第14話

 井戸は村の中心部にある。そこではまだ朝早いというのに、数人の村の女性が集まり、水をくみながら立ち話をしていた。

 女性たちはもう中年を過ぎた年齢だが、好奇心は女性特有のもので衰えていないようだった。新しく村へやって来た騎士を見つけると、あっという間に取り囲む。

 じろじろと無遠慮な視線と明け透けな質問に適当な返事で濁しながら、ジルエットはなんとか顔だけは洗うことができたが、精神的な疲労が一気に上昇した。

 疲れた様子でため息をつくジルエットに、プーレは申し訳無さそうにしている。

「すいません。村に新しく人が来るのは初めてだから、みんな気になってるんです。怒らないであげてください。いい人たちなんです」

「ああ、分かってる……」

 やたら積極的なのは辟易したが、女性達の目は純粋な好奇心だけだった。そこにはジルエットに対する偏見や嫌悪感などは一切無い。だからこそあれだけ無遠慮な事をされても彼女は拒否の言葉を言わなかったのだ。

 ただ、彼女が裏表の無い気持ちの人々と何年も接していなかったため、どう対応していいのかわからなかったという事実もある。

 しばらく歩くと学校へと到着した。まだ時間が早いため子供達はまだ来ていないようで人の気配は無い。

 それまでつないでいたジルエットの手を離すと、リーヴルは学校へと駆け寄って扉を数回叩いた。

「せんせー、来たよー!」

 すぐに扉が開き、白い髪で柔和な笑顔を浮かべた老人、村の学校の教師であるマタンが姿を見せた。リーヴルを見つけると、さらに目が弓なりに笑う。

「おはよう、リーヴルちゃん」

「おはようございます、マタン先生」

「プーレ君もおはよう。あら、そちらは……?」

 ジルエットは小さく会釈する。と、そこでなぜ自分がここにいるのか理由を説明しようと思ったが、リーヴルに誘われるがままやって来ただけで、理由らしい理由が無いことに気付く。そのまま説明してもいいが、それだと何なので適当にでっち上げる。

「……いや、この村の学校というものに興味があってだな、その、ちょっと見学してみようかなと思ったのだ。迷惑なら無理にとは言わないが」

「いえそんな。迷惑だなんてそんなことありませんよ。どうぞ見学してください。あ、でも授業が始まるまではまだ時間がありますから、中で待っていてください」

「そうか。ありがとう」

 ジルエット達三人はマタンに中へ案内される。そこは昨日ジルエットが通されたのと同じ場所だ。リーヴルはそこにある椅子の一つに座る。

「マタン先生、これを」

「いつもありがとうねプーレ君」

 プーレは担いでいた袋の中から、それより小さい袋を取り出してマタンへ渡す。それは中に入っている物で大きく膨らんでいた。

「それは何だ?」

「これはマタン先生の、今日のぶんのパンです」

「プーレ君は私の分もパンをもらって、それを毎日届けに来てくれるの。それに水汲みもやってくれるの。私には大変だからって、本当に優しいわ」

 プーレはマタンから褒められて、照れくさそうに薄く頬を染めていた。

「プーレ君も騎士様も座って。騎士様は朝食を食べたのかしら?」

「そういえば、まだだったな」

「そうですか。スープしかありませんがお出しします。パンは……」

「ジルエット様のパンは袋の中にあります」

 マタンは頷くと「ちょっと待っていてください」と言って隣の部屋へ行く。ジルエットは座ったが、プーレは自然な動作でマタンに続いて部屋を出て行った。そしてすぐに二人は戻ってくる。プーレは湯気のたつ鍋を持ち、マタンは人数分の食器を持っていた。

