第3話

「ぐぬううううう」

 暗黒時代の欠片を一瞬で思い返したジルエットは、思わず頭を抱えて床を転げまわりたくなったが、なんとかそれを堪える。

「違う……思い出すのはそれじゃない……」

 その事があってから、夜営するときは他人を頼らず信頼せず、自分一人で夜営をする方法を考え、訓練するようになる。そして細かく睡眠と覚醒をくり返すことで警戒を怠ることもなく、それでいて休息が取れるようになったのだった。その事実を知った教師が思わず目頭を押さえたことを思い出し、また胸の奥が痛んだ。

「ぐっ……いいんだ。一人で夜営もできるなんて素晴らしいことのはずだ……」

 悪い考えが浮かびそうになるのを誤魔化し、ジルエットは無表情で笑顔を浮かべる。

「お着替えは終わりましたか?」

「あ、ああ。もう終わる」

 ジルエットは体をさっと拭くと、荷物から汚れていない服に着替える。考えて、いちおう剣を持っていくことにした。

 部屋を出ると先程声をかけてきた村長の妻が待っていた。その案内でジルエットは廊下を進む。薄暗いが照明が壁にあるので足元が見えないということはない。

「壁や柱が新しいな」

 何気なく家を観察しながらつぶやく。村長の家の柱は太い木製で壁は漆喰だ。そのどちらもがまだ新しい。板材でできた廊下も傷んでいる様子も無い。

「はい。この家は数年前に建て替えたので」

「そうなのか」

 特に気になっていたわけではないので、適当な返事をした。

「こちらです」

 老婆は大きめの両開きの扉を開ける。すると騒がしい幾人ものの声が聞こえてきた。

 その部屋は五十人は座れそうな広い部屋だった。その中を何十人もの男女が動き回っている。男達はテーブルや椅子を運び、女達は床を掃除したり料理を忙しく運んでいた。ときおり体がぶつかり、謝る声や怒りの声が響いた。

 その様子に驚いていると、老婆に声をかけられた。

「こちらへ来てください。夫の村長がいる場所です」

 動き回る村人達を避けながら、村長が座っている場所へ移動する。そこは部屋の中で一段高くなっている場所で、そこが身分の高い人間が座る上座だった。

「おお、騎士様。騒がしくてすいません。なにしろ突然でしたので、大急ぎで準備をしていますのでご容赦してもらえませんかのう?」

「はあ。しかしこれは何をやっているのですか?」

 村長の妻にすすめられるまま村長の隣の席へ座ると、困惑しながら部屋の光景を見る。混沌した部屋は何十人もの男女が動いていた。よく見ると若い人間はいないようだ。誰もが四十代から上、もしかしたら三十代もいるかもしれないが三十五より下ということは無いだろう。働く人間の中にはもう腰が曲がってしまった爺婆の姿もある。

「騎士様の歓迎会の準備ですのう。まあ一杯どうぞ」

 ジルエットへ手渡された木製のコップへ、村長は飲み物を注ぐ。はあ、と曖昧な相槌のあとコップへ口をつけ、思わず咳き込んだ。水かと思ったが酒であるエールだった。村長が口に合いませんでしたかと心配そうに聞いてきたが、大丈夫だと手の平を向ける。

 咳がおさまるとあらためてエールを飲む。上等なものでは無いだろうが、それでも久しぶりに飲む酒の味は格別だった。一気にコップを空にする。それを見て嬉しそうに笑いながら、村長はコップへエールを注ぐ。

「どうでしょうか村のエールは? なかなか美味いと思うのですがのう」

「エールの良し悪しは私にはわからないな。飲むのはほとんどワインだから」

「さすが騎士様ですな! ワインなぞ数えるほどしか飲んだことがないですのう」

 感心したように頷く村長に苦笑する。ワインにも安いものは多くあり、それらは普通の平民なら簡単に手が出る程度の物だ。しかし辺境のコション村では、ワインというだけで高級な品物に変化するのだろう。それに驚くとともに、ここがそれほどの田舎だという事実に思わずため息が漏れた。

「お疲れのところすいませんのう。もうすぐ準備が終わりますので」

 それからジルエットが二杯のエールを飲んだところで歓迎会の準備は終わった。

 部屋には長いテーブルがいくつか置かれて料理が並べられている。そこへ並べられた椅子へ何十人もの村人が座って上座のジルエットと村長の方へ向いていた。

「準備はいいかのみんな。では、こちらの方がコション村の派遣騎士、ジルエット・ブルジェオン様じゃ。今日から村の一人となるが、貴族様じゃから粗相の無いようにの」

 村長の言葉に村人達が騒がしくなる。貴族などこの辺境の村では誰も見た事が無いのだ。興味深そうにジルエットの顔を見る者もいれば、顔を伏せてチラチラと窺う者もいる。

 多くの視線に思わず顔を背けそうになるが、ジルエットは我慢した。騎士学校での敵意に満ちた視線に晒され続けていたため、多人数の視線に恐怖を感じるのだ。

「負けてはだめだ、負けてはだめだ……この程度、学校に比べれば何てことは無い……」

「では、騎士様から一言……騎士様……?」

 ブツブツとつぶやくジルエットを、村長が怪訝そうに見ていた。

「あ、ああ、そうだな……ゴホン。このたび王の命によりコション村派遣騎士に任命された、ジルエット・ブルジェオンだ。非才ながらこの剣に賭けて使命を全うする」

 村人達の視線に震えないよう注意して、なるべく威厳が出るように言葉を発した。見るものが見れば虚勢を張っているのが明白だったが、世間知らずの田舎者である村人達にはそれなりの衝撃を受けるものだったようだ。

