第14話 菜摘14 決心と清算

真魚が修験道の行に入ってから一年が経とうとしていた。

 

長のタツミはじめ修験者たちの指導による激しい行の連続で真魚の頬は一回り削ぎ落され、眼光は厳しく鋭くなった。

 

「おん まゆら きらんでぃ そわか おん まゆら きわんでぃ そわか…」

 

と両手の親指、人差し指、中指を組んで薬指と小指は立てる印を結びながら孔雀明王真言を二万回言い終えた時である。

 

「それまで!」と行を見届けていたタツミが張りのある声で宣言すると、真魚はゆっくりと伏せていた顔を上げた。

 

樹々の間から差し込む光が、真魚の顔を照らす。

 

ああ…光とは、こんなにまばゆいものだったのか…

 

「佐伯の真魚、お前は修験道の行をすべて満行し、麓の里で生きるための術を学んだ…さて、この山を降りる時が来たが」

 

とタツミが片頬に引きつった笑みを浮かべた後には、さらに過酷な試練が待っている。

 

と淡々と受け止めるまでに真魚の神経は図太くなっていた。

 

真魚がゆらり、と立ち上がって平たい岩の上から降りた時、白装束を着た五人の修験者たちが真魚の周りを取り囲んだ。

 

「誰も傷つけずに全員を倒したら、下山を許可する」

 

えいやぁー!と叫んだ修験者たちは、同時に真魚の腹に自分の杖先を突き込んだ、つもりであった。

 

かしん!!とお互いの杖先がぶつかった時、真魚どのは消えたのか!?

 

と一瞬驚き、体を硬直させた。

 

「未熟者どもめ」

 

とタツミが弟子たちに向かって舌打ちした。

 

「えろうすんまへん」

 

という声と共に地面に五体投地した真魚が曲げた右脚を軸に左脚をぐん!と伸ばして修験者たちの足元を払った。

 

真魚を中心に放射状に仰向けに倒された修験者たちは呆気に取られていた。

 

「おまえら文字通り足元すくわれてどうする!?それでも修験者か、罰として孔雀明陀羅尼くじゃくみょうおうだらに、二万回」

 

とタツミが言い放つと地面に手を付いて起き上がる修験者たちに、げっ!という表情が浮かんだ。

 

「さっさと行け!」

 

タツミの怒号で修験者たちが散った後で、タツミは白木の杖を真魚に差し出した。

 杖の先端近くには羽根団扇紋の焼き印が付いている。

 

「満行だ、下山を許す。その杖を持てば賀茂氏が支配する山々すべて通行できる」

 

真魚はひざまづいて両手でその杖を受け取り、

 

「一年間、有難う御座いました」

 と深く深く、頭を下げた。


真魚が葛城の修験者の里を出立する朝、里の女と子供たちは総出で真魚を見送った。

 

「これからも無理せず行を続けるんやで。あんた、のめり込んで無理する悪いくせがあるからな」

 

と真魚の両手を白魚のような綺麗な手で包み込むのは、白銀の髪と瞳をしたタツミの妻女、専女トウメという見た目二十代後半の女人である。

 

真魚はタツミに「妻だ」とトウメを紹介された時、ああ、渤海人の子孫もいるのだな。ぐらいにしか思わなかった。


 真魚は妻が別の男の手を握る様子に苛々しているタツミに急かされ、

 

「早く行け…俺にぶっ飛ばされたくない内にな!」と半ば無理矢理里から出された。

 「あんたの唯一の欠点は嫉妬深い所や。子供たちも真魚ちゃんの方になつくから追い出したんやろ?」

 と夫に的確な指摘をするトウメの言葉を背中で聞きながら…

 


一刻も早く大安寺の勤操の元へ行け。「だいじなもの」がお前を待っている。


と何やら意味深なことばをタツミから託された真魚は、常人の三倍ほどの足の速さで葛城の山道を抜け、日が暮れる前に大安寺に着いた。

 

「よう、久しぶりやな。やっぱり人相が変わっとるで」

 

と勤操がにやにやしながら真魚を迎え入れてくれた。

 

 

勤操さまもあのような行を終えた時は、今のわしのように怖い顔つきをなさっていたのだろうか?

