第2話 ミョルニルはプラトンを語れない②
森を小一時間ほど歩いて、大きな道に出た。
そこから少し外れたところに立っていた山小屋のような一軒家がミョルニルの家だ。ニーチェによって建てられ、以来数年間、彼女は一人で暮らしていたらしい。その家に通された畔は「どうぞなのです」と出されたホットミルクをちまちまと飲みながら、彼女の話を聞いていた。
彼女の話を総合的にまとめると、この世界はやはり『剣と魔法のファンタジーワールド』のようだ。ただし、もう魔王という絶対悪は存在していない。あるのは、俺がいた現実世界と同じ国家間や宗教間での対立や、人間が人間を食い物にするようなものばかり。
正直うんざりした。
ファンタジーでもそういうものがあるのか、と。
「ニーチェはこの世界に来ていたのか……」
フリードリヒ・ニーチェは肺炎で亡くなる数年前に発狂し、精神病院へ送られたという記録がある。彼が、この世界とたびたび交流を持っていたとしたら、そういう精神的な狂気を抱いたとしても不思議じゃない。
なにせ、この世界の理屈は、俺達が認識している現実世界とは乖離しすぎているのだから。
「ニーチェは、先生の名前じゃないですか」
「俺はニーチェじゃない。だいたい、どう見ても日本人顔だろ。彼はドイツ人だ」
「んん……たしかに顔は若すぎるような。でも、魂がそんな感じですよ」
「魂ねえ」
本当にそんなものがあるとしたら自分の魂はどんな色なのだろうか、薄汚れた泥色か。畔は自虐的に思った。
「ミョルニルはニーチェ様に教わった言葉を今でも覚えているのです」
「難しいことはわからないんじゃなかったのか?」
「一つだけなのですよ。えっへん」
「威張って言うことではないな」
村娘の格好をした少女ミョルニルは、腰に手を当てあごを突き出している。
この子と話していると、どうも明るい気分になってしまう。
どうしてこんな世界に飛ばされてしまったのかとか、本当に自分は死んでいるのかとか、そんな問題を棚上げしたくなる。
「その言葉ってなんだ?」
「人生なんとかなるで、うっしゃー!」
「……ニーチェがそう言ったのか?」
「はい」
虚無主義を唱えた彼の言葉とは思えなかったが、それはニーチェのことを知らないからだろう。
そもそも虚無主義――ニヒリズムだって神に頼らず自分の価値観で生きていこうと言うものだったし、彼は案外楽天主義だったのかもしれない。
「……俺とは正反対か」
「あの、ニーチェ様は本当にニーチェ様ではないのですか?」
「畔だ。そう呼んでくれ」
「畔……様」
探し人ではなかったからか、ミョルニルの顔がしゅんとしてしまった。
女性の扱いに慣れていない畔は、しばらく彼女を見つめた後、壊れ物でも触れる手つきで彼女の頭を撫でた。
「ふぇ?」
「あ、えっと……。ごめんな。ニーチェじゃなくて」
「温かくて大きい手のひらです」
「そうか?」
「ニーチェ様も、ミョルが落ち込んでいると撫で撫でしてくれました。大好きでした……」
「そっか」
この世界に来てしまったのはきっと理由があるはずだ。誰かに引き寄せられたのか、はたまた彼女の言う『ニーチェ』に連れてこられたのかもしれない。
ガタン。木戸が突き飛ばされるほどの勢いでドアが開いた。
「鐵学武器ミョルニルはいるか! 我らは魔王討伐連合である!」
そのぞんざいな言葉と共に、数人の男がミョルニル宅に入り込んできたのだった。
『鐵学者ニーチェはそんな武器を使わない』 ふとん箱 @hutonbako
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