意
父が死んだ。
だから当然、これで俺は自由になれる。
俺は父を嫌っていたわけではない。むしろ好きだったし尊敬していたし今でも好きだし尊敬している。だが、だからこそだ。だからこそ俺は、父の存在が疎ましかった。
これでようやく、この島のやつらを皆殺しにできる。
しかも、己が手を汚さずに。
俺は今、島唯一の小学校である掌小学校の目の前の電柱の上で爪先立ちをして子供達を待っている。目当ての顔は覚えている。島で一番の金持ちである未来川家の一人娘、もうすぐそいつを誘拐する。そいつは今校庭にいる。
俺はこの島で生まれ育った。
俺はこの小学校にいけなかった。
俺はこの島から全く出たことがない。
あ。
鐚。
今日は新月。
絶対に殺す。
――これだけは忘れていけねぇかいね。お前は、みんなを守らねぇといけねぇかいね。
絶対に殺す。
――お前は、ここから出ちゃいけねぇ。絶対に、いけねぇ……
絶対に、この島から出る。
お父さん。
死んでくれてありがとう。
そして、ごめんなさい。
今は、どんな戒めより、この傷が、この額の傷が、疼きます。
破戒の傷です。
「鐚が来たかいね! 鐚が!」
「お、本当にかいね。――ああ、なんて穢らわしいことかいね、見てみい、あんな臭ぇのに二本の足で歩いてやがるかい。人様のつもりかいね、鐚ごときが」
「鐚かい! 鐚が歩いてんなら足に石投げろ!」
「母ちゃん、鐚も脛当たったら痛ぇかいね?」
「やってみい、当たったらその石に触れちゃだめだかいね! ばい菌が伝染るかいね!」
帰路につく七歳の俺の脛に、手のひらぐらいの石が当たった。
だけどこの島で七年、こうやって蔑まれてきた俺は馴れた。痛くない。第一俺の肉体はそんなものには何も動じないのだ。
「あれぇ、あいつ、脛に当たってもびくともしねえぞ! 怖え!」
「だからさ、腐ってんだよ、死体みてえに」
痛くない。
「お、鐚だ」
「くせえ」
「あいつ、死んでるらしいかいね」
「生きてんのにかい」
「生きてんのに死んでるんかいね、だからどんな傷つけても、悪いことはねえかいね」
「ほぉう、それ、――あ、本当だ、全然悪い気はしねぇな」
「どこ当たった?」
「せなか、ねぇ先生、なんで石当てても悪い気がしねぇんだ、道徳の授業とちょっと違うかいね」
「違ぇよ、そりゃ、豚を食べても罪悪感はねぇかいね、蠅を叩いても罪悪感はねぇかいね」
「それと同じかいね?」
「同じ同じ、あいつは君らと同じぐらいの歳さ、だけど、あいつは君らとはぜんぜん、まるきっきり違うかいね、あれは鐚だ。人じゃねえ」
「でも人の形してるね」
「誰だ今のは」
「……」
「……いいかいね君たち。自分たちと違うものを、違うと言えないのは、だめだかいね。それじゃあいい大人にはなれない。覚えとくかいね、違うものはむしりとらなきゃいかん」
「はぁい」「はぁい」 「はぁい」「はぁい」「はぁい」「はぁい」「はぁい」「はぁい」「はぁい」「はぁい」「はぁい」「はぁい」「はぁい」「はぁい」「はぁい」「はぁい」「はぁい」「はぁい」
「いい返事だ、じゃ列を正して、教室戻るかいね」
痛くない。
さっきの石は胸に当たった。
だが痛くない。
12歳の俺。
痛くないのだ。
「あ、また鐚だ」
「久々に見た、相変わらずくせぇかいね」
「どうせまた汚れてきたんだろ」「なあ、ところであいつ男だろ」「たぶんな」「チンコあんのかいね?」「あるだろう」「当てていいかいね?」
「それはいかんと言ってるかいね!」
「冗談かいね」
「あいつの性器だけはいかん、あれ潰したら、俺らの先祖はみんな……」
「わかってる、わかってるかいね!」
「お前のはシャレに聞こえないかいね……」
「八百屋は真面目だなぁ、だから嫁に逃げられるんだよ」「もう五年も前の話かいね!」「すまんすまん、ははは」
「お前、今日野球部は」
「今日まで休み……しかし、久々に投げたいかいね」
「テスト期間か」
「もう明けるよ、だけどなんか、全体的にイマイチだったかいね。イライラするから、これにしよう」
痛くない。
17の俺。
痛くない。
痛くない。
痛くない。
痛くはないが。
涙が出た。
額に、レンガが突き刺さって、血が出て、でも痛くなくて、
