第10話 菜摘10 葛城山へ
今夜は、朧月夜ですな、山部王(桓武帝)さま。
あなたも新都の内裏でご覧になっていますかな?拙僧が大安寺を出て早や十五年。
この頃よく、思いだすのですよ。平城京であなたさまとご学友の種継さまと語り合った若き日を…
「奈良の僧で話せるのはお前ぐらいだ、戒明」とよく種継さまを連れて私の所へ遊びに来て下さいましたね。
あの頃のあなた様は皇族とはいえ先の壬申の乱の負け組、天智帝の子孫であられたので皇位からはほど遠い漢学者。
種継さまは名門藤原式家に生まれながらも、伯父の広嗣どのが起こした乱のとばっちりを受けて三十過ぎまで無位無官であられた。
「大体、仏教と政治が近づき過ぎたから腐敗が起こるのだ!」
と若い頃はよく酒を飲み、議論なさってましたね…
拙僧が遣唐使に任命されて唐へ渡る時にも、「絶対生きて帰って来るのだ!」と涙を流されて握ってくれたお手の力強さを、まだ覚えていますよ。
十年後、唐から帰って来た頃にあなた様が天皇になられていたから驚きましたぞ。
そして若き日に思っていたこと、仏教と政治の分離を、長岡遷都という物理的な手段で行いましたね。
しかし、造京を任されていた種継さまは暗殺され、拙僧は、新しい仏教を伝えようとしたものの奈良の高僧たちの反発を買い、自ら寺を出ました。
奈良の僧たちは、変わることを拒否しました。人を救う務めを忘れて、安穏とした地位にしがみつくことを選んだのです。
あなた様の判断は、強引ですが間違いではなかった。拙僧はそう信じていました。
種継さまの死から数日経ったあの夜、一人の若い女人がこの庵を訪れ、真相を聞かされるまでは…
山部王さま、あれから十三年経ちました。さぞお独りで苦しみを抱えていらっしゃることでしょう。
もし苦しみに耐えられなくなったら、その時は拙僧をお呼び下さい…
「戒明さま」
と崖の上で月を眺める戒明の背に真魚が「夕餉の支度が整いましたぞ」と声を掛けた。
「煮炊きの上手いお前を弟子にして良かったよ、真魚。しばし一緒に月を見よう」
老僧と若い私度僧は並んで、やけに大きな朧月を眺めた。
不意に真魚は、故郷の母が言っていたことを思いだした。
「母が言っていました。美しい月を眺め過ぎると、魂を奪われると…昔から伝わる迷信ですが」
「お前、今日は大安寺の勤操のところに行ってただろ。叔父どのに送った文の首尾はどうか聞いたか?」
真魚が去年の冬に書いた家族との決別宣言の手紙は戒明の添削を何度も受けて春先に完成した。
ちょうど都に用があるから、と勤操みずから、平安京に住む叔父の阿刀大足に手渡した。
大安寺の勤操の部屋で「あの…文を読んだ叔父の様子はどうでしたか?勤操はん」
と真魚が珍しく上目遣いになって聞くと勤操はぐっふっふ、と性格の悪い笑みを浮かべた。
「お前にも頭の上がらん人物がおると思うと愉快や。様子?そりゃ激怒しとったで」
やっぱり…と真魚は天上を見つめて嘆息した。
「文の内容を要約すると、儒教よりも道教よりも仏教のほうが優れている、という結論やからな。
学者の大足どのは自分の生き方全否定されたようなもんや。そりゃ怒る。
しかし、文を読み返して叔父どのの態度が変わった。
なんて面白い物語なんだ!と何度も膝を打って気になる箇所ごとに肯き、
感情に任せて書いている感があるが、三教比較論としては優れている。大学寮にいる頃より、格段に真魚の学力が上がった!
学者の自分が仏教に負けた、悔しい!と泣きながら床を叩いてらしたよ。
無理もない、長者がならず者の甥を更生させるにはどうすればよい?
と儒教、道教、仏教の師を招いて相談するという話の流れに、わしも引き込まれた一人や。
お前、面白い文を書くなあ」
「それで、出家する許可は?」
「ああ、快諾や。なにせこの大安寺の勤操が出家の世話してやると言うたからな」
と勤操は袈裟をずらして肩をそびやかした。
このおっさん…もう四十半ばになるのに出会った頃と全然変わってへんな、と真魚は苦笑いしながら思った。
「しかし、あの序文の『私は虚空蔵求聞持法を満行した時、辺りが轟き、明星が体に入る体験をしました』って…
お前まだあの行はしてへんやろ?」
「はあ…お前がやるのはまだ危険だから、と戒明さまに止められています。この一文は、どうも戒明さまが虚空蔵求聞持法を満行なされた時の神秘体験だそうで」
そこや!と勤操は小気味良く文机を叩いた。
「叔父どのの心を特に動かしたのは序文のそのくだりで、真魚はもうそんなに激しい荒行が出来るようになったのか!
と僧侶になる許可をしたんや」
「私は実は書きたくなかったのですが…
理論で凝り固まっている学者の心を動かすには、神秘体験をうそぶけばいい。
と戒明さまに言われて仕方なく」
「あのじいさん
と勤操がぼりぼりと顎を掻いて、そや、と何か思いだして事前にしたためていた紹介状の文を真魚に渡した。
「これは?」
「虚空蔵求聞持法をやる前に、是非『ある人物』の所へ行って修行するように。とじいさんから言われているやろ?」
「はい」
「わしの実家は渡来人の
「大陸から来た、寺社づくりの上手い一族ですね?確か伊勢神宮づくりにも活躍したと」
「かなり昔の、伝説にも近い話やけどな…秦一族は、ここ大和国の山岳地帯に縄張りを張る賀茂氏とつながりを持っている。
この文は、わしの実家が賀茂氏の許可を得て書いた紹介状や。おまえ、これ持って葛城山へ行け」
葛城山!?と真魚は絶句した。
「葛城山は修験者の道場やないですか!?」
百五十年も昔からあの一帯は、お上もうかつに入れない修験者たちの溜まり場だと聞く。
「仏道の者が入ってもいいのですか?」
「だからその紹介状持たせるんや。おまえ、手ぶらで入ったら命は無いで」
修験者ってそんなに荒くれ者なのか…と役行者の伝説を思いだし、真魚は身ぶるいした。
そんな真魚の反応を面白がりながらも勤操は、あの戒明に修験道の行を許されるなんて、真魚はどこまで化けるのだろうか?
もしや最澄以上の逸材なのかもしれない、と思い始めていた。
「荒行の達人、タツミさまに会えたらわしの事よろしく言っといてくれ」
そう言って戒明は真魚の肩をぽん、と叩いた。
「戒明さまも、もしやそこで?」
昔の話さ、と老僧は月明かりの中で目を細めた。
「さ、明日は葛城山行きだ。これ以上月の光を浴びてはいけない」
と悪戯っぽく言って夕餉の匂いのする庵に戻った。
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