第11話 菜摘11 賀茂のタツミ

「ほう、確かにはた氏からの紹介状だな」


と勤操から預かった書状を開くその男は、威張りくさって岩の上に腰掛けていた。


白い上着と袴に草鞋を履いただけの簡素な恰好をした垂髪の男は、年齢は見た目三十四、五というところ。


凛々しい眉に真っ直ぐで高い鼻梁を持ったいい顔立ちなのだが、野生の獣のような油断ない目つきで真魚を見下ろしている。


「おかしら」と周りの者たちから呼ばれているのでこの男が葛城山の修験者の頭領なのであろう。


真魚はというと白装束の四、五人の者たちに囲まれ、両手を縄で縛られ、完膚なきまでに打擲ちょうちゃくされて頭領の前に引き出されている。


「悪い悪い、打擲は挨拶代りだ。俺はこの山の頭領、巽(タツミ)という。ま、よろしく頼む」


何もなかったかのように、タツミはからからと笑った。


「まず、打擲、という挨拶は聞いた事ありまへんな…」


体中の痛みをこらえて真魚が声に怒りをにじませて皮肉を言った。


なぜ真魚がこんな目に遭ったかというと、


ええと、そろそろ集落みたいなもんが見えて来る筈やけど…と勤操から渡された地図を頼りに葛城山の頂上に向けて登る途中で、


六根清浄、六根清浄…と囁く声が山林の奥から、そしてどんどん近づいて自分を取り囲んでいる。なのに人の気配を感じない!


濃い葉陰の中で陽の光がちらつく。真魚は本能的に畏れを感じ、全速力で走り出した。


脚では誰にも負けへん!山中で盗賊に襲われないための護身術を勤操から叩き込まれている真魚は、走りながら心の中を空にした。


そして、自分に一番近い気配を感じ取った。


(あたしらから逃げるなんて生意気な私度僧だねえ)と、焦った声で真魚に追いつこうとする小柄な白装束の姿が木々の隙間から見えた。


そこだ!


真魚は白装束の人影の、右肩のあたりに自分の杖を打ち込んだ。くっ…と白装束が自分の杖を取り落す。


六根清浄!!


