第17話

 マタンは礼儀正しく頭を下げると、背中を向けて去って行った。それへ手をのばすが届くはずも無い。追いかけようと思ったが、まだ水汲みの最中だ。水は半分ほど入っているが、これを持って追いかけるか、どれとも置いていくか迷っていると、マタンの姿は見えなくなっていた。

「……くそっ!」

 ジルエットは苛立ち紛れに水を汲むための桶を拳で殴った。

 水を満杯にした壷を持って帰ったジルエットは、家に到着するとどっと疲れを感じてそのままベッドへ倒れた。そのまま眠りに落ち、数時間後に目覚めた。すでに太陽は姿を隠そうとしていた。

 食事を作るのも億劫になり、ジルエットの夕食は朝のパンの残りと、自分が持って来た干し肉の残りと、今日をもらったピクルスをそのまま食べた。塩抜きをしていない干し肉は塩辛く、ピクルスはかなり酸っぱかった。

 舌に残る味を消すためにお茶を飲もうとした所で、自分が茶葉を持っていないことに気付いた。幸い水は先程汲んできたところなので、それをカップに汲んで飲む。

「……マタンに茶葉を譲ってもらおう」

 あんな頼みを聞くのだから、そのぐらいは当然の報酬だ。そう思いながらもジルエットはため息をついた。

 翌日、ジルエットは昨日よりいくらか遅くに目が覚めた。しかしまだ朝である。寝ぼけた目がじょじょに開いていく。

「……とりあえず、パンをもらいにいくか……」

 今日はパン屋に行く間に何人かの村の住人と出会った。全員が女性だ。どうやらパンをもらいに行くのは村では女性の仕事らしい。彼女達と適当に朝の挨拶を交わして到着する。

 今日は袋を持って来たんだねとパン屋の女将に言われながらパンをもらう。膨らんだ袋を肩にかけて建物の外に出たところで立ち尽くす。

「どうするか……」

 もう少しで学校が始まる時刻だろうかと考える。やはり自分が教師として誰かに教えるなんていうのは不可能ではないかと思えた。家に戻ろうと一瞬足が動いたが、そこで停止する。頭に浮かんだのはプーレのことだ。

 プーレは学校に興味があると言っていた。あれはつまり村の学校の授業には、すでに物足りなくなっているという事の表れなのだろうか。あの時話していた笑顔を思い出し、マタンのプーレに言っておくという言葉も思い出した。

「……プーレは私を待っているのだろうか?」

 しばらくその場でじっと立ち尽くしていたが、やがてジルエットは歩き出す。それは学校のある方向だった。

 学校へ到着すると、ちょうどマタンが教室へ入ろうとしているところだった。マタンはジルエットを見ると、口元の笑みを大きくする。

「来てくれたんですね」

「私にできるかわからないが、とりあえずやってみようと思う」

「では、これが少し難しい読み書きの教科書と、こっちが算数です。今日も算数から授業を始めます。あ、そうでした。プーレ君は算数が苦手なので、そっちの教科書は今の教科書が終わってから使うようにしてください」

 ジルエットは渡された教科書をじっと睨んだ後、小さく頷いた。マタンはにこりと笑うと、教室の扉を開いた。

「おはようございます、みなさん。今日も騎士様が来てくれました」

 マタンの紹介に、生徒達が騒ぎだす。それをマタンがすぐに静かにさせた。

「プーレ君」

「あ、はい。何ですか?」

「あなたは後ろの席へ行って、そこで騎士様から教えてもらってください。他のみんなはいつも通り私が教えます」

 その言葉にプーレは目を丸くし、他の生徒達は不満や驚きの声をあげる。一番大きな声を出しているのはリーヴルだ。マタンは手を叩く。

「プーレ君だけが騎士様に教えてもらえるのはなぜかというと、みんなより勉強をがんばっているからです。みんがプーレ君と同じぐらいがんばれば、騎士様に教えてもらえます。わかりましたか」

