第9話 菜摘9 東宮の魔女

庵にも、冬が訪れた。


「さて真魚」

 と戒明と勤操が並んで座り、きびしい顔つきで真魚の目を見つめた。

 

「お前はここで仏道修行に入って早や四年、山岳修行に明け暮れ、山のかたち、日の動き、星の運行で自然のことわりを己が身で学んだ」

 

「仏教の経典も、この勤操が出来る限りの手を尽くし、各寺に入れて読んで覚えた

…最初はすぐに逃げ出すと思うたが、お前はよくやった」

 

さて、と老僧と中年の僧は声を揃えて問うた。


「俗世と決別し、仏の道に入る決心はついたか?」


「はい」

 真魚にもう迷いは無かった。庵の戸の隙間から流れ込んでくる風の冷たさが、頬に心地よかった。

 

「では、家族に文を書きなさい。お前の強い決心を気持ちのままに書くのだ」

 

「特に、叔父の大足どのを納得させる内容でなきゃ、な」

 急に表情を緩めて、勤操はぎゅっと片目をつぶってみせた。

 

延暦十六年(797年)十二月、佐伯真魚は出家の決意表明である長い長い文を書き始めた。

 

これが、日本初の戯曲「聾瞽指帰ろうこしいき」となる。

 

翌年の春、新都平安京の内裏の一室でひとりの女官がこっそりと、みずら頭が似合わない位背が伸びた少年に巻物を渡していた。

 「こんなことして、お前が父上に叱られるのではないか?明信みょうしん

 

と言いながらその巻物を受け取り、早速広げて読み込むのは十二歳になった神野親王である。

 神野が明信に頼んで持ってきてもらった書は、この時期、禁書扱いされていた「万葉集」であった。

 

なぜ、万葉集が禁書にされたのか?

 

それは選者の大伴家持おおとものやかもちが十三年前の藤原種継暗殺事件の首謀者として扱われ、万葉集も宮中に没収されたからである。

 

だから宮中の書庫から万葉集を取り出して皇子に読ませるなどというのは、いくら桓武帝のお気に入りの女官明信であっても、厳しいお叱りを受けてしまうのではないか?

 

と神野が明信の心配をするのは、当たり前の事であった。

 

「いいえ、親王さま。帝は親王さまの『宮中に居て民の心を知る術は、万葉集を読むしかないのに』というお言葉に納得され、

書を読ませるだけならいいではないか、しかし、こっそりとな。と仰せでしたよ」

 

本当か!と神野は久しぶりに笑顔になった。いつも一緒に遊んでいた異母弟の大伴親王にも専属の養育係が付いて、会える頻度が減ってしまった。

 

仲の良かった藤原三守も年明けに元服し、儀式や宴には以外あまり会えなくなって神野は寂しさでうつむく日々を過ごしていた。

 

「なぜ三守に会えないのか?」と明信に問いただすと

 

「親王様と三守どのでは、ご身分が違うのですよ」と口調は優しいが、厳しい現実を伝える答えが返って来た。

 

「お聞きください、三守さまはお優しくて学業優秀ですが、生まれは藤原南家の五男。従六位ではみだりに宮中に上がれません」

 

「親王の私が呼びつけてもか?」

 

「浅葱の袍(六位以下の文官の服)で宮中に来て周りにいじめられるのは、三守どのですよ」

 

とまで言われた神野は、周りの侍女たちが心配してしまうくらい元気が無くなってしまったのである。

 

さすがにその報告を聞いた父桓武帝は、「そうか、三守は従六位下で元服したから滅多に会えなくなるな…書を読んで寂しさが紛れるならいいじゃないか」

 

と書庫の中から万葉集を一巻ずつ渡して、読んだらすぐ明信にだけ渡すのだぞ、という条件を付けて神野に読書を許可した。


数年後、桓武帝は息子に万葉集を読ませたことを激しく後悔する…。



この女は、こんなに艶めかしかったか?

