第16話

 マタンの一言で教室が一気に騒がしくなった。

 片手をあげる者、両手をあげる者、立ち上がって何かを叫ぶ者。そんな喧騒が暴風のように荒れ狂い、教室は混乱状態だった。

 あまりの騒ぎにジルエットは目を丸くするしかない。マタンが手を叩き、静かにしなさいと注意するが、なかなか騒ぎはおさまらない。幼い子供達のパワーは無限だ。

 しばらくしてやっと静かになる。そこで勢いよく一人の生徒が手を挙げた。

「はい、リーヴルちゃん」

「姫騎士さまに絵本をよんでもらいたいです」

 そう言ってリーヴルが取り出したのは、あの姫騎士の旅シリーズの一冊だ。この前あれだけ読み聞かせてあげたのに、あれだけではまだ満足できなかったようだ。

「リーヴルちゃんがこう言ってるけど、みんなはどうかしら?」

 マタンがそう問いかけると、全員一致で賛成だった。

 子供達にとってジルエットは本当に姫騎士そのものなのだ。そんな彼女に姫騎士が主人公の絵本を読んでもらえるというのは、それほどまでに巣晴らし出来事だった。

「じゃあ、騎士様に絵本を読んでもらいましょう」

「ワーイ!」

 教室に歓声がはじけた。ジルエットは乾いた笑いを漏らすことしかできない。駆け寄ってきたリーヴルが差し出した絵本を黙って受け取る。それは姫騎士とお供の少年騎士が盗賊や悪い王様をこらしめる話のものだった。

 期待に満ちた視線に身じろぎもできないまま表紙をめくる。ふと視線をあげると、プーレまでもが子供と同じ様に輝く目で見ていた。子供ではないたった一つ違いの異性から向けられるその視線に、反射的に頬が熱を持つ。あんな目で見られたことなど一度も無い。

 ジルエット・ブルジェオン、十六歳。恋愛経験は無く、初恋もまだである。


「……疲れた」

 ジルエットは教卓に顔を押し付けた状態で、体を預けている。その姿は誇り高い騎士とはかけ離れた情けない姿だ。それを揶揄するのではなく、労わりのある微笑で見ていたのはマタンだ。

「素晴らしい授業でしたよ」

 それは皮肉だろうかと思うが、それに反応する余裕も無い。

 ジルエットにとって邪気の無い、しかし興味と期待に満ちた子供達の瞳に見られながら読み聞かせをするというのは、彼女にとって騎士の戦闘訓練に匹敵するほどの疲労をもたらした。

 一冊をなんとか読み終わると、リーヴルが新たな絵本を取り出した。思わずなぜあるのだとジルエットが問うと、リーヴルは何冊かの絵本を学校に持ってきているというのだ。もちろん全て姫騎士の旅シリーズだ。

 これはリーヴルの趣味もあるが、他の生徒達が読むためでもあった。このコション村では絵本は貴重な品物で、リーヴルが持つ物の他には数冊しか無い。それどころか絵本以外の書物も数少なかった。

 絵本は読み書きを覚え始めた子供達にとって勉強の復習になるだけでなく、新しい娯楽でもあったのだ。実はそれまで文字が読めず娯楽の無いコション村にいた大人達にとっても、子供向けの絵本は新しい娯楽でもある。生徒の両親は、子供達がつたない言葉で教えてくれる絵本や教科書の内容を、その日の楽しみとしていた。

「もう読まなくてもいいのではないか。それに同じシリーズだ」

 一冊読むだけで疲れたジルエットはそう言ったが、生徒達がみんな悲しげな顔になるのを見てしまえば断るのも罪悪感がある。

 結局ジルエットはそれから四冊もの絵本を読むことになった。

「お疲れ様です」

 プーレの声に、勢いよく教卓に倒していた上体を持ち上げて背筋を伸ばす。情けない姿を見られた事に顔が赤くなる。

 プーレは笑顔でジルエットを見ていた。その横に同じく笑顔のリーヴルが立っていた。

「姫騎士さま! みんなすごいって言ってたよ! 昨日わたしの家で絵本を読んでもらったって言ったら、みんなスゴーイ! って!」

 少ない語彙と、それを補完するための体の動きで、リーヴルは必死に伝えようとした。腕をグルグル大きく動かしながら表情も同じく変える姿は微笑ましかった。自然にジルエットの顔に笑顔が浮かんだ。

