第13話 菜摘13 東宮の腐敗

自分のからだの下で、若い皇太子が夜着の前をはだけて情事の後の深い眠りに落ちている。

 

安殿さま…。

 

薬子は汗ばんだ胸の谷間を安殿の薄い胸板に押しつけ、自分より九つ年下の娘婿の頬に手を当てた。

 

ここ東宮に入ってあなたに触れてみて、やっと解りましたわ。

 

早良親王の祟り憑きの皇子、と皆はひどい事を噂してあなたを粗略になさるけど、


あなた様は本当は愛情に飢えた皇子さまなのだと。

 

お父上から放っておかれてお育ちになった、可哀想なひとなのだと。

 

私も自分の父種継を、あなたの父で今は帝の山部王に謀殺されました。

 

私は父を奪われ、あなたは幼くして皇太子にさせられたことで少年であるべき時期を奪われました。

 

大事なものを奪われた。そういう意味ではあなたも私も、あの山部王の被害者なのです。

 

ただ生き残りの皇族というだけで天皇になったあの男は、何度も失政を犯して臣下や民を犠牲にし続けている…

 

まあいい。帝は御年六十を過ぎて、最近疲労で寝付くことが多くなった、と東宮にいる自分の耳にも噂が入って来る。

 

山部王の命もあと何年ともつまい。次に即位なさるのは安殿さまと決まっている。

 

安殿さまの御代。と心の中で呟いて、薬子は胸をときめかせた。

 

自分といま体を重ねているこの若者が、天皇しか座ることが出来ない御椅子から貴族たちを見下ろす姿は威厳に満ちているに違いない!

 

熟睡している安殿の耳元で、薬子は囁いた。

 

「こうして心身ともにお支えして、理想の帝に育ててあげるから…私のぼうや」

 

形の良い唇を「や」と広げた時である。宮女たちの悲鳴を振り切って、どたどたと荒い足音がここ皇太子の寝所に踏み込み、帳張を引き上げたのは、

 

怒りと失望で顔中を汗だくにしている桓武帝その人であった。

 

「安殿…お前は義理の母と、何をしている!?」

 

ああ、終わったのね。

 

と薬子は案外醒めた気持ちで父の親友だった男を見返していた。

 

上半身起き上がった安殿は冷たい眼差しを父帝に向け、初めて父親に向かって堂々とした態度で言い放った。

 

「あなたが明信や百済永継にしてきたことは何ですか?父上」

 

と。


こうして皇太子安親王と東宮宣旨藤原薬子の一年に及ぶ蜜月は終わった。

 

事が露見したのは高岳皇子誕生の祝いの席。

 

東宮の庭では楽人たちが琵琶、琴、笙、龍笛などを用いて雅やかな曲を奉納している。

 

この宴の主役はもちろん赤子を抱いた伊勢継子で、

 

最近病がちな帝の代理として尚侍明信が「継子さま、皇子誕生おめでとう御座います。母子ともに健やかなご様子安堵いたしました」と心からの喜びと労いの言葉をかけた。

 

「阿保さまも『弟皇子が欲しかったからよかった!』とずいぶんはしゃいでらっしゃるのよ」

 

と興奮ぎみの阿保親王の横に座ってふふ、と団扇を口元に当てて微笑んでいるのは、宮女で阿保の生母、葛野藤子かどのふじこである。

 

伊勢継子は抱いている赤子が随分元気よく手足をばたつかせるのをあやすので精一杯である。

 

初めての育児にとまどっている継子の様子もまた微笑ましく、

 

藤子や明信が「横抱きになさるのですよ」とか「頭を支えると落ち着きますわよ」と母親の先達としていちいち口を出してしまうのは女性としての習性か。

 

それに、と皇太子の妃たちが集う宴に初めて参加した数えで十四になるご正妻の姫の愛らしさったら!

 

さすがは藤原式家の姫君ね…と他の妃や安殿の子を産んだ宮女たちが囁き合っていた。

 

「赤さまが見たい!」と母の薬子にせがんで宴に出席させてもらい、継子の腕の中でぐずる血色のよい赤子を覗き込んで「なんて可愛らしいの!?」と素直にはしゃぐ姫の様子に明信は、

 

「そのうち姫様も、我が子をお抱きになる時が来ましてよ」と、

 

まだ、薬子どのの娘は春宮さまのお手が付いていない。

 

という宮女の報告を聞いた明信は幼い姫を励ますように言ったつもりだったが、

 

この後の姫の発言で、全てのことが明らかになってしまったのだ。

 

「わたくしはまだ幼いので、お母様が代わりに春宮さまのお相手をなさっています」

 

邪気の無い姫の言葉を聞いて、継子は三日間お乳が止まってしまう程の衝撃を受けた。

 

そういえば、と藤子が「春宮さまは、苛々しそうになると御自ら『一人で休む』と言って寝所に引っ込んでしまわれる事が多くなりました」

 

皇太子づきの女官長である薬子が呼ばれて看病にあたるのは役職として当然のことだし、その間「何が行われているか」なんて、

 

誰も…誰も疑おうとしなかったのだ!

