氏にとって代わって権力の全てを握ろうとしていた男。

 

私は愛する明信と無理矢理別れさせられ(私の官位が低かったためだ)やけ酒をあおっている最中だったので、清麻呂の一言で、酔いがいっぺんに醒めました。


あの宴での失言を恥じた諸兄さまは官職を辞して二年後に亡くなり、その息子の奈良麻呂さまは謀反の疑いをかけられ長屋王さまの遺児たちと共に苛烈な拷問で絶命なさいました。

 

全てが仲麻呂の仕組んだ事でした。

 

あの事件で天武帝の皇統を殺して絶やした仲麻呂という男は…藤原家の野心が産み落とした怪物だったのです。

 

その仲麻呂も女帝の寵を失うと、報いを受けるように政変で惨めな敗死をしました。

 

むしろ一番の怪物は、あまたの貴人の血を流して平然としていた女帝、孝謙称徳こうけんしょうとくだったのかもしれません。

 

女帝崩御ののち天智帝の皇統である父、白壁王(光仁天皇)が即位しました。

 

大学頭で終わる筈だった私が、まさか天皇になるとは…


「お前は全てお見通しだったのか?清麻呂」

 

延暦十九年(800年)、梅が散り、桜の蕾が膨らみはじめた春の夜深く、夜御殿よのおとどで昔馴染みを待っていた桓武帝は、

 

誰もいない室内の闇に一人語りかけた。

 

私が昔犯した罪も。それに耐えきれず、戒明を呼びつけたことも。

 

今夜この時は全て、昨年死んだ清麻呂の霊魂が図らったことのように思える桓武帝であった。


ふふ、何を思っていらっしゃるのです?おほきみ

実は神も仏も信じていないあなたが私の霊を恐れるとは、ね。


生前と変わらぬ皮肉屋で冷笑家そのものの口調で清麻呂が自分をからかう声が頭に響いてくる。

 

ほどなく、勅使として戒明を迎えに行かせて藤原葛野麻呂が夜御殿に現れた。

 

「大安寺の戒明和尚、到着いたしました」

 

「ご苦労だった葛野麻呂、後は帰って休め。この戒明とゆっくり話したいのでな」

 

厳密な人払いを桓武帝は命じ、葛野麻呂はは、と頭を垂れて帝の前を辞した。

 

帝はあの世捨て人同然の老僧と若い頃昵懇だったらしいが、こんな夜中に秘密裏に呼びつけての話とは一体なんなのであろうか?

 

「実に興味深い」

 

くすり、と片頬をひきつらせた笑いを浮かべて葛野麻呂は呟き、宮中から辞した。


こうして去った葛野麻呂も、実は清麻呂の娘婿なのだ。


まるで何もかもが清麻呂の意思でお膳立てされているような場で戒明と桓武帝は、十五年ぶりに相対し、お互い腹の底を探るように相手の外見を頭からつま先まで観察した。

 

「随分とご苦労なされたようで」先に言葉を発したのは戒明だった。

 

自分と同い年で六十三歳の帝が、まるで七十翁のように髪も顎髭も真っ白で、瘦せこけている。

 

かように天皇とは激務なのか、と戒明は嘆息して夜着に衣をかけて共に床座している桓武帝の顔を見つめた。

 

「お前は相変わらずいくつか分からぬな」

 

と眉は白いが剃髪で、肌は赤ん坊のように艶々している戒明に向かって、初めて笑顔を見せた。

 

「同い年だと何度も言ったではありませぬか…あの頃は拙僧は大安寺の見習いで、帝は大学寮の学者。お互い若くて何もなくて、自由でしたな」

 

「ああ、ここに種継がいないのが寂しくてたまらぬ」

 

暗殺された藤原種継の名が帝の口から出て、老僧と帝はまた、お互い沈黙した。

 

「戒明、お前はあの夜あの娘から何を聞かされたのだ?」

 

「はて?拙僧は食い詰めた娘の身の上話を聞いただけですが」

 

とぼけるな、と言って桓武帝は月の刃が頭上から垂直に降りて頬を削いだような冷酷な顔つきをした。

 

これが、山部王さまの「本性」なのだ。戒明は分かっていた。

 

「食い詰めた娘が実は早良親王さまに仕えていた大伴娘おほとものいらつめだということですか?

 

あなたお一人の謀で親友の種継さまを暗殺し、大伴一族に罪をかぶせて処刑したことですか?