ばきっ!と背中を棒のようなもので叩かれ、次いで顔を頭巾で隠した白装束の者が杖で真魚のみぞおちを突いた。


「ばかめ、複数で取り囲んでいたことに気づかなんだか?」低い男の声が、真魚の背後に振りかかる。


こいつらが、修験者?と思ったと同時に真魚は意識を失った。



「しかし、修験者に一撃食らわせるとは大した男よ。おまえ余程修行を積んでいるようだな」


タツミの前で縄を解かれ、真魚は怪我の治療のために葛城山頂ちかくの集落にある一番大きな家屋に入れられて、


真魚はたでという若い男から上半身裸にされ、打撲の治療を受けながら言われた。


「先程、お前が一撃食らわせた修験者、実はわたしの妻でな。わたしも逆上してお前を強くぶってしまった。許せよ」


蓼は年は真魚と同じ二十代半ばであろう。目が細く、眉が濃く、いつも口元に穏やかな笑みを浮かべている。


蓼に数種類の薬草をすりつぶした膏薬を真魚の背中に塗り付けれらると、たちまちすうっと背中の痛みが引いていく気がする。


「今日中はうつぶせ寝で過ごされよ。あなたなら二、三日で回復する」と蓼は水の入った木の器を真魚の枕元に置いた。


彼は、都の僧侶や尚薬(薬剤師)よりも優れた薬草と医術の知識を持っている。と真魚は室内にずらっと干されている薬草の束を首だけ上げて眺めながら、思った。


「あなたはわたしから、医術と薬草のことを、外の者からは田畑の作り方や灌漑、木工(建築)を学ぶ」


蓼どの、と真魚は自分が修験者に抱いていた、修験者はただただ己を鍛錬するだけの修行ぐるいの集団。


という先入観をこの集落に入ってから「自分が見たもの」で一変させていた。


「ここの人びとは、山を守る外の人びとは恐い修験者たちだが…中に入ると普通の人びとばかりですな。


妻や子を持ち…皆、溌剌と笑い合っている。都の人よりも」


そうだよ、とタツミが薬草部屋に入って真魚が寝そべる横に片膝ついて座った。


「子供が多いことに気づいたか?」


「はい、二、三人の大人が、十数人の子の世話をしている。親がいないのですか?」


「そうだよ。あの子たちは、数年前の長岡棄都のとばっちりで親に棄てられた子たちだ」


真魚の脳裏に、あの長岡京の洪水で流された者たちの、骸の光景が蘇る…


おもいっきり顔を上げたので、背中にまた激痛が走った。


「まあ、俺たちは、だいたい女帝持統の御代からこの山で孤児たちに読み書きや木工、農作など『生きるための全て』を教えて


十五になったら旅立たせる。みんな開墾、木工、貴人の家来など、人の役に立つ人間になるよう育てている。ここに残って俺の手伝いをするのも自由だ」


自由…都を出て山林修行に入り、ようやくつかみかけた自由というもののかたちが、ここにはあるではないか!


「まあなんだ、朝廷の政治のしくじりで増えた孤児の面倒を見ることで、俺たちは朝廷からお目こぼしをいただいている。


…そういう所なんだ。なあ真魚、出家と在家の違いは何だと思う?」


「それはまあ出家は在家と違って肉食妻帯せず、寺で講義したり山で修行したり…」


「どっちが、『ふつうの暮らし』だと思う?」


…あ!そうだ、学び、成長し、働いて家庭を持って子を作り、育てていくのが娑婆ではないか!


ふつうの、人間の暮らしではないか!


出家した者が在家を見下すのがおかしいんや…出家前に、戒明さまがわしに見せたかったものはこれか。


「気が済むまでここで学ぶといい。俺はお前に修験道と体術を教える」


「すんまへん、僧侶にこれ以上の体術は必要は…」


「お前、虎に喰われたいか?」


わざと恐い声で、タツミは言った。


「は?」


「海の向こう、唐には虎という熊よりも俊敏な生き物がいる。論語に出てくるだろう?虎は、人を喰う」


「いえ、だから話がよく見えまへん。いきなり唐って言われても」


「知らないよなあ、朝廷では二十数年ぶりに遣唐使を送る話が持ち上がっている。お前、戒明じこみの唐語を役に立てろ」


タツミさま、わしに遣唐使になれと仰ってるのか!?