涙が、出た。
「お……」
「な、おい、立ち止まったかいね」
涙が出るんだ。
痛くないのに。
涙が出るんだ。
「お、おい、さすがにレンガはまずかったんじゃないかいね」
「こっち睨んどるかいね……」
「どうする、こ、殺されるかもしれねぇよ」
「ば、ばか、さすがに! さすがにそんなわけは、そんなわけはないかいね!」
「わかわかわからないかいね、初めてのことだだだ40年ここで生きてきてて鐚ににに睨まれんのは、初めてかいね、はじはじ初めてかいね」
「あ、焦りすぎだ八百屋さん! だから嫁に――」
「うるせぇ!! 元はお前のせいだかいね! 殺されんのはお前だけで充分だかいね!」
騒ぎを聞いて人が来る。
「くせえ!」「くせえな!」「くせえかいね」「おぇっ、気持ち悪い!!」だが人はどんどん集まってくる。俺はずっと立ち止まっていて、ずっと涙を流して、人々は、その俺の周りを囲んでいる。 俺はずっと同じ場所を睨んでいる。すでに八百屋は気絶し球児は泣き叫んでいるが俺はまだそいつらを睨み続けていた。その時、何を思っていたかは全く覚えていない。覚えているのは涙だけだ。血と混ざらず、ほんとうに綺麗な、透明な涙だった。
何分ぐらいたっただろう。血は止まった。球児ももう気絶した。殺気か、あるいは俺のにおいか、周りの人も何人か倒れ始めている。「巡査さん、あんた早くなんとかしてよ」「わかってるかいね、わかってるかいね、待つかいね、ま、待つかいね……お、おーい……あ、あ、鐚~。その辺でか、帰れ~……く、くさいからぁ~」「いい加減にしてくれんかいね! 巡査さん! うちの魚にくせえにおいでもついたらどうするかいね!」「うちの酒もだかいね!」「ばか、酒は元からくせえだろ!」「ああん!? だれだ! ああ、なんだ中内の野郎か、下戸が、僻んでやがるかいね!」「んだとぉ!」「やめんかいね二人とも!」「巡査さん、そんなバカたちよりあっちどうにかしてよ!」「雄爾! 雄爾! ああ、可哀想に……おいっ! 鐚! 雄爾に泡噴かせやがって、許さん! 許さんがいね!」「よしなよあんた、こっち来たらどうするかいね……」「うるさい! 殺す! 殺してやる!」雄爾とはこの球児の名前か。「息子になにかあったら、殺したるがいね! 鐚!」
ああそうかい。俺が悪いのかい。俺を殺すのかい。なら俺から殺してやるよ――
「ごらぁ! 香夜ぁ!」
空から俺の名前を呼んだのは俺の父、一月火偶夜だった。
「お前、あれほど言ったのに! ああ、こんなにして!このばかやろうがぁ!」と言って、俺の頭を小突く。初めて痛かった。
周囲は騒然としている。「ああ! 親子揃っちまった、親子揃っちまったとこ見ちまったかいね!」「目が腐る! 目が! 腐るかいね!」「くせえ!くせえ!くせえ!」嘔吐するもの、気絶するもの、慟哭するもので八百屋の前は溢れかえった。「地獄かいね、この世の、鐚地獄かいねぇっ!!」だがその地獄から逃げ出そうとする者は、不思議といなかった。
「すみません、こんど弁償するかいね」弱々しい笑顔を浮かべた父は、辺りを見渡して言った。
「いらんかいね!」
すると、黒塗りの車からサングラスをかけているハゲじじいが降りてくる。「そんな穢らわしい金!」
「これはこれは、未来川様……」
「喋るな、くさい!」
未来川様――つまり、今俺が電柱の上から見下ろしている標的の父親だ。
「娘に毒だかいね! とりあえずここから早く去ね!」
「は……」父が俺の手を握る。これから飛ぶのだ。
「……いや、待て」
「は」
「やはりなにかしてもらうかいね」
「は」
「土下座だな」
「!?」これは俺だ。
「土下座してもらおうかいね」
「土下座ですか」「そうだよ、俺は寺田さんが気の毒でならんからのう、寺田さん、あんたんとこの雄爾も死んではいねえから。こいつに土下座させんので多目に見ねえかいね、なあ! 他のみんなも!」
島はいまやこの未来川家が意のままに動かしている。人々は何も答えない。ということは賛成を意味するのだ。
「さあ、土下座しろ」
「……」
……父さん。
待ってくれ。
「土下座しろ」
する必要なんて、
「しろ!」