 

と真魚は鏡で自分の顔を見ながら思った。

 

「我ながら、面代わりしたものよ…」

 

故郷の讃岐を出て早や十二年。学者か官吏になる筈だった自分がこうして私度僧として荒行の日々を送っている。人生とは、なんとにえなものであるか…

 

「ご褒美や、久米寺に行って大日経を読む許可を貰った。体を休めてから行け」

 

と勤操は身が飛び上がるほど嬉しい知らせをくれた。

 

その勤操のうしろで、年の頃十歳ほどのみずら頭の男児がこちらをじっと見ている。

 

見るからに賢そうな顔つきの子であった。

 

「新しい稚児(寺院の見習いの少年)ですか?」

 

あほ!と勤操は言った。

 

「自分の甥っ子ぐらい見て分からんのかい、お前の叔父の大足どのがここに連れて来た子や。

名は智泉ちせん、お前に似て頭のいい子や」

 

そういえば故郷を出て三年経った頃、姉が男児を産んだと母からの文に書いてあった。

 

この子が、「だいじなもの」か?

 

「…おじ上?」と智泉は勤操に背中を押されて真魚の前に座って初対面の叔父を首が反るほど見上げた。

 

これが、空海と後の愛弟子、智泉との出会いである。



昔、ある国の帝が、岐路に立たされていた。


帝は最愛の息子の悪気の無い言葉を明信から聞かされた時、

 

因果応報。

 

という仏教用語に心を囚われ、過去の所業にいたく苦しんだ。


こんなことなら…神野に万葉集を読むのを許可するのではなかった!



「虚蝉之 代者無常跡 知物乎 秋風寒 思努妣都流可聞

 

うつせみの 世は常なしと 知るものを 秋風寒み 偲ひつるかも

 

 (この世ははかないものと知ってはいますが、秋風が寒く、妻のことを思い出します)

 

このような哀れみ深い歌を作る大伴家持が、あの忌まわしい事件の首謀者であったとは俄かに信じられないな。明鏡」

 

「はい、親王さま」

 

神野は新しく来た側仕えの女童、明鏡に自ら手習いを教えるため万葉集の巻物を紐解き、選者大伴家持の歌を声に出して詠んでいた。

 

選者の大伴家持が藤原種継暗殺事件の首謀者とされている為、万葉集はこの時期「禁書」であった。

 

故に、神野は特別扱いで父帝に「民の心を知るため」とこっそりと尚侍明信経由で宮中の書庫から一巻ずつ借りて読んでいる。

 

そして、万葉集を開くときはかならず人払いをさせているのだが…

 

宮中に本当の人払いなど、ないのだ。

 

自分が発した言葉に反応するかのように衣擦れの音が用心深そうに廊下を滑り、遠ざかっていく。

 

「明鏡、あの侍女は明信か、父上の息のかかった女だね。あの足で告げ口に行くのだろうよ…」

 

「親王様こそ、このような不穏な発言をなさっていいのですか?」

 

さっきの会話自体が神野と明鏡による狂言だとは、告げ口役の侍女は露とも思わないだろう。

 

いいのだ。と神野は手習いの講義の続きに入った。

 

「父上に『聞かせるために』言ったのだ。何かお咎めがあれば家持の歌は素晴らしいから感動したのです。と言い訳すればいい。

 

それより明鏡、お前はほんとうに十歳と思えないくらい字が達者だね。

 どこで教育を受けたのか?実家の百済王家か?それ以外の家か?謎めいた子供だよ」

 

「いやな親王様」とくすくす笑って明鏡は、手本の和歌を臨書するために筆を取って文机に視線を落とした。




延暦四年九月二十四日(785年10月31日)から四、五日経った日の夜のことであった。

 

崖の上に立ち、躊躇っている様子の一人の娘を見つけたのは近くの庵に住む僧、名を戒明という。

 

「もし。そこの娘さん」

 

と声を掛けてくれた者が僧侶であることに娘は少し安堵した様子であった。

 

庶民の娘の衣を着て変装してはいるものの、裾からのぞく脚の白さで戒明は娘が貴人の出だと判断した。

 

さては、長岡京で変事でもあったのか?

 

娘を怯えさせないように戒明は少しずつ歩み寄った。

 

「早まったことをする前に、ひとつこの僧侶めに心の内を明かしてはもらえまいか?」

 

庵に招き入れた娘の身の上話を聞き、間もなく起こった悲劇が、戒明の長い絶望の始まりとなる。

 


あの夜は、闇夜でありましたでしょうか?


拙僧はあの事件の真相に生涯口をつぐんでいるつもりでしたが、みほとけは全て見ていらっしゃるものです。

 

事件から七年経ったあの満月の夜、ひとりの若者が山に迷い込んで漢詩を諳んじていた拙僧の前に現れたのです。

 

若者の出自があの佐伯氏だと知った時、拙僧は因果応報が人の形をして我の前に現れた。と思いました。

 

佐伯氏…藤原種継さまが暗殺された事件で実行犯として処刑された、大伴氏の分家!