「そうか。喜んでくれてなによりだ」

 ジルエットの言葉に満面の笑みを浮かべると、リーヴルはジルエットの手を取った。

「いっしょに帰ろっ」

「そうだな」

「先生、またねー!」

「さようなら、マタン先生」

 手を振るリーヴルと頭を下げるプーレに、マタンは小さく手を振り返した。

 学校を出て帰り道を行く三人。リーヴルは楽しそうに歌を口ずさんでいる。彼女と手をつないでいるジルエットが何かを思い出したかのように、視線を上にあげた。

「どうしました?」

「いや……本当にこれからの予定が無いことに気付いてだな……」

 こうして三人で学校に行って帰っているのも、偶然外に出たときにジルエットがプーレとリーヴルに出会ったからだ。その時点でジルエットはただ朝食を買いに行こうと思っていただけで、一日の予定など何も考えていなかった。

「何をすれば……」

「とりあえずジルエット様の家に行きましょう。パンも持って行かなきゃいけないし」

 プーレの持つ袋にはジルエットのパンが入っている事を思い出す。いろいろあってすっかり忘れていた。学校に行くことになったのも、パンを入れるための袋を持っていなかったためだった。

「明日からは袋を持っていかないとな」

 ジルエットのつぶやきはプーレには聞こえなかった。

「姫騎士様の家にいくの? 私もいくー!」

 リーヴルがそう元気に言うと、ジルエットとプーレは顔を見合わせて小さく笑った。

「ここが私の家だ」

「うわー、すごいねー!」

 リーヴルは初めて見るログハウスに目を輝かせている。丸太でできた壁を小さな手で叩いて感触を確かめていた。

「パンはどこにすれば?」

 そこでパンを入れる容器や食器があるかどうかさえ分からないことに気付く。

 一人での長旅のため荷物は最小限しか持ってこなかった。野営用の鍋すら無い。食料は全て食器無しに手で食べられる硬いパンか干し肉と、水筒に入れた水のみで旅をした。

 ジルエットは持って来た荷物の中から、その食料を入れていた袋にパンを入れることにした。いくらかくたびれているが問題は無い。

「これに入れてくれ」

「ジルエット様はお昼をどうするんですか?」

 パンを袋に入れながらのプーレの言葉で、ジルエットは朝食だけでなく、昼とさらに夜の食事も自分で何とかしなくてはいけないことに気がついた。

「……まあ、何とかなるだろう」

 無表情ながらその顔にはかすかな焦燥がにじんでいた。料理ができないジルエットは、これからの食生活が大変なものになることを自覚した。それを見抜いたのかはわからないが、プーレがある提案をしてくる。

「よかったら、これからオーク牧場へ、というかリーヴルの家へ行きませんか? そこで一緒に昼食を食べましょう」

 昨日から続けて家に邪魔するのはどうだろうかと思っていると、その話を聞いたリーヴルは非常に乗り気だった。

「姫騎士様がわたしの家でお昼食べるの? やったー!」

 リーヴルは体当たりするかのようにジルエットへ抱きついた。

「いや、私は……」

 そこで言葉は止まる。抱きついて嬉しそうに見上げてくるリーヴルの顔を見てしまえば、今さら行かないとは言えない。小さくため息をつく。

「ジルエット様、パンはいくつですか?」

 パンぐらい自分で運ぶと言おうと思ったが、嬉しそうな笑顔を見せるプーレを見ると馬鹿馬鹿しくなった。

 コション村に来てから調子を崩されてばかりだと感じる。それが騎士学校ですごした三年間、まともな人間関係を築いていなかった弊害だとは考えない。思いつきもしなかった。

 それから三人はオーク牧場へ、リーヴルの家に向かって歩き始めた。到着すると、ジルエットは迷惑がられないかと内心恐れていたが、そんなことは一切無くリーヴルの両親は歓迎してくれた。