 生徒達は一斉に「はーい」と返事をした。リーヴルは羨ましそうに隣のプーレを見ていた。プーレはその視線に気付かず、まだ目を丸くして固まっていた。

「では、騎士様」

「……わかった・おい、プーレ。いつまで固まっているつもりか」

「はっ! あ、そのっ、ジルエット様……」

 ジルエットは無言で教室の一番後ろの席へ向かう。その後ろを慌ててプーレが追いかける。焦りすぎたため椅子に足を引っ掛けて倒れそうになった。そこでマタンに注意されて、すみませんと謝る。

 着席したジルエットは、物憂げに頬杖をついてこちらへやって来るプーレを見た。その顔はガチガチに緊張している様子が見て取れる。歩く足の動きもぎこちない。

 こんな状態でちゃんと勉強できるのかと不安に思ったが、その口元は弛んでいた。その事にジルエット本人も気付いていなかった。


 最初はプーレが緊張しすぎてまともに勉強できなかった。話をするのと特に変わらないだろうとジルエットは呆れる。何も教えることができないまま、算数の授業は終わった。

 休憩時間になると、周囲を子供達に囲まれて質問攻めにされる。昨日は出入り口に近かったためすぐに逃げれたのだが、今日は遠かったため無理だった。

 次の授業は読み書き。この時にはなんとかプーレの調子が戻ってきて、ちゃんとした受け答えができるようになった。やはりプーレは読み書きに関して子供達より数段先へ進んでいるようだった。難しくなった教科書でもついて行ける。それでもジルエットら、高等教育を受けた人間とはかなり差があるが。

 最後の授業は昨日と同じくマタンに前へ呼ばれた。今回は生徒達からの質問に答えるというものだ。矢継ぎ早の質問攻撃に目を回しながらもジルエットはそれに答えた。

 こうしてジルエットの教師生活一日目が終了した。


「こんにちは、姫騎士様」

「ああ」

 村人の挨拶に、ジルエットは軽く手をあげて答える。無表情ながら口元はすこし笑みを浮かべていた。村を歩くジルエットは、ときおり出会う村人と挨拶をする。

 ジルエットがコション村に派遣騎士として来てから、すでに一月が経過していた。当初では考えられないほど村に馴染んでいる。これはジルエットが教師の真似事を始めたことの思いがけない効果だった。

 きっかけはリーヴルがジルエットと一緒に昼食を食べたと他の生徒に喋ったことだった。それを聞いた生徒達はみんな「ずるい!」「うらやましい!」と抗議したのだ。自分達も姫騎士様と一緒に食事がしたい、と。

 それから学校が終わった後、毎日それぞれの生徒の家で昼食を食べることになってしまった。人付き合いが苦手なジルエットは最初は渋っていたが、マタンの説得もあって彼女は了承した。

 幸いなことにどの家庭もジルエットを温かく迎えてくれた。数回もおじゃますればジルエットも慣れてくる。そしてこの食事のために家へお邪魔するという行為は、図らずも彼女の仕事を進めることにもなった。

 その仕事とは、村の人口を調べて人頭税の額を調べるというものだ。村では食事をほとんどが家族で一緒に食べる。食堂や食べ物を売っている屋台などが無く、調理できる場所がそれぞれの家にしか無いのだから仕方が無い。なのでその食事に混ざれば、その家庭の家族構成がわかるのだ。

 とは言っても生徒の数は十人ほどだ。村の全ての家庭に子供がいる訳ではない。しかしその昼食の噂はすぐに広まり、いつの間にかジルエットは村の家で昼食をとることになってしまった。コション村の総世帯の数は少ないので、一月もあれば全部回ってしまう。

 そういった理由で、ジルエットはコション村の総人口を精確に調べることができた。人頭税を計算してみると、これまで村が払ってきた金額とほとんど変わらない。それどころか少し多いぐらいだ。

 では他のジルエットの仕事はというと、はっきり言って無い。治安維持目的に見回りをするなど、馬鹿馬鹿しいほどにコション村はのどかだ。盗賊も辺境すぎて周囲に存在せず、危険な獣もオークが数多くいるため村に近づいてこない。