 

拙僧はあの娘への償いの代わりに、と我が身の行く先を見失った若者。佐伯真魚に自分の学んできた全てを伝えました。

 

真魚は素晴らしい若者でした。拙僧が何十年かけて学んできた仏教の教えを十年足らずで習得してしまったのですから。

 

そして、今日。

 

「久米寺で大日経を全て読ませてもらいましたが…いくつか解釈の判らぬ点があります」

 「それで?真魚」

 

「わし、唐へ行って学んでみようと思うんです」


ちょ、ちょちょちょ!と慌てて叫んだのは戒明の隣で話を聞いていた勤操であった。

 「それは、つまり、遣唐使になりたい、っちゅーことか!?」

 「まあそういうことになります」

 「お前、いま自分が私度僧で遣唐使に選ばれる身分ではないと分かって言ってるのか?

 大日経を調べたいってだけの理由で?」

「へえ」

 

「そんな軽い理由で命がけで海を渡る気か!遣唐使ってのは一大国家事業で貴族の子弟や正僧が唐の最新の学問を学ぶためのもの。

 行ったら行ったで十年二十年は帰れないんやで!」


「勤操!」


戒明がどんどん興奮していく「いちおう弟子」を珍しく声を張り上げて制した。

 

「まったく…お前はいちいちわしを驚かせてくれる子だよ。遣唐使の情報をどこで聞いた?」

 

「葛城山のタツミ様から」

 

「そうか、あの方がそう言うたのなら仕方ないね。

いまこの国で唐人に通じる唐語を話せるのは、多分わしとお前しかいない。お前は必ず同行の遣唐使の役に立つ」

 

「なに行く前提の話になってるんや!?」

 

「いちいちうるさい勤操。まずは…金の工面、莫大な費用がかかるぞ。

朝貢として納める紙の収集。そして、正式な受戒(正僧になる儀式)の段取りだ。

 真魚、お前も叔父の大足どのに泣きついてでも金と朝貢をあつめる努力をしなさい。

 わしらも出来る限りの人脈を使ってお前を唐に行かせてやる」

 

「ありがとうございます!」

 と師の前にひれ伏した真魚の目には、うっすらと涙さえ浮かんでいた。

 

「今から行くのだな?」

 

「いっぺん甥の智泉と讃岐に里帰りするつもりです。実家に行く前に虚空蔵求聞持法こくぞうぐもんじほうの行をやります」

 

と言って真魚は屈託なく笑った。

 

「虚空蔵求聞持法は究極に精神を削る荒行。

中には自ら命を落としたり、狂気に落ちた者もいるくらいだ。

自分の心が危うい、と思ったら中断しなさい。これは恥ではない」

 

はい、と微笑みを浮かべながら真魚は冬も終わり、温くなった風を背中に受けて庵を出て行った。

 

「勤操は寺に戻って人脈を頼れ、受戒には正僧三人の推薦がなければいけない。

 わしと、お前と、あと一人は東大寺寄り…できれば法相宗の僧を説得せねばな。

勤・操」

 

「それはわしの役目でっか」

 

「わしは大安寺を出て十年以上経つ。今の東大寺の僧侶につてがあるのはおまえしかいないのだよ」

 

と尊敬する戒明に哀願されては、かなえてやらない訳にはいかないではないか!と勤操は久しぶりに心が浮き立った。

 

真魚を唐へ…戒明さまは何かどえらい計画を考えてらっしゃるのはわしにも分かる!


「わしは口がうまいのが取り得やから僧の一人や二人説き伏せてみせますわ」

 

勤操も大安寺に戻って行って、庵で経典を読んでいる内に夕方ちかくまで時が経った。

 

戒明のもとに、二人の若い僧が訪ねて来た。二人とも立派な袈裟を掛けている。

 

「疾く大安寺にお戻りくださいませ。戒明和尚」

 

と僧侶たちは床に額をこすり付けて戒明の前に伏した。

 

「わしが奈良のお偉い僧侶たちに嫌われている事ぐらい知っているだろう?なぜ今更」

 

「勅使(天皇の使い)が寺にいらっしゃっているのです!帝じきじきに『大安寺の戒明を呼べ』とのご命令です」

 

勅使、という言葉を自分で口にして二十歳を過ぎたばかりの僧は震えあがっていた。

 

「是非お戻りください、和尚!」



とうとう過去に決着をつける時が来ましたな、山部王さま。

 


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