 

それとも早良親王さまもあなたが…」

 

そうだ。と桓武帝は開き直った声で言った。

 

「全て『私』がやったことだ。皆、生きていると都合が悪い者たちだったからな」

 

天皇の一人称「朕」ではなく「私」と自称した桓武帝は過去の決着を着けるように話し始めた。

 


「なんですと?」

戒明が驚きで出した声の一息で、灯火が大きく揺らめいた。


自分が崖に立つまで思い詰めるに至った経緯を全部話した大伴娘おほとものいらつめは、俯いて自分の腹部に手を当て、堰を切ったように泣いた。


「わたくしが今お話ししたことは…本当です。造営大夫、藤原種継さま暗殺は帝の命令で行われていたのです。春宮早良さまとわが大伴の一族は、このままでは冤罪に処されます」


やはり長岡京で大変な事が起きていたのだ!


元々皇太子早良親王と帝の不仲はここ大和国の山中の庵にまで噂が届いていたが、


あの気の小さい山部王さまがそのような思い切った謀を?と戒明は顎に手を当て、少し考え込んだ。


事の発端は、長岡遷都反対派だった早良親王に大伴一族が味方したためだった。


反対勢力が増大するのは時間の問題だったし、帝にとっては弟でも政敵同然の仲の悪さだ。

皇太子が政敵になっては、まずい。


むしろ気の小さいお方だからこそ謀反を起こされる前に、反対派を全て闇に葬ろうとなさっているのだ!