 騎士の真価はその腰の剣を振るう技術だ。しかし今のところそんな機会は起こりそうになかった。ではジルエットは何をしているのか。

「おお」

 ジルエットは思わず目の前の光景に感嘆のつぶやきを漏らした。

 わいわいと話し声が聞こえる。その中に子供のかん高い歓声も混じっていた。

 前方に広がる広大な小麦畑。その穂はたわわに実り、陽光を受けてまるで黄金の絨毯だ。そこに村のほぼ全ての住人が集まっている。さらには百ほどのオーク達までもがいた。

 今日は村の最大の仕事、実った小麦の刈り取りを行うのだ。

 ジルエットが歩いていくと村人達も気付き口々に挨拶をする。それに小さく手をあげた。

「姫騎士さまー!」

 ジルエットの姿を見つけて、リーヴルが走ってくる。他の子供達も同じく駆け寄ってきた。体当たりしてきた小さな体を抱き止める。

「ははっ。今日も元気一杯だな」

 その笑みは心からのもので、一ヶ月前初めて学校で子供達と接していた時とはまるで違っていた。ジルエットはまるで昔からこの村からいたかのように子供達から慕われている。

 それは偉い騎士様という感じではなく、仲の良い知り合いのお姉ちゃんへ対するような扱いだったが、それをジルエットが気にすることも無い。純粋に慕ってくれる子供達を彼女は好きだった。

「こんにちは、ジルエット様」

「ああ。プーレか。なかなか壮観だな、これは」

「はい。村人全員ですから」

 ジルエットは何度か自分の親が管理する領地の小麦畑で刈り取り作業を見ていたが、それに比べても感嘆する光景だった。畑の広大さもあるが、百ものオークが並んでいる光景も凄まじい。オークはどれも三メートルを超える身長を持っている。

「今日でなるべく多く刈り取らなければな」

 時刻はすでに午後だ。刈り取りの用意で午前中が終わったからだった。空はよく晴れていて、ここ数日は雨も降らないだろうという天気だが、もしもがある。とは言っても何事ものんきな村人達だ。急ぐ様子も無い。

「そうですね。商人さん達が来る前に収穫しないと」

 プーレが真面目な顔で頷く。

 毎年収穫時期になるとコション村へ商人が商隊を連れてやってくる。日程が決まっているわけではないが、おそらく数日から十日後ぐらいに来るのではないかと村長は考えたため小麦の収穫を始める事にしたのだ。その村長が声をあげた。

「それじゃあ皆の衆、小麦の刈り取りをはじめるかの」

 村人達は一斉にめいめいの返事をすると、手に鎌を持って小麦畑へ向かう。子供達も同じだ。しかし、その手に何も持っていない者たちがいる。オークだ。

「……話には聞いていたがすさまじいな」

 ジルエットは感心半分、呆然半分の心地でその光景を眺めていた。それはオーク達の収穫風景だ。

 オークはその逞しい腕で、持てるだけの小麦の束をつかみ、そのまま持ち上げる。成長した小麦は、根とそれに絡まる土ごと引き抜かれた。ではそれをどうするかというと、オークは千歯扱きへかける。

 千歯扱きは巨大な櫛のような見た目をしていて、その櫛の歯に小麦の束を通して引き、穂先の実を削り落とす道具だ。村人達も刈り取った小麦の束を千歯扱きにかけている。

 村人達が使っている千歯扱きと違い、オークの千歯扱きは倍以上大きかった。小麦の束の大きさに合わせるためだろう。オークが小麦の束を引くと、うるさいほどの音をたてて穂先から実が弾け飛ぶ。

 千歯扱きの下には大きな布が敷かれ、そこに大きな木製の入れ物が置いてある。そこに落ちた小麦が入るのだ。それに入らなかった実も回収するために布はあった。

「僕達も行きましょう」

「そうだな」

 ジルエットは腰の剣を鞘と剣帯ごと外し、地面へ置いた。騎士にとってありえない事だ。騎士にとって剣は命と同じであり、勤務中は剣を外す事なかれと規則にもきちんと書いてる。しかし今のジルエットにとって、剣を帯びたままでは小麦の刈り取り作業に邪魔だということの方が問題だった。