 

皇太子安殿こうたいしあて親王は暗い室内で灯火に照らされた女の胸元に、思わず目をやってしまった。


愛していた后、藤原帯子ふじわらのたらしこが逝ってしまって四年近く経ったある日、父桓武帝が

 

「そろそろ新しい妃を迎えてはどうかね?朕も不遇にある式家の娘を助けたいのだよ…」

 

と有無を言わさず押しつけられた新しい妃は…まだ十二の子供ではないか!

 

自分のそばですうすう寝息を立てる幼い妃の寝顔から目を反らし、安殿は絶望的なため息を吐き出した。

 

無理もない。安殿は二十四歳で病弱ながらももうとっくに大人なのである。

 

顔は母の皇后、乙牟漏に似て色白で端正なのだが、目元がいつも神経質そうに引きつっている。

 

安殿は生来感情の振り幅が激しく、具合がいい時は快活な青年なのだが、ひとたび激昂すると誰彼かまわず暴力を振るい、舎人たちが押さえ付けるまでそれは止まない。

 

后の帯子が早逝したのも、安殿の世話に疲れてお命を縮めなさったのだ。とか、いや、ご自分からお命を絶ったのではないか?と宮中では噂されている。

 

ここ東宮では皇太子として形だけは丁重に扱われているが、裏では、

 

「ああ…早くあの安殿さまのお世話から解放されたい!」

 

とこぼす者ばかりである。

 

私の理解者は、春宮大夫(皇太子の使用人の長)の藤原葛野麻呂ふじわらのかどのまろだけだ。気まぐれな私に何度殴られても根気よく仕えてくれる。

 

「大丈夫です。春宮さまは皆が噂するような暗愚な方ではございません。ご病気であろうと帝の周りの貴族がしっかりしていれば政治はうまく回っていくものなのです」

 

とにっこり笑って私の手を包んでくれた。その時葛野麻呂の頬には痣が付いていた。

 

失礼、といって懐紙で鼻血を拭う葛野麻呂の様子を見て安殿は、

 

生まれて初めて人に対して済まないことをした、と思ったのである。

 

思えば死んだ叔父の早良の代わりに立太子したのが十一歳。

 

東宮住まいになり父母から離され、使用人の春宮坊たちから「今度の皇子さまははずれだな」とは半分馬鹿にされて育った。

 

ある日、「おっと失礼」とわざとぶつかってきた春宮坊の態度が許せなかったので、怒りに任せて「無礼であるぞ!」とそいつの刀を抜き、腹を刺した。

 

思ったより多くの血を地面に垂らしてその春宮坊は死んだ。

 

それから馬鹿にされることは無くなったが、「早良様の祟り憑きの皇子」として周りから恐れられるようになった。

 

后の帯子も心根は優しい娘であった。いくら頬をぶたれても、背中を蹴られても「私が悪いのですから」と許してくれた。

 

しかしある日突然、几帳台に胸紐をかけて、自ら首を吊って死んだ。

 

ああ…自分のせいなのか、とその時も安殿は深く傷つき悲しんだ。

 

帯子を愛していた。が、自分の暴力を自分で止められないのだ。

 

私からうまく逃げ回ればよかったものを。耐えた帯子も、死んで私から逃げたのだ。帯子も悪いではないか。

 

自分は皇太子なので、面と向かって叱る相手が安殿には居なかった。それが、自分は悪くない。自分を苛々させる周囲が悪いのだ。

 

という身勝手な思考回路を安殿は構築させていく要因となった。


疳気かんき(ヒステリー)の病を治すのは自分自身でございます。我儘が過ぎるから周りが離れていくのですぞ!」

 

と初めて自分を叱ってくれたのは父帝ではなく、帯子が死んで間もなく春宮大夫として自分に仕えるようになった葛野麻呂であった。

 

全部、自分のせい?本当の事を言われると人は激怒する。その時も「うるさい!」と葛野麻呂の頬を強く打った。

 

前の春宮大夫や春宮坊たちは「失礼しました」とそそくさ逃げるのに、葛野麻呂だけは違った。

 

子供を慰めるように両手を包んで「あなたは暗愚ではない」と初めて人から心をこめた言葉をかけられたのだ。

 