 昼食が終わると昨日と同じくリーヴルは絵本を持ち出してきた。先ほど学校で読んだので勘弁してもらいたかったのでどう断ろうかと苦心していると、リーヴルの母親が止めてくれた。リーヴルは涙をためて悔しがり、その事に胸を痛めながらもほっと安心する。あれだけ精神を削られる作業をした後、また同じ事をするのは嫌だった。

 リーヴル家から去るジルエットは多くの荷物を抱えていた。それは全てリーヴルの両親からの贈り物である。

 会話の中でジルエットは自分の持つ食料が少ないことを、つい口にしてしまった。するとリーヴルの両親は家にある食べ物を融通しようと言ったのだ。

 最初は断ろうとしたのだが、リーヴルの母、シャンスの押しの強さに負けて頷いてしまう。そして帰り際に渡されたのがこの荷物だった。

「多いな……」

 騎士として訓練を積んだジルエットにはこの程度の重さは苦にはならない。これの倍以上の荷物を背負って行軍訓練を数日行わされたこともあったのだから。

 それでも渡された荷物の量は、両手で抱えなければならない量である。袋が破けそうなほど大きく膨らんでしまっていた。奮発したシャンスが詰め込みすぎたからだ。

 プーレが荷物を運ぶと言ったのだが、さすがにそれは拒否した。その際非常に悲しそうな目になったプーレを見て、思わず撤回しそうになったが寸前で踏みとどまった。

 後ろからリーヴルの「またねー!」という大きな声を聞きながら帰り道を歩く。

 その声に思わず苦笑する。確かにまたすぐリーヴルと会うことになるような気がした。小さい村だから今朝のように偶然会うこともあるだろう。

 家に帰るとジルエットはもらった荷物の中身を確認する。

「これは野菜だな。芋と葉野菜はスープに入っていたものだな。かなり量がある。これは……瓶に液体と一緒に何かが入っているな。臭いは……なるほど、ピクルスか」

 このピクルスに使っている酢は、おそらく商人から買ったものだろう。酢のように腐りにくいものならこの辺境にも持っていける。使っている野菜はこの村で栽培しているものと同じなので自家製だろう。

「あとは、おお、干し肉か!」

 干し肉は腐らないように大量の塩に漬け込んだ後、日干しにした保存だ。ジルエットが持ってきていた干し肉はすでにかなり少なくなっていた。彼女は肉が好きなのでこの贈り物は非常に嬉しい。

「……さて、どうするか」

 荷物を整理するとやることは無くなった。とりあえずそれまで見ていなかった家の中を見て回ることにする。一人で住むには広いが、とんでもなく大きな家ではない。一時間もしないうちに終わった。

「木製の食器が一そろいに、鍋もある。薪も準備されているし問題ないな。この壷は、ああ、水を汲み置くためのものか」

 ジルエットは貴族なので水の汲み置きなどしたことが無い。それらは全て使用人の仕事だ。さらに屋敷の敷地内に井戸があるため、水運びの労力も少なかった。しかしコション村にある井戸は一つだけで場所も遠い。

「……仕方がない、行くか」

 水の汲み置きをしておかなければ体を拭くことはできず、朝顔をすぐ洗うこともできない。ジルエットは壷を担いで家を出る。

「あら? 偶然ですね」

 井戸で水汲みをしていると、後ろからそんな声が聞こえた。振り返ると、そこには先程別れたマタンがいた。

 周囲に他の人間の姿は無い。ジルエットが井戸に来た時も人影は無かった。それは村の住人達が水汲みの仕事を、朝から昼までの時間で終わらせるからだ。

 まさかこんなに早く再会するとは思っていなかったため、ジルエットは驚いた表情になる。マタンも驚いていた様子だが、その変化は顔からあまり感じられない。それどころか、丁度よいタイミングとばかりに笑顔を作った。