 

なんてこと!?と明信は唾をごくりと呑み込んだがすぐに、

 

いいえ、これが宮中というところなのだ。

 

華やかな宮中で垣間見える人間関係の醜さ生々しさを、見ないように聞かないようにする思考停止の方を覚えてしまうのだ。

 

腐敗は、中にいる者の思考停止から始まるのだ。

 

長年宮仕えしてきた自分ではないか、尚侍の私が正さねば!と思い直し明信はこの場にいた女たちに向けて言った。

 

「いまお聞きになった事は、すべてこの明信に任せて下さりませ。事を起こしますのでしばらく春宮さまは不安定になられるかと」

 

春宮さまが落ち着かれるまで、女御さまがたはご病気とか理由を付けて距離を置くように。と言い置いて、明信は宴の席から辞去した。

 

そして、ただちに床に伏せっている桓武帝に宴で聞いたことを報告した。

 

「つまり明信、『いま』安殿と薬子は逢っているというのか!?」

 

急いで女官たちに服を着せてもらいながら桓武帝は蒼白になって聞き返した。

 

「はい…姫君のお話では。ただちに春宮さまの寝所へ」

 

つとめて冷静に報告する明信に導かれて、桓武帝は息子の皇太子と、その義母にあたる薬子の逢瀬の現場に踏み込んだ訳である。


皇太子が妃の母と密通、東宮宣旨薬子追放事件は、たちまち口さがない貴族たちの噂の種になった。

 

「なんでも、裸体でくっつき合っていた現場に帝が踏み込んだそうだよ」

 

「相手は式家の藤原種継の娘だろ?随分思い切ったことをするじゃないか」

 

「自分は人妻だからって…次の帝に近づいた訳か!しかし、皇太子が義母と通じるなんておぞましい」

 

「尚侍明信さまが機転を利かせて現場を押さえさせたそうだ。相手も東宮宣旨という高級女官だ、証拠が無いと追放出来ないからねえ」

 

 

おもしろおかしく飛び交う噂話を振り払うかのように、体格の良い一人の皇子が幼少からの武術の師に遠慮なく棍棒を叩きつけようとする。

 

しかし、師はひょいっと皇子の攻撃を体をさばいて躱し、

 

「足元がお留守になっていますぞ」と自分の棍棒の先で皇子のふくらはぎを叩いてもろ肌ぬいだ皇子の体を地面に転倒させた。

 

師に転がされるのに慣れている皇子は無意識に後ろ受け身を取って後方に一回転して立ち上がると、師の顔を見上げて汗だらけの顔で笑って言った。

 

「お前の鍛錬は相変わらず容赦がないな、田村麻呂」

 

征夷大将軍、坂上田村麻呂はふっふっふ、と苦み走った顔つきに非情な笑いを浮かべた。

 

「鍛錬の時は常に我が身は戦場にあると思いなさい、神野さま。本日はここまで」

 

気がつけば、いつもの鍛錬の倍は時間をかけていることに神野親王は気づいた。

 

それだけ集中していたのだろう。

 

「すまんな、蝦夷討伐で忙しい身であるのに」

 

田村麻呂の上半身逞しい裸体には、いくつかの刀傷が付いている。神野はその傷を見るにつけ、師がくぐり抜けてきた「戦場」というものの凄まじさに思いを馳せるのである。

 

「いいえ、将来の王になられる方を鍛えるのも武官の役目」

 

と服を着ながらちらちら、と室内の方に視線をやる田村麻呂に「久しぶりに姪に会うがよい」と優しく声を掛けた。

 

「有難い…!」

 

この田村麻呂、神野の異母妹で正妻の高津内親王の叔父にあたるのだ。

 

彼の妹、坂上又子が桓武帝の後宮に入って高津を産むが、高津が五歳の頃に若くして亡くなった。

 

神野にとって田村麻呂は義理の叔父でもある。

 

廊下に出た高津と会話をする田村麻呂の、あの嬉しさを隠せない様子ったら!

 

戦場では武神とまで呼ばれる男が、実は姪に甘い叔父であることを知っているのが神野には愉快でたまらない。

 

「では、これで失礼します」と緩みそうになる顔を引き締めて出て行こうとして田村麻呂は、改めて神野を振り返った。

 

「…男子たるもの戦場では勇ましくあるべきですが、一つだけ関わってはいけないいくさがあります」

 

「それは何だ?」

 

「女同士のいくさの場でございます。これから後宮を持つ身の親王さまだからこそご忠告申し上げるのです。

いいですか?女の争いには、髪の毛一本の距離も触れますな…」

 

おい、お前も明信が藤原薬子を追放した。って事件を兵法になぞらえて語りたいか!

 

去っていく田村麻呂の背中を見送りながら、やっぱり根っからの武人であるな。

と神野は感心のため息をついた。

 

実の兄の悪い噂が飛び交って暗い気分になっていた中、田村麻呂に会って結構心が晴れた。

 

お兄さま。と廊下から高津が自分を呼んでいる声がした。

 

急いで廊下から上に上がると「今日から側仕えする女の童が挨拶を、と」ちら、と右斜め下に視線を遣った。

 

…いつの間に傍にいたのだ?

 

神野は廊下で拝跪する女童に、一瞬隙を突かれた?と思った。

 

「確か、明信の親族だと言ったな。面を上げよ」

 

はい、と年の頃十ぐらいの女童はにぱっと笑いながら挨拶をした。

 

明鏡みょうきょうでございます」

 

「傍に子供がいるのは場が明るくなって良いな」

 

と神野は傍らの高津に笑いかけた。

 

これが、神野親王と明鏡との出会いであった。



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