衆目の前で土下座する必要なんて、
「早くしろ! 鐚!」
息子の前で土下座する必要なんて――
「なっ」
「香夜ァ!」
なにかを察知した父は、そう叫ぶと、膝をつき、前にかがみ、手と頭を土に、深々と、着けた。
ここから見える。あそこがその場所だ。「天野八百屋」が、あの涙と屈辱の場所。冷たい土。
絶対に殺してやる。
――正確にはな、俺らの「あ」は、こう書く。
父はまだ俺が幼くて町で石を当てられて泣いて帰って来たとき、俺を慰めつつ、そう教えてくれた。そこには「鐚」と書いてあった。
――さらに言うと、いいかいね、本当は鐚は俺らじゃねぇ。
「ちがうの?」「ああ、鐚っていうのは、俺らが1ヶ月に一回、やっつける、まあ菌みてぇなもんの名前かいね」「きん?」「ああ、菌って、まだよくわからんか」「きんってどう漢字書くの」
「ん? 興味があるかいね?」
「うん」
「じゃ、今度の誕生日に辞書でも買ってやろうかいね」
「じしょ? じしょってどう漢字書くの」
「ふふふ、辞書にはな、そういうのも全部載ってるかいね」
「全部?」
「そう」頭を撫でて、「全部」
俺はもうこの辞書の内容は全て覚えた。
俺は「菌」も「辞書」も、全部調べた。
俺は「鐚」のほんとうの意味も調べた。
【鐚】
――びた
――質が悪く、価値が低い貨幣
俺たちは、価値の低い銭だった。
――いいかいね、俺ら一月家が代々倒してんのはな、この鐚という、まあ、空気みたいな、菌みたいなもんかいね。
「どっち?」
「それはわからん」
「わからんのかいね?」
「うん、でも、ここからが本題かいね、いいね、一月家は14になったらこれを知らないといかんかいね」
「わかった」
「うん、まず、確かなこと」父はピッと人差し指を立て、「まず、俺らは代々この島、掌島を守っている」掌島、たなごころじま、一瞬納得しかけたが、
「ちょっと待つかいね」
「なに」
「なんで俺らがこの島守らんといかんかいね!」
「香夜!」思えば、父に怒鳴られたのはその時が初めてだった。「なんてこと言うがいね!」
「だっておかしいかいね、こんな島、俺らに石と枝と砂と卵ぐらいしかなげて来ないかいね!」
「食べ物は戴いてるかいね!」
「その、戴いてる、っていうのもやめろ!!」俺も初めて父にあそこまでキレた。「たかだかあんな芋ばっかりで……こんな島、守ることなんてないかいね!」
「それが伝統かいね、香夜、お前は、ご先祖様がここまで耐え抜いてきた歴史を、13代目にして壊す気かね!」
「壊れちまえ、そんなもん!!」
沈黙。
その後、
「香夜……お前、狂っとるかいね」
「狂ってんのはマゾなお父だろう」
「いんやぁ、お前は狂っとる……お前には嫌な予感がするかいね」
「そうかい」
【近代的自我】
――近世以前の封建的、宗教的、社会的な枠組みから独立した自己の存在
「……狂っとるのはとはいえ、お前が俺の唯一の息子なのには変わりねぇかいね……鐚とは何か、教えてやる」
「……」
「鐚ってのはな、悪意だ」
「悪意?」
「そう、悪意を具現させたようなものだな」
「それを俺らは代々、倒すのかいね」
「倒すというか、刈り取るというか、まあそういう感じだ、それを1ヶ月に1回、新月の日に殺すかいね」
「それを倒さなきゃどうなる?」
「殺し合う」
「え?」
「島民が次の日、全員で殺し合いを始めるかいね」
最高じゃないか。
つまりだ、俺はこの島の奴を全員殺したい。そして殺せる。これに書いてある術は読んだ瞬間に全て覚えた。こんな島のやつら一晩で殺戮できるだろう。だけどもだ、俺の手は汚れはする。俺は本土で、普通の人間として普通な生活がしたいのだ。孤島の二百人弱とは言え大量殺人者が普通に暮らせるとは思わない。何が普通なのかというとこれ以外――唯一人間扱いされないようなこんな生活、これ以外だ。それなら話が早い。この島から出ればいい。
今日は新月。
こいつらを殺したい。
それなら話が早い。
この島から出ればいい。
あと俺に必要なのは――『鐚』と書かれた文書を全て破り捨てる。あと俺に必要なのは、血をたちきる覚悟、近代的自我。
そして――
下校時間だ。
やるぞ。
