『鐵学者ニーチェはそんな武器を使わない』

ふとん箱

第1話 ミョルニルはプラトンを語れない①


 甘い匂いにも種類があるモノだが、牧瀬畔まきせほとりが感じたのは花の匂いだった。

 風に乗って香ってくるのだ。

 ――ん? 風?

 違和感を覚えて飛び起きてみると、そこは六畳ワンルームの自室ではなく森の中だった。背の高い木々が立ち並んでいる。開けたところに日が当たり、そこだけ花畑になっているみたいだった。


「どこだ、ここ?」


 どこか現実味のない光景にしばし呆然としていると、遠くから聞いたこともないような鳥の声が聞こえて、慌てて我に帰る。

 ともかくここがどこなのか思い出さないと……。

 畔が一番記憶に新しいのは、自室の天井だった。

 ぼんやりと見つめている。

 なぜか体は動かない。地震があったことが思い出せた。

 たぶんすぐに収まったんじゃなかっただろうか。

 震度にして三か四くらい。縦揺れではなく、普通の横揺れだった。

 そうして、だ。


「そうだ。高く積んでいた哲学書が落ちてきて……」


 落ちてきたそれらに押し潰されてしまったのだ。

 ぷちっ、と――。

 記憶は連なり、畔は自分の最後の瞬間をはっきりと思い出せた。

 初めの一冊が後頭部に当たったのがたぶん致命傷だったのだ。それから体の自由が利かなくなって、あれよあれよという間に本がのしかかってきて、意識が遠のき、そして……


「ここにいたというわけか」


 畔は花を蹂躙するように大の字に寝た。

 ここがどこかという謎が解けたのだ。

 ここは、つまり死後の世界。地獄か天国かってやつだ。


「つまらない人生だった」


 ぽつりと呟いた言葉に、ふふとほくそ笑んでしまう。

 なぜ生きるのかなぜ死ぬのか。自分たちはいったい何のために生きているのか。本当にこの世界は存在しているのか。誰が存在させているのか。

 形而上のことばかりに気を取られ、気がついてみれば就職浪人になっていた。

 いや、就活なんてしている振りに過ぎなかった。

 ありたいに言って『ニート』だった。


 周りの人間は、楽しく生きていた。

 でも、畔にはそれが納得できなかったのだ。

 ――自分が本当に生きているのか。それさえ疑わしきものだったのだから。


「死んでみて、ようやく生きているという確証が得られたわけだ」


 畔にはそれが本当におかしくてしょうがない。

 一人でむせび泣くほど、彼は笑っていた。


「あの、すみません。ニート様ですか?」

「ニートに様なんて付けるのは誰だあああ」

「すすすすみません。ニーチェ様……でしょうか?」


 ニーチェだって?

 あの、ドイツの哲学者、フリードリヒ・ニーチェのことか?


「やっぱりそうだ! ニーチェ様」

「いや、俺は……」

「わたくしです! 覚えていらっしゃいませんか?」


 赤いずきんをかぶった幼い女の子が、鼻息を荒くしているではないか。

 ずきんの下には黄金のような蜂蜜色の髪を束ねている。その目は青くて大きい。肌はミルク色で、まさにおとぎ話の中の女の子だ。

 年はたぶん中学校に通っているか通っていないかだろう。

 もちろん、彼女は人ではない。なにしろ背中に長い柄が付いているのだ。

 ……柄、か。

 天使や悪魔だったら翼が通説だけど、実際は持ちやすそうな柄が付いているのかあ。

 畔は、なんとなく夢を壊されたような気がした。


「ええと、髪は死んだ、でしたっけ?」

「ニュアンス! 髪じゃなくて神だっ!」

「おおお鉄板のギャグですね! やっぱりニーチェ様だ!」


 ニーチェはそんなギャグで世のお父さん方のヘイトを集めていたのか。

 

「ってか、俺は牧瀬畔。ニーチェじゃない」

「またまたぁ~ですよぉ~」

「ニーチェみたいな立派な哲学者じゃないよ」

「なにを言いますか。ニーチェ様は立派な勇者様じゃないですか」

「……勇者?」

「はい。魔王を倒した伝説の鐵学者ニーチェ。この世界の至る所までその名は知り渡っていますよ」


 ん、待て。

 聞き捨てならない単語が出てきたぞ。


「魔王とか勇者って……まさか、ここ、魔法とかあるような世界?」

「魔法? なにを言っているんですか、普通にありますよ」

「じゃ、じゃあ、ここは死後の世界じゃないのか?」

「死後って、もしかしてまた永劫回帰のお話ですか? ミョル難しいことわからんのですよね。神は死んだ、はギャグとして覚えていましたが」


 頭がこんがらがってきた。

 とりあえず、これだけははっきりさせておこう。


「お前、天使とか悪魔じゃないのか?」

「ニーチェ様ってば、自分で作ったくせに、もう忘れてるんですから。ほら背中のこれ見てくださいよ」

「柄……だよな」

「はい。持ちやすい感じのそれです」

「つまりお前は?」

「鐵学式魔道武具が一人、ミョルニルハンマーのミョルです☆」


 余計に頭がこんがらがってきた……。


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