「熱いですから注意してくださいね」

 マタンは三人の前にスープを配ると席へ座る。ジルエットとマタンにはパンがあるが、プーレとリーヴルには無い。

「お前達は食べないのか?」

「私達はもう朝食を食べていますから。マタン先生にも毎日断っているのですけど……」

 プーレが困った顔で見ると、マタンはにっこりと笑った。

「私一人だけで食べてもおいしくないですもの。リーヴルちゃんもそう思いますでしょう?」

「おいしいよ」

 すでにリーヴルはスープをスプーンで口へ運んでいる。口の周りが汚れているのはご愛嬌だろう。

 四人の中で最初に食事が終わったのはプーレだ。スープ一杯だけなので当たり前のことだ。マタンはおかわりをすすめたが、プーレは恐縮した様子で断る。

「育ち盛りなのだから遠慮しなくてもいいですのに。いつもこうなんです」

 マタンがそう言うとプーレは困り顔になる。

「プーレは毎日ここで食事をしているのか?」

「はい。プーレ君がパンを持ってきてくれるようになってから毎日です」

 毎日わざわざパンを持ってきたり水汲みをしたり、プーレは律儀なんだなと思いながら、次々とジルエットは千切ったパンを口へ運ぶ。

 幼い頃から仕込まれた食事の作法で見た目は美しいが、その食事のスピードはかなり速い。これは騎士学校での生活が影響している。騎士学校は時間厳守のため、食事に長い時間をかけるわけにはいかない。またもし戦争などになった場合は、さらに食事の時間など無いに等しい。そのため戦闘訓練などで食事を素早くすませることを教育されるのだ。

 ジルエットはパン三つをあっという間に平らげた。スープの入った皿も空になっている。それに気付いたマタン。

「おかわりはいかがですか」

「いただこう」

 マタンはジルエットの皿にスープを入れる。

「やっぱり若い人はたくさん食べれて羨ましいわ。見ていて感心するぐらい」

 マタンはパンを一個しか用意していなかったが、それはまだ半分ほど残っている。皿のスープもまだ多い。

 ジルエットはまるで自分が意地汚いかのように思えて、顔を俯けた。

「これは、いっつものクセで。本当なら……」

 ジルエットは貴族なのでテーブルマナーをちゃんと習っている。騎士学校でも何度かそういった授業もあった。ジルエットはもし今から貴族の晩餐会などに出席しても、恥をかかない程度にはテーブルマナーについて精通していた。

「おかわりー!」

 リーヴルが元気よく叫びながら空になった皿を突き出す。その口の周りはひどく汚れていた。マタンは笑いながらナプキンで拭いてあげると、スープを皿へ注ぐ。

 食事が終わり食後のお茶を飲んでいると、外から人の声が聞こえてきた。

「もうそろそろ学校の時間ですね。リーヴルちゃんとプーレ君は教室へ行きなさい。騎士様は空いている席に座ってください。席順は決まっていませんから」

「はーい」

 リーヴルは椅子から飛び下りると教室へ向かって走る。

「あなたはどうするんだ」

「私は授業の準備がありますから。すぐに教室へ行きます」

 マタンは全員のカップを回収して部屋を出て行った。

「ジルエット様、私達も行きましょう」

「ああ」

 教室は部屋を出てすぐの場所だ。中に入ると縦に長い教室だ。すでに教室へ入っていた数人の子供とリーヴルが楽しそうに追いかけっこをしていた。

「騎士学校の教室と似ているな」

 教室は前方に教壇があり、壁に大きな黒板があった。教室の入り口は黒板の横になる。

 教室には三人が使える横に長い机が置かれていて、それが二列に並んでいた。机と椅子の数は多くないが、それなりの人数は入れるようだ。

 プーレは教室の後ろへと歩いて行った。そこには背の低い棚がいくつも備え付けられていて、いくつかの場所が使用されていた。使われいる場所より空いている棚の数のほうがかなり多い。

 プーレはその一つからいくつかの本を取り出す。

「それは何だ?」

「今日使う教科書です。みんな自分の教科書を後ろの棚に入れているんです」

 学校の生徒には、それぞれ一つの棚が与えられていた。そこに教科書や私物を入れておける。

 ジルエットとプーレは教室の中ほどの席へ座った。

「教科書を見せてくれ」

「いいですよ」

 渡された教科書はそれなりにくたびれているが、装丁もなかなか立派なちゃんとしたものだった。安物にありがちな文字がつぶれていたり、インクがにじんでいたりといった不良も無いようだ。

「ふむ。これは幼年部用のものだな」

 教科書の文字の多さと文章の内容を見てそうつぶやく。

 幼年部とは十歳以下の子供が通う学校のことを指す。幼年部という名前は知っていても、ジルエットはそこへ通った事は無かった。そもそも幼年部の学校自体の数が少なかった。

 十歳以下の子供となれば、なかなか面倒なものだ。勉強しろと言っても落ち着かず騒いだり、すぐに他のことに気を取られたり。さらに幼い子供となればささいなことで泣いたりする。なので多くの学校は物事の分別がついた十二、三歳ぐらいから入学できるようになっていた。