なぜか、安殿の頬には涙が伝い落ちていた。

 

「悪かった。これからは怒らないようにする」

 

ああ、人に謝るのもまた、生まれて初めてだった。

 

それから安殿の暴力は次第に減っていった。弟、神野が生まれてから愛情と期待を弟に注ぐようになった父帝も、

 

「そうか、病気が収まって来たのなら少しは期待してもよいのか、な?」

 

と時間を見つけては自分に会いに来てくれるようになった。

 

しかし、父帝の「期待」が、安殿には重苦しかった。

 

私はやっぱり孤独だ…東宮に閉じ込められて、私の暴力癖が収まったからと、今度は藤原式家の幼い姫を私に押しつけた。

 

なんでも昔、暗殺された種継の孫娘というのだが、父上はむざむざ死なせてしまった腹心の孫と自分をくっつけて、罪滅ぼしをしたいだけではないか?

 

人形のような可愛らしい娘と添い寝するだけの夜がひと月以上続いた。

 

寂しい夜を過ごしてもしょうがない。今夜は気に入っている宮女、伊勢継子(後に高岳親王を産む)のもとへ行くか…

 

と夜着のまま床を離れて立ち去ろうとした時、

 

「お待ちください、退屈でしたら娘の代わりに話し相手にはなれましょう」

 

と幼い后の母親が鈴の鳴るような声で話しかけてきたのである。

 

娘の介添役として付いてきた女。最初は、地味な女だなと思った。

 

この時までろくに顔を見たことも無かった。

 

「話し相手か…面を上げよ」

 

その女が、は、と畏まって下げていた頭を上げると、はだけた胸元から見える胸の谷間に、目が引きつけられた。

 

なんと肌理の細かい肌だ、と安殿は思って女の顔に目を遣ると、そこにはとても三十過ぎとは思えぬ若々しく美しい女が、

 

自分を見て微笑んでいるのである。

 

ああ、女人の笑顔とはかように美しいものなのだな!と安殿は女の前に座り、「さあ、どんな話で私の憂さを晴らしてくれるのかな?」と問いかけた。

 

はい、と女が安殿の耳元に唇を近づけて囁いた言葉は、「何だって!?」と安殿を恐れ慄かせるものであった。

 

「そんな馬鹿な…いや、『ありえなくはない』、考えてみれば何もかもおかしいのだ、あの事件は…

死後七十日も経った大伴家持が、首謀者だなんて強引な処分をなさると当時は思っていたが」

 

「種継の遺児であるわたくしは、ある人物から真相を聞かされました」

 

そう、長岡京からこの平安京に移って四年。全ての忌事の原因は早良親王の祟りとして「処理」されてきている。

 

種継暗殺事件から十三年経ったいま、新たな疑念が貴族たちの中にあったが、それを口にすれば命が無い。

 

安殿の胸の奥で何かがひびを立てて割れ、そこから生まれた漆黒に、心の全てが吸い込まれるような気がした。

 

ああ、心が、無くなって行く…

 

「親王様、お辛いことは何もかもわたくしが忘れさせてあげます」

 

と女は安殿の手を取り、親王の小指を優しく噛んだ。

 

安殿はいつの間にか女を押し倒していた。嬉しそうな悲鳴を密やかに女は上げた。

 

強引に女の上着をはぎ取り、見た瞬間から、その白い肌に顔を埋めたい!と思っていた通りのことを安殿は実行した。

 

陶器のように滑らかで、温かく柔らかい女の体中を触り、息を弾ませて女の体にのしかかった。

 

忌まわしい話を忘れるには、目の前の女に溺れるしかなかった。

 

「女、名は?」行為の最中の安殿は女の名を問うた。

 

「く…薬子くすこと申しま…す…」喘ぎ声を手の甲で抑えながら、藤原薬子は答えた。

 

安殿と薬子は、一晩中房事に耽った。母親と夫の声に気づかないほど、后である姫は熟睡しきっていた。


藤原種継を暗殺したのは、桓武帝。


と聞かされた夜から、安殿の人生は狂い始める。

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