と戒明はひとり得心した。


「それでは大伴一族は帝に騙されたという事になりますな。佞臣藤原種継を討てば出世を約束すると命令され、実行すれば逆賊として捕縛された。

あなたのお父上も…」


「はい、わたくしは実行犯として捕縛された大伴継人の庶子です。事が起きる前に父がわたくし一人を逃がしてくれました」


「貴女が逃げている理由は、その、お腹に」


と戒明は言って口を濁した。はい、と娘は涙で濡れた顔を上げて言った。


「わたくし早良親王の御子を宿しております。それが父たちに道を踏み外させたのだと思えてなりません!」


とまだ膨らんでいない腹部を押えて娘は叫んだ。


身重なからだで山道を歩いてここまで来たのか、と思うと戒明は今や逆賊の娘となったこの大伴娘が不憫でならなかった。


お腹の子が無事生まれて皇子であれば帝にとっては政敵の子であり、将来自分を脅かす「皇統」となるやもしれぬ。


一族から天皇を出すのは貴人たちの夢であり政の中枢に入るまたとない機会である。


その夢故に大伴一族は騙されたのだ。


しかし、身籠った娘を密かに逃がしたということは継人さまは帝の裏切りを予想していたのだろう。


事件の生き証人である娘の命の危険を、戒明は強く感じた。


「ともかく貴女は一晩ここで休みなさい。夜が明ける前に拙僧と共に身を隠せる所に逃げましょう」


「でも僧侶どのにも危険が及びます」


と娘が驚いて言うと女人と子供、弱き者を守るのは僧侶の使命だから構わぬと戒明は言った。


「貴女は氏素性を隠して、生きて、子を産むのです」


そう言って疲れ切っていた娘に衣を着せ、床で眠らせた。


今思えば話を聞いてすぐに逃げ出すべきだったのだ。と戒明は妊婦を気遣ったその油断を激しく後悔した。


数人の武人たちが庵の戸を蹴破って矛や剣を手に庵に踏み込んで来たのは娘を眠らせて一時(二時間)経った真夜中だった。


「そこの娘は何者だ?」


と先頭の背の高い武官が短くした矛をかざして戒明に問うた。


「麓の里の女でございますが?私を大安寺の戒明と知ってのことか」


面倒くさい!その僧を斬ってしまえ!と武官の連れの者が剣を振りかざして口々に叫んだ。


「正僧を斬ったら重罪に問われるぞ」


と武官は表面は冷静だが威圧的な声色で部下の者たちを制した。


「その娘は謀反の罪人の一族でな。大人しく引き渡してくれたらここでの僧侶どのの罪は問わぬ」


さあ、と手を差し伸べる武官に向かって戒明は起き上がった娘の前に立ちふさがる。


「断る」


いまここで自分が殺されても構わぬ。弱きものを守るほとけの教えに殉じるならむしろ本望だ。


けばけばしい奈良の寺で失望して生きるよりはましだ。


百戦錬磨の武官たちもたじろぐほどの僧侶の迫力だった。


背後で軽やかな足音がした。


戒明と武官が睨み合っている内に娘が裏口から逃げたのだ。


「娘さん!」


娘が崖の上の山道を走る。早まるな、早まってはいけない!後を追う戒明をあの武官が走り出して追い越す。


武官が娘に追いつく前に、戒明と娘の視線が交差した。娘はこちらに向かって覚悟を決めたようにひとつうなずいた。


娘が崖の先には目もくれず山道から外れて藪の中に入ろうとした刹那、武官の矛が娘の背中から胸を刺し貫いた。


闇夜なのにその光景が今でもはっきりと目に映ったのは何故なのだろう?と戒明は今でも思う。


あああああ…と胃の腑から獣のような声を絞り出して戒明は前のめりに倒れた娘に駆け寄った。


矛の一突きでで娘はこと切れていた。


南無観世音菩薩なむかんぜおんぼさつ


と武官が呟いたのを戒明は聴き取った。


「おのれら、身籠った女を僧の前で殺したなっ!」自分の人生で一番という程の怒りに駆られて武官たちに一喝した。


身籠った、と聞いて武官の表情が一瞬怯んだ。が、すぐにわざと酷薄そうな作り笑いをして


「…人殺しを務めとしている武官はやはり地獄に堕ちるのだろうか?」


と血で濡れた矛を肩に担いで戒明に質問した。


「九十九人殺した央掘摩羅おうくつまら(アングリマーラー)でさえ仏道に帰依し改心した。人を殺した分出来る限り人を助けなさい」


戒明の言葉に武官が目線を落とし、そうか、とだけ言って生死を確かめるため娘の亡骸に剣を突こうとする部下たちを


「命令は全て遂行した…もう殺さなくていい」と強い口調で命じて止めさせた。


「せめて亡骸はこちらで弔いたいのだが」と戒明が開いたままの娘の目を閉じさせると武官は意外にも「いいだろう」と鷹揚すぎる返事をした。


「唐帰りで名高い戒明和尚どの」と部下たちを連れて山道を降りる武官が最後に振り返って言った。


「ここで起こった事は誰にも言わぬほうが和尚の為ですぞ。俺の名は坂上田村麻呂」


刺客が自ら名乗るのは、余計な事をしたら殺すぞ、という意味である。


田村麻呂たちの姿がすっかり視界から消えて、戒明は娘の亡骸を埋葬するため庵の裏で穴を掘りながら、絶望でむせび泣いた。


佛よ。


何故このようなおぞましい所業が、拙僧の前で起こったのですか!?


これから何人の貴人が冤罪で殺されるのを知っているというのに、拙僧は何も出来ないのですか…


娘を埋め終わった時に夜明けを迎え、日の出の光が戒明の顔を照らした。


ああ…現世うつしよでいくら悲劇が起きようともこうして日は登り、拙僧の涙を乾かしてくれるのか。


娘を埋めた場所に丸い石を置き、無念の死を遂げた大伴娘のために長い間読経した。


それきり戒明は事件のことには口をつぐんだ。


あれから十五年の月日が過ぎた。


「そうか…それがお前の見たすべてか。田村麻呂は娘が崖から身を投げ、骸は河に流されたと報告したが」


真相を聞かされた桓武帝は、肩を落として深い、長いため息をついた。


「信心深い田村麻呂様なりの配慮だったようで」


「お前に知られたのか?と考えただけでも気がおかしくなりそうな十五年だった。命が惜しいから黙っていたのか?」


それにはすぐ答えずひとつお聞きしたいことが、ときついほど香が焚き染められた夜御殿で戒明は桓武帝の表情を窺った。


「早良親王さまは本当に食を絶って自死なさったのですか?」


「人間食を絶っても喉の渇きには耐えられぬものだ。だから飲み水に毒を」


「なぜご親友の種継さまを謀殺なさった?」


「最初は重用していた。だが所詮あいつも『藤原』だ。私のもとで増長するのだろう、と思うと目障りになってきた。

天皇家に寄生した宿り木、藤原への憎しみを止められなかった」


くすん!と大きく鼻を鳴らして戒明は嘲った笑い声を立てた。


「山部王さま…拙僧は貴方よりも大悪人ですよ」


「何のことだ?」


「本当は気の弱いあなた様がより苦しむ、と知っててわざと黙っていたのですから」


まなじりが裂けそうなほど目を見開いて、桓武帝は凄惨な笑みを浮かべる戒明を見た。


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