未来川の家に行くのは簡単だった。未来川の一人娘が下校する道を、屋根を伝って追って行く。娘を乗せた黒塗りの車が、ばかデカい門の前で止まって、ピンクのワンピースの娘が運転手に導かれて降りてきたところで俺も着地。まず運転手を後ろから気絶させて、娘を捕獲。そのまま屋敷に入っていく。抱えられた娘はビエービエー泣き叫んでいるが袖が濡れるぐらいなんでもいい。さぁ、一発かましたれ。
「誰かいるがいね!」
「はい……え、あ、お嬢様!?」
「家主呼べぇ!!」
「え、あ、か、え」
「早く呼べ!!」
「はひぃっ!」
来る。ハゲ。
「あ、ああ! お前は!」
「うるさい! このみす…娘の命がなぁ! 惜しかったら、惜しかったら!」
「話せ!」
「うるさい!」そうだ、ナイフかざすの忘れてた。「娘切るがいねぇ!」
「た、あ、あ、あわ、あ」
「金出せぇ!」そうだ。最初からこうすれば良かったんじゃないか? 「早くしんがいね!」最初からこれぐらい悪党のフリなら、もっとしとけば良かったんだ。考えてみれば、こいつらは俺に石を投げるとき股間だけは絶対に狙わなかった。ということは俺ら一月家はこの島で必要で、何をしたって必要で、こういった激しめの金の無心も、どんなことでもやっていいはずだった。全ては血のはせいだ。近世以前からの血が俺らを歪ませたのだ。「い、いかほど……」
「20万」
「20万?」ハゲはきょとんとする。「20万ですか?」「そうだ!」「し、少々お待ちを……」「渡されるまでこの娘は離さんがいね!!」
あ、そうだ、これも忘れてはいけない。
「待てぇ! 電話貸せぇ!」
「で、電話ですか」
「そうだぁ電話だ!」
「廊下に、廊下にありますぅ」
「よし、連れてけ!」あった。「離れろぉ!」「はいぃっ!」深呼吸。離れろと言って廊下には俺と娘がいる。が、まぁ、こいつに聞かれるぐらいは良いだろう。
「もしもし」
「へぇ、もしもし」
「舟を出して貰いたい」本土の舟屋である。
「へぇ、いつ頃で」
「明日の朝、四時頃だ」
「四時ですかぁ?」「金は多目に払う」「へぇ……わかりました、じゃあ四時に迎えに行きます」「うん、頼んだ」この状況にしては俺は冷静だった。娘は泣き叫んでいるが。
「20万は!」
「はいぃこちらです!」1万円札の束が二つ。「数えろぉ!」
「……18、19、20、20万、ありますっ!」
「よし! このバック持ってきてつめえ!」
20万の入ったバックを手にとって娘を放した後、天井を突き破って、飛ぶ。すぐに山につくが、警察などはもちろんいない。そりゃそうだ。今日は新月。俺がいなければいけないぐらいわかっている。
甘いな。
もう守らねーよ。
12時。外に出る。
空を見上げると、「鐚」が浮かんでいる。なるほど、聞いていた通り、虹色の雲だ。
――夜が明けると、虹色の雲から虹色の雨が降る。それが降って、空気になって島を覆ったら、覆われた人は人を殺さずにはいられなくなるかいね。
良い気味だ。
存分にやってもらおう。
存分に、殺し合ってもらおう。
船着き場にて、四時を迎えた。舟屋は三十分ほど遅れてきて少し焦ったが夜はまだ明けていなかった。虹色の雲は、少しずつ重みを増しているようだった。
「蕗坂でいいんで?」舟の中から舟屋の眠そうな声が聞こえる。
「ああ、頼む」
「へい」
舟に乗りながら、少し寝て、起きると夜が開けていた。
轟音で目が覚めたのだ。
「なんだぁあれ」舟屋が甲板に出る。と、
「……あ? あれ、あの島、なんか火ぃ上がってねぇ?」
はね起きて俺も見てみる。
島が燃えていた。
あの炎の下で、みんな死んでいる。
あの炎の下で、みんな殺されている。
意志は一つだ。
あの炎を、俺は待っていた。
「お客さん、なんか島、燃えてるけど、いいんで?」「大丈夫だろ」向き直って、「きっと誰かが消してくれるかいね」
俺は言い知れぬ幸福感に覆われている。
「あれ、お客さん?」
「なんだ?」
「あんた、ちょっと泣いてねぇ?」
俺は言い知れぬ幸福感に覆われている。
遠くに、町が見えてきた。
あ 泥塊山人 @oura
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