 ではその年齢になるまでの教育はどうするのかというと、それぞれの家庭で親が教えたり、家庭教師を雇ったりする。こちらも数は少ないが、幼い子供が通う私塾もあった。

「なんというか、絵本のようだな」

 ジルエットは数ページ読み進めてそう観想をこぼす。騎士学校の難解な教科書に慣れている身には、あまりにも幼稚な文章に感じられた。

「たしかにそうかもしれません。でも、そうじゃないとみんな読めませんから」

 プーレの言葉にジルエットは教科書から顔を上げて教室を見回してみた。

 先程より人数が増えている。それでも全ての生徒で十人ほどしかいない。その全てがリーヴルと同じ程度の年齢だった。おそらく四歳か五歳。

 たしかにこの幼さでは、絵本のように簡単な文章でなければ理解できないだろう。

「これで全員なのか。かなり少ないな。それに幼い」

「はい。僕が一番年上になります」

 教室の扉が静かに開き、マタンが姿を現した。その手にはいくつかの本を持っている。

「みなさん席について。授業をはじめましょう」

 遊んでいた生徒達は「はーい」と返事をすると、それぞれ席へ座る。まだ教科書を準備していなかった何人かの生徒は後ろの棚へそれを取りに走る。それを見たマタンが教室で走らないように注意した。

「よいしょ」

 リーヴルはジルエットの隣の席へやってくると、教科書を机の上に置いた。

 全員が席に着くと授業が始まる。

「おはようございます、みなさん。今日は授業の前に言っておくことがあります。今日の授業を見学するため、騎士様が来ています」

 マタンが言うと、一気に教室が騒がしくなった。友達と遊ぶことに夢中だったせいか、誰もジルエットが教室にいる事に気付いていなかったようだ。キョロキョロと周りを見ていた一人の生徒がジルエットを見つけ、あっと指を差して叫ぶ。すると全員がジルエットのほうを向く。

 ジルエットが座っていた場所はちょうど生徒達の後方に位置していた。そのため一斉に振り向いた子供達の目が向けられることになる。それを見て思わず怯んでしまう。

「うっ」

「あれが騎士さまー?」

「女のひとだー」

「剣をもってるー!」

 ジルエットのほうを見て騒ぐ生徒達。そこへパンと大きな音が聞こえ、ぴたりと生徒達の騒ぐ声が止まった。それはマタンが両手を打ち鳴らした音だった。

「はい。みなさんこっちを向いてください。騎士様はみんながどんな風に授業を受けるか見にきているのです。しっかり勉強しないと騎士様に笑われますよ」

 口調は穏やかで笑顔を浮かべているが、それはどんな大声で怒鳴り怒るより強制力のある言葉だった。子供達だけでなく、ジルエットでさえ思わず返事をしてしまいそうになったほどだ。

「すごい……何だこの言葉の強さは。騎士学校にもこんな教師はいなかったぞ」

 驚愕の面持ちでマタンを見つめていると、その視線に気付いたのか教壇に立つ彼女はジルエットと目を合わせ、ニコリと笑った。

 始まった授業は算数だった。簡単な足し算と引き算だ。ジルエットならあくびが出るほど退屈な内容。しかしまだ幼い子供達にとっては、二桁の計算はかなり難しいようだった。先程マタンに指名された生徒も、なかなか答えられない。

「ではプーレ君、わかりますか」

「はい。答えは六です」

「お見事。正解です」

 緊張した様子で答えを口にするプーレ。それが正解と言われるとほっと胸を撫で下ろした様子になり、他の生徒達からは驚きの声と賞賛の拍手をもらう。

 その姿を不思議そうに隣のジルエットは見ていた。

 これまで接してきた様子から、プーレはかなり頭がいいと思っていたからだ。それにしてはこの程度の計算に手こずるのは信じられない。先程の計算も、手元の板に何度も計算式を書き、さらには両手の指まで使って考えていた。

 板とはその言葉通り、木でできた薄い板だ。大きさはリーヴルでも抱えられる程度。表面は滑らかに削られていて、そこにチョークで文字を書き込む。これはこの学校で使われているノートのようなものだった。

 紙はそれなりの高級品だ。質が悪いものも多く、きれいな白い紙となればさらに高い。製造している場所が限られるので流通量も少なく、紙を使用するのは一部の貴族やそれなりの地位や職業の者達だけである。

 それを考えるとこの教科書は良質の紙を使用しているため、かなり値段が高いことを思い出す。ジルエットは隣のプーレとリーヴルの持つ教科書を観察し、さらに教室の生徒達の物も調べる。全て同じ物のように思えた。