「しかしまだ正僧にもなってへん自分が…」


「問答無用、あさってから修行をつける」


立ち上がって出て行くタツミの姿を眼で追うだけの真魚に、蓼はくっく、と笑いながら声を掛けた。


「心配するな、お頭はあなたを気に入ったようだ。…しかし修行は厳しいぞ、覚悟しろよ」


と言って薬草入りの粥を器にすくい、真魚の枕元に置いた。


「食べなさい、力を養うためだ」


あさってからの生活に八割の期待と二割の不安を感じ、真魚は苦い粥をすすった…



断崖絶壁の淵に、真魚は立たされていた。


垂直に切り立っている崖の下から吹く風が、ぴゅーっと真魚の前髪を巻き上げる…


自分の腰には頑丈に作られた縄が巻かれている。さらにその縄は背後の樹の幹にしっかりと括りつけられているし、


自分の後ろでタツミと蓼が縄を持ってくれているので、飛び降りても遜色はないだろう。


しかし…人の肉体は死ぬかもしれない環境に置かれると、自然と体が動かなくなるものなのだ。


「どうした?さっさと飛び降りちまえよ」


タツミは苛々とした声を真魚の背中に投げつけた。


「お頭、初めての吊るしではこんなものですよ…無理せずご自分の覚悟で飛んでください」


蓼が真魚の足の震えを見て優しく声を掛ける。


この修験者二人は、いい方こそ違え崖から身を投げろ、と促しているのである。


葛城山から南東の方角にあるここ山上ヶ岳(大峯山)で、「西の除き」と呼ばれる修験者の荒行を真魚は今まさに準備万端。


あとは死んだ気になって飛び込め。


「そそり立つ絶壁から命を断つ覚悟で身をのり出し、仏の世界を覗く修行です」


と蓼に説明された後、腰縄をつけられ、タツミに背中を押されて崖っぷちに立たされた。


「あの…これは落ちたら死ぬ高さですよね?」


だから何?と言いたげな表情で、二人の修験者は真魚の言葉を聞き流した。


「万が一縄が切れでもしない限り、安全は保障する。その縄は船を港に繋げる縄と同じ作りで丈夫だ」


ゆっくりと振り返って、真魚は聞かずともよいことを尋ねた。


「あの、わしが飛んで切れたりしたら…?」


「それまでだ」


無表情でタツミは答えた。


それまでって!?途端に両脇の下から汗が噴き出した。


「あ~…勤操から荒行叩き込まれてると聞いてたんだが、がっかりだな。おい真魚、もし自分から飛び降りれたら、面白い事教えてやる」


「面白い事、でっか」


四の五の言わずに、飛び込め!


頭の奥で、勤操の声が響いた。ああ、わしはあの人に崖から蹴り落とされて仏道修行の道に入ったんやった…


震える足を無理矢理腰から動かし、真魚は大股で崖の淵の先に地面があるかのように歩き出した。


目は開けたまま、三歩目で真魚のからだは宙へ歩き出した。かのように蓼には見えた。


たちまちぐん!!と縄が伸び、タツミと蓼は渾身の力で真魚の重みを支える。


縄を伝って崖下を覗いたタツミは、真魚が両手両足を広げてまさに宙に身を預けた姿勢で


「思ったよりいい眺めでんな~」と楽しそうに揺れてぶら下がっていた事に結構驚いた。


成程、空を飛ぶとはこんな気分か。なんと気持ちのいい…!


そして「おまえなかなかいい度胸だな、見直したぜ」と真魚の体を引き上げながらにいっと歯を見せて笑った。


ああ…こいつは叩き甲斐がある、とお頭思ってらっしゃるな。と蓼は内心真魚を気の毒がった。


「教えてくれるっておっしゃった、いいこととは何です?」


と崖上に戻って腰縄を解いた真魚はタツミに向き直って聞いた。


「むかし、戒明と勤操も修験道の行でここから飛び降りたんだが…


戒明は俺が突き落とすまで動けないままだったし、勤操に至っては飛び降りた時、白目剥いて気絶した。


という訳でお前、お師匠二人の弱味を握ったな」


次は俺が飛ぶ。と言ってタツミは自分の腰に縄を括りつけて真魚と蓼に「必死で支えろよ」と低い声で命令すると、


崖先に向かって軽やかに走り出し、真魚と同じ大の字になって


「わはははははは!」と笑いながら宙に踊り出した。


身の丈六尺近くはあるタツミの体は予想通り重く、真魚の時の倍近くの力でぐぐん!と伸びる縄を引いて、蓼と真魚は必死で地面に踏みとどまった。


「どーだー?空も、地面も、風も、我が身を受け止めてくれる。最高だろ~?」


「…お頭は、荒行しすぎて恐怖心が磨滅なさっているのだ」


高笑いしつづけるタツミをよそに、蓼が真魚にほとほと呆れた顔をしてみせた。


「おかしらぁ~、いつまで吊られていなさる?こちらは疲れてきましたぞ…」


「あ、悪い。自分で上がって来る」


とタツミが崖の岩肌を自らよじ登って顔を見せた時、何という腕と足の力か!これが究極の山岳修行者、修験者なのか。


と今まで自分がやってきた行の生ぬるさを真魚は思い知った…

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