 マタンの表情になぜか悪い予感がして、思わず目を細める。

「何か用でも?」

「はい。実は騎士様に折り入って頼みたい事があるのです。明日も学校に来てくれませんか?」

 マタンは笑顔で、ジルエットにとっては意外すぎる頼みごとを言ってきた。

「ど、どういう事だ?」

「そんなに難しい事ではありません。今日のように少し授業を手伝ってもらえればと思いまして」

「そんなのは私には無理だ」

 ジルエットは教師などやった事が無い。それどころか他人に何かを教えるという事もまるで経験が無かった。彼女には弟も妹もおらず、騎士学校でも親密な後輩はいなかった。

 ジルエットが必死に拒否すると、マタンは途端に難しい顔になった。それは誰が見ても困ってるとわかる表情で、悲しげな目は見る人間の同情心を呼び起こす。

 それはジルエットも同じで、ついマタンへ声をかけてしまう。

「何かあったのか?」

「実は……プーレ君のことです」

 ジルエットはつい反応する。

「プーレがどうかしたのか」

「プーレ君は素直でいい子です。授業もよく聞くし、向上心もある。だからこそ問題があるのです」

「それに問題があるようには思えないが。優秀な生徒ということだろう?」

 言葉通りならプーレにそんな問題は無いように思える。首をひねっているとマタンがジルエットの目を見た。

「プーレ君と他の生徒たちを比べて、どう思いますか」

「どうかと言われると、まあ年齢が違うな」

「そうです。それなのです」

 さらにジルエットは首をひねる。そんなことは見るからに当たり前の事だからだ。

「そこにどんな問題があるのだ。見たところ子供達とも仲良くやっているだろう? さっきもリーヴルと楽しそうにしていたぞ」

「私がこの村に来たのは一年前です。その時すでにプーレ君は十四才、子供達は片手に満たない年齢でした。この差は授業への興味と理解度が全く違います」

 ジルエットは困惑する。マタンの言葉が何を意味しているのかわからなかったからだ。

「一年間、プーレ君と子供達は同じ授業を受けました。両方とも最低限の読み書きと、初歩の計算はできるようになっています。しかし、それでは駄目なのです。子供達はまだ幼い。素直に授業を聞いてくれることもあれば、その日の気分によっては落ち着かず席に座らずに歩き回ることもあります。これは仕方が無いことですが、プーレ君は違う。彼はもう分別がつく立派な人間です」

 プーレはたしかに村の大人達と比べても遜色ない人柄だった。そんな大人同然の者が、幼い子供と同じ授業を受けるというのは確かにおかしいのかもしれない。

「それまでプーレ君は教育を受けていなかったため、出発点は子供達と同じです。けれど年齢が大きく上のため、教えられた事を理解する速さはもともとの素養も含めてかなり違います。ですが、教師は私一人ですから、全員一緒に授業をしなければなりません。すると授業を進める速度も子供達と同じにしなければならないのです」

「なるほどな……」

 まだ遊びたい盛りで落ち着きのない子供達と比べると、プーレのほうが集中力が高いに決まっている。そうなると自然に学力の差が生まれるはずだ。読み書きの授業を見る限り、子供達はまだ教科書の文章を読むのが難しい様だったが、プーレは簡単に読んでいた。すでに学校の授業では物足りなくなっているのかもしれない。

「プーレ君は計算はまだ苦手のようですが、すぐにできるようになるでしょう。そこでなんですが、騎士様にプーレ君の勉強を見てもらえないかと思うのです」

「私がか」

 思わず自分を指さすジルエット。それにマタンは大きく頷く。

「はい。場所は教室を使ってください。席は多くあるので、後ろにある場所を使ってくれてかまいません。子供達も一緒に授業をするので、少しうるさいかもしれませんが」

「だ、だが、私は教師などやったことは無いし、それに教科書も……」

「家庭教師に子供のころ教えてもらいませんでしたか。それと同じです。騎士様は貴族だからきっとそうだと思いますが?」

 明らかにそうだと確信した口調でマタンは言う。その通りなので反論できない。

「教科書も幼年学校より上のものを用意してあります。では明日からよろしくお願いしますね。プーレ君にも言っておきますから」

「あ、ちょっと待て……」

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