「これをどうやって手に入れたんだ?」

 ここは辺境も辺境の村である。それなのに何十冊もの教科書を揃えていることに疑問を持ち、ジルエットは授業が終わり休憩時間になった後マタンへ質問した。

「教科書ですか? あれは全部私が買ったものです」

 場所は朝に食事をした部屋だ。マタンはお茶を入れたカップをリーヴルの前に置き、そして自分の席へ座る。

「全部とは、生徒達の教科書全部か?」

「はい、そうです」

 マタンはお茶を優雅に飲みながら、それが何でもないない事のように答える。

「信じられない……」

「そうですか?」

「一体何十冊だと思っているんだ。あの教科書一冊だけで銀貨十枚、いやもっとするかもしれない。それをわざわざ買い与えるなんて」

 呆然とした気持ちで言うと、マタンは小さく笑った。

「私の夫が教師をしていたのは言いましたよね。私もノーブルメイドの教育をしていましたが、四十を過ぎて辞めました。しかし、夫はずっと教師を続けました。それこそ亡くなる数年前まで……」

 マタンがそう語る瞳の輝きに、何も言えずただ話を聞くジルエット。

「夫は子供を、新たな大人へと成長することを手助けする教師という仕事に誇りを持っていました。それと同時に、その教育のあり方に限界を感じてもいました」

「限界とは……?」

 マタンは一度目を閉じると、ゆっくりとまぶたを上げてジルエットと目を合わせた。

「……騎士様は授業の様子を見ながら、不思議な目をしていました。楽しそうに授業を受ける生徒達を羨むような、恨むような。いえ、生徒達への恨みではなく、誰かへの怒りを込めた目。失礼ですが、騎士様は学校という物に嫌悪感があるのでは?」

 ジルエットは驚きに呆けた顔になった後、はっと我に返り素早く顔を伏せた。戸惑い以上にそのような感情を見破られたことに恥を感じたのだ。自分の過去を暴かれた、その羞恥は身を焦がす怒りより、背筋が凍るような気持ちにさせた。

「すいません。あなたを追い詰めるような気持ちは一つもありません。ただ、あなたをその様な思いにさせること、それ自体を夫は歯痒く感じていたのです」

 ジルエットは恐る恐る伏せた顔を上げた。見えたマタンの表情は、ジルエットを蔑むようなものではなく、真摯で真剣な目をしていた。

「夫はそれなり以上の身分の方が通う学校の教師をしていました。そういう方々の中には自身の地位をいいことに、横暴を働く者が多かったと聞いています。それにより歪んでしまった人、去って行った人、夫は彼らをずっと気にしていました……」

 ジルエットは否応なしに騎士学校での過去を思い出さずにはいられなかった。

 彼ら彼女らの視線、言葉、態度。そのどれもが彼女の心を苛む。

「知っての通り、学校はすでにある程度成長した子供達を教育する場です。幼年部というものはありますが、その数は非常に少ないのです。それを夫は憂いていました。そして、こう言っています。私はずっと気付かなかった、幼い頃の教育が一番大切で、それ以降の教育はその土台を固めることでしかないのだという事を……と」

 しばらくの沈黙。二人は一言も発さない。

「私は騎士様の過去をどうこう言うつもりはありません。ただ、先程の授業を見て何か感じませんでしたか?」

「……みんな、誰もが楽しそうだった……」

 マタンは大きく頷く。

「そうです。夫はずっと言っていました。幼い子ども達に教育をすれば、それすなわち素晴らしい世界の幕開けだと。だから夫が亡くなった後、家も家財も売り払い、この村へやって来たのです。教科書も自費で買って。夫の想いを形にするために」

 ジルエットは騎士学校での辛い過去を思い出す。常に視線の針で刺され、言葉の棘に傷つく日々。それはマタンの夫が感じていた、それが原因なのか。

「あなたがこの村に来たことは、きっと意味があることです。さあ、次の授業です。これで今日の学校は終わりですから、がんばりましょう」

「え、ああ……」

 心ここにあらずといった状態で、マタンに言われるまま立ち上がり教室へ向かう。

 教室へ入ると視線を感じ、顔を上げると生徒達が全員ジルエットへと目を向けていた。いつもなら怯むところだが、マタンのとの会話で意識がはっきりしていなかったため、それを特に意識することもなく席へ向かう。

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