第12話 菜摘12 蜜月

延暦十八年(799)年春、東宮の宮女、伊勢継子いせのつぎこが皇太子安殿の第三皇子、高岳皇子たかおかのみこを出産した。


桓武帝は皇子誕生を大いに喜び、尚侍明信を代理として東宮に遣わし、祝いの品と継子への労いの言葉を賜った。


藤原薬子が東宮宣旨(皇太子付きの女官長)に就いて、藤原葛野麻呂の出世に伴って次の春宮大夫に叙せられたのは、


薬子の夫、藤原継主ふじわらのただぬしであった。


藤の花が腐って散り始めた季節であった。


ひとりの貴族が東宮の庭で春宮坊たちに指示を出す縄主の姿を見つけて足早に近づいた。


その貴人は今年で四十六になるが、皺の無いみずみずしい肌、冠からのぞく髪は黒々として十歳は若く見える。


彼の名は藤原葛野麻呂ふじわらのかどのまろ


彫りの深い顔立ちに鷲の翼のように形の良い眉、少し厚ぼったい唇をした美丈夫で、宮女たちが葛野麻呂さまが来た、と聞くとその姿を見に集まるほど人気のある男であった。


「これは右大弁どの」


と縄主が葛野麻呂に気づいて顎ひげ面を向けると、ほっとしたように表情を緩めた。


縄主は見た目は日焼けしたいかつい容貌をしているが、本当は気の弱い男であった。


我が娘を安殿親王の妃に、と帝に望まれた時には、


「畏れ多いことです…」と最初は固辞していた。


が、妻の薬子に「式家再興のまたとない機会です!」と説得されて、というか押し切られて娘を春宮妃にした。


与えられた任務を忠実にこなし、賄賂も受け取らない清廉な男。と帝の評価は高い。


だが、娘をいずれ天皇の后に…という後宮政治への野望は皆無の、


つまらない男。と姻戚の薬子どのが言っていたのを葛野麻呂は思いだした。


そんな男だから東宮大夫は適職なのに。と葛野麻呂は思って自分の後任に是非縄主を。と帝に推薦した。


「どうですか?春宮坊たちの様子は」


「は、右大弁どのが春宮坊たちの綱紀粛正を行ったお蔭で皆、礼儀正しい者たちばかりです」


春宮坊というのは皇太子の使用人の役割を果たすが、実際は貴族の子弟の出世のための足掛かりとしか思っていない者が多く、


皇太子が幼かったり、凡才だ、と見なしたりすると、はずれの皇子だ。


と陰で馬鹿にしたりいじめたりする愚かな行為が続いていた事が、数年前の舎人殺人事件を怪しんだ葛野麻呂の調査で明らかになった。


安殿さまは立太子なさった十一の頃から八年間もお辛い目に遭われていたのだ…!


葛野麻呂は直ちに調査の結果を報告し、春宮坊たちの審査を厳正にすることを帝に進言した。


「なんということだ!」とお顔を手で覆って嘆く帝に、葛野麻呂は辛辣な一言を奏上した。


「僭越ながら帝、春宮さまが悋気の病を発症なさったのはそもそも、お父君である帝ご自身が、

東宮から目を背け続けた結果ではないのですか?


春宮さまの病を治さないと、次代で朝廷はどうなるか…」と。


帝は何も言い返せず、葛野麻呂に東宮のことを一任する。と詔を下した。


「いえいえ、私は次代の帝を養育し、お守りする、という本来の春宮坊の在り方に戻しただけですよ。

春宮さまのご様子が穏やかなのは、縄主どのの春宮坊への教育が行き届いているからです」


今年四十一になる髭面男が、褒められて生娘のように顔を赤らめる。葛野麻呂はその様子を面白く眺めながら、


やはり縄主はいい男なのだ、と改めて思った。


葛野麻呂と縄主が会話する様子を御簾の向こうから見ている若者が居た。


縄主の妻で春宮妃の母、薬子を後ろから抱きすくめる皇太子、安殿親王である。


「薬子、お前の夫は本当に人がいいのだねえ。御簾の裏で、自分の妻が私とこうしていても何も疑おうとしない」


と言いつつ、薬子の襟元に手を入れて、柔らかく膨らんだ左の乳房を掴んだ。


「およし…くださいませ…」


からだの奥が痺れる感覚に身もだえそうになるのを、薬子は右手の甲を噛んで我慢している。


その様子が安殿にはいじらしくてたまらない。安殿と薬子が男女の仲になって、もうすぐ一年が経とうとしている。


死んだ妃の帯子ほかに異母妹二人と結婚し、宮女三人に子を産ませている安殿は、もちろん女性との交わりは豊富なほうであったろう。


しかし、薬子ほど素晴らしい心映えと躰を持った女はいない。と安殿は確信していた。


「私をお抱きになりたいのなら、まずは他のお妃や宮女に優しくなさって下さい」


と薬子の言う通りにしたら、女たちは最初は驚き、次第に優しく身を寄せて来るようになった。


そして先月、可愛がっていた継子と間に高岳が生まれた。


久しぶりの皇子の誕生で東宮は喜びに満ち溢れている。


父帝も、これで跡継ぎの心配は無くなった、と喜んでくれている。


こうして自分が薬子と通じている以外は。


何がいけない?薬子は東宮宣旨としても優秀で、他の妃や宮女をうまく取りまとめてくれている。


自分も心が穏やかになった。


「ねえ薬子、こんなにも女人が愛しいと思ったのは、愛し愛されて幸せだと思ったのは初めてだよ。


おまえは私とその周りを癒してくれた『良薬』なのかもしれないねえ…」


安殿さま、と薬子はまぶたに口づけをくれる安殿の頬を温かい手のひらで包んだ。


「いけません、化粧が落ちますわ」


と薬子は安殿の目を真っ直ぐに見つめ、にこっと野の花が開くように笑った。


ああ、その笑顔がたまらないんだ…!笑顔の美しい女に悪い女はいない。


たまらず安殿は、自分の唇を薬子の紅をさした唇に押し当てて、そのまま薬子を抱いて倒れ込んだ。


二人が事に及ぶ光景を、小さな体を戦慄させて見ている者がいた。


几帳から垂れた衣に隠れていたその者の姿に、互いのからだをむさぼり合うのに夢中の安殿と薬子は気づかなかった。


やがてその者はそおっと几帳から次の間へ続く廊下まで足音を忍ばせ、次の間へ入ると、母親と乳母のいる間へ一目散に走って行った。


父上と薬子って、なに!?


安殿の第一皇子で数えで八つになる阿保親王あぼしんのうは、胸の奥のどきどきをどうしても止められず、乳母に発見されるまでその場にうずくまっていた。


「皇子さま、どうなさいましたか?」


「なんでもない」


「ですが息切れがひどうございますよ」


「なんでもないと言っている!」


いけないものを見てしまった、という自覚が幼いながらも阿保にはもうあった。


そしてこの体験が、阿保の心に一生暗い陰を落とす…。

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