「よし、行こう」

 ジルエットは鎌をまるで剣のように構えるとプーレに笑顔を向けた。

 彼女の服はプーレや他の村人達と変わらないものだ。これは村人から贈られた服だった。貴族というのは身なりをとかく気にする人間だ。ジルエットもかつてはそうだったが、コション村で過ごすうちに身なりに無頓着になっていった。何しろそんな見栄を張る相手がいない。貴族は自分以外存在せず、他は辺境の農民だ。

 粗末な服を着て、剣も帯びず嬉々として鎌で小麦を刈る。その姿は紛れも無く農民だった。ジルエットにその自覚は無い。

 二時間ほど作業をして休憩になる。ジルエットは額に浮いた汗を手ぬぐいで拭いた。すでに夏は近く、かなり気温が高くなっている。半袖の村人も多い。

「ふう……」

「お疲れ様です」

 プーレが水の入った木製のカップを持って近づいてくる。そのカップを受け取り、半分ほどを一息で飲んだ。プーレももう片方の手に持っていたカップに口をつけ、美味しそうに水を飲む。

「今年はずいぶん作業がはかどっていますね」

「そうなのか?」

「初めて見るジルエット様には分からないかもしれませんが、前より広く刈り取りができています。これもジルエット様のおかげでオーク達みんなが作業できるからですね」

 プーレは尊敬の目でジルエットを見ながら言う。その視線が照れくさく、思わず顔を横に向けた。頬が赤くなるが、刈り取り作業で上気していたため目立つほどでは無かった。

「そんなに褒められるような事ではない。ただ、少し知っていることを話しただけだ。それを実行したのは村人達なのだから」

「それでも、それを知っているだけですごいです!」

 プーレはジルエットから直接勉強を教えてもらえるようになってから、彼女を過剰なまでに尊敬するようになっていた。おそらく自分と一才しか年齢の違わないジルエットが、比べ物にならない知識量を持っていることに感銘を受けたのだろう。それが元々彼女へ持っていた尊敬や憧れを加速した。

 照れているジルエットの様子に気付かず、プーレは話を続ける。

「オークに引かせる農機具があるなんて、僕は全然知りませんでしたから」

「本当は馬か牛に引かせるんだがな」

 ジルエットは定期的に村の巡回をしていた。巡回というより散歩だが。なぜかというと、暇だからだ。午前中の学校が終わると、ジルエットは特にする事が無い。そういう訳である時小麦畑へ足を向けた際、オーク達の作業を見ていてふと思いついたのだ。

「なぜオーク達は鍬を使っているのだ?」

 そう質問すると、村人は畑を耕すのに他にどんな道具があるのかと問う。ジルエットの故郷でも鍬で耕す姿を見たことがあるが、こういう広い場所では馬か牛に農機具を引かせていたと教えた。その見た目と使用方法などを、農民ではないので見た記憶だけで説明すると、村人は大工であるティッキーの元へ走っていった。

 するとあっという間にティッキーがやってきて、ジルエットからその農機具のことを根掘り葉掘り質問してきた。その剣幕に困惑しながら拙い知識で答えると、チィッキーは風のように去っていた。それからティッキーはその農機具の作成に没頭する。そして数日後にはそれが完成していた。

 農機具は見た目は千歯扱きと同じ様に櫛状である。ただ歯の向きが下向きだ。その歯を地面へ突き刺し、馬や牛に引かせることで地面を耕す。

 コション村に馬も牛もいない。しかしそれ以上の力持ちがいる。オークだ。

 農機具の大きさはジルエットの知っている物より、呆れるほどかなり大きかった。しかしオークはその重さをものともせず、いとも簡単に畑を耕してみせる。その効率は鍬で耕すときとは比べ物にならないほどだった。

 それまで畑が広大すぎるため、刈り取り時期になってもオーク達の半分ほどは残っている畑を耕さなければならなかった。しかしこの農機具を使用すると、あっという間に耕し終わり、オーク達は全員小麦の刈り取り作業をできるようになったのだ。

「それに、あの農機具のおかげでもっと畑を広くできます」

 プーレはそう言って小麦畑では無い場所へ目を向けた。そこは新たに開墾されている大森林の光景があった。作業の効率が上がったため、新しい畑を作ろうということになったのだ。

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