「おお、なんかスゲエ」「さすが騎士で貴族様だ」「王ってあの王様か?」

 ざわつく村人達へ村長が大きな声で言う。

「では、騎士様の歓迎会を始めるぞ。全員酒を持ったかのう? では、乾杯!」

 村長がコップを高く掲げると、それに合わせて乾杯の声とともに村人達がコップを頭上へ上げた。そして宴会が始まる。

 一気に騒がしさが激しくなる屋内。いろいろな場所で大きな笑い声があがる。

 ジルエットの前へ比較的に若い女性が料理を運んでくる。若いといっても彼女より二十は年上なのだが。

 テーブルに並べられた料理は量こそ多いが、使われている食材は少ない。小麦をこねて焼いた薄い楕円形のパンのようなもの。芋と緑の葉野菜が入ったスープ。芋と干し肉を煮たもの。味付けは塩とハーブのみだが、この数日は保存食など味気ない食事ばかりだったのでそれなりに美味しく感じられた。

「すいませんのう、騒がしくて」

 そう言いながら村長がエールの入った器を差し出した。ジルエットはコップの中身を飲み干して村長へ突き出すと、そこへエールが注がれる。

「こんな田舎では、年に一度の祭りと新年の祝いぐらいしか騒げる時が無いので。騎士様を理由にして申し訳ないのですが、どうかご容赦くださいますかのう」

「この程度でへそを曲げるほど意地悪くはない。それと騎士様ではなく、ジルエットと名前で呼んでくれないか」

「はい。ありがとうございます、ジルエット様」

 深く頭を下げる村長に軽く頷くと、ジルエットはエールを飲みながら騒ぐ村人を見やる。

 どこか見覚えがある光景だ。それは何だろうかと考えていると、それを思い出した。もう一月以上前のこと、卒業記念パーティーの光景だ。

 卒業記念パーティーは、騎士学校の卒業式より前に行われる。卒業式が終わると多くの生徒達が配属先や故郷へとすぐに旅立つからだ。騎士学校へは王国のいたるところから生徒が集まるため、故郷が遠い人間は数多くいる。また騎士として配属された場所が遠方にある生徒は、配属当日までに行かなければならない。もし遅れるようなことがあれば、初日から上官から叱責されるはめになってしまう。

 騎士学校で友人となった生徒達の多くが、これから離れ離れになる。その友情を噛みしめながら、寂しさを忘れるかのように男女ともが騒がしく、時にははめを外しすぎて怒られながらパーティーを楽しんでいた。

 卒業記念パーティーは騎士学校の敷地内にある寮の庭で行われていた。庭は広く、いくつものテーブルが並んでいてそこへ料理や飲み物などが置かれている。休憩用にいくつか椅子があるが、立食形式となっていた。

 誰もが笑顔のなか、一人だけ無表情の人間がいた。いや、たしかに表情は無いように見えるが、唇は小さく震えている。

 その人物こそがジルエットだった。彼女は一人寮の部屋から窓越しに庭のパーティーを見下ろしている。部屋は三階にあるので誰も気づいていないが、そもそも部屋が一階にあったとしても楽しそうに騒ぐ生徒達は、ジルエットのガラスめいた顔に目を向けることも無いだろう。彼女は卒業記念パーティーから完全に閉め出された存在だった。

 じっとパーティーを見つめていた自分に気づき、顔を背ける。バカみたいに酒を飲んで浮かれるなんて、これから騎士として職務に励む自覚が無いのではないか。そう心の中で罵るが、そこに悔しさと寂しさを自覚しないでいることはできなかった。

 窓から離れるとベッドへうつ伏せに倒れこむ。このベッドともあと数日でお別れかなどと考えても、そこに寂しさなど無い。やっとこの騎士学校から離れられる、その開放感だけがあった。

 体勢を変えて部屋を見回す。ベッドと机にそれなり量が入る棚、それだけで全てが占められる狭い部屋だ。この寮が全部個室でよかったと思う。友人がおらず、それどころかほぼ全ての生徒と仲が悪いジルエットは、誰かと同室であったならば息が詰まって仕方がなかったはずだ。

 外から聞こえる笑い声から逃げるように枕へ顔を埋める。心を占めるのは、虚しさと悔しさと寂しさと、笑い声をあげる生徒達への怒り。その怒りがまったく見当外れであると自覚しながらも、それを静めることはできなかった。

 知らず涙が浮かび、さらに強く枕へ顔を押し付けた。

「……なんでこんなことを思い出すんだ」

 黒歴史を思い出し渋面になったジルエットは、持っているコップの中身を一気に飲み干す。そして村長へ空になったコップを突き出した。

「村長、酒だっ!」

「ほほっ、いい飲みっぷりですのう」

 目が据わっているジルエットに気づかずに、村長は嬉しそうにエールを注ぐ。あふれそうなほどのエールを、また一回で全部飲む。

「もう一杯だ!」

 ジルエットは次々にコップを空にしていく。それを見て村長は笑いながら酒を注ぎ、他の村人達も彼女の飲みっぷりに感心してか、やがて飲み比べへと発展する。

 あっという間に部屋は混乱のるつぼへと変貌してしまう。何人もの男達が床へ倒れ、酔っ払った男達が調子はずれな歌と踊りをすれば、それを肴に飲む男達。そんな彼らを女房達は呆れた顔で介抱していた。

「ううむ……」

 ジルエットはほとんど何も食べずにエールを飲んでいたため、酔いがかなりまわっていた。そうは言ってもかなりの量を飲んでいるため、どちらにしても酔っ払うのは仕方がなかっただろう。

「酒はもうないのか……」

 すでに村長は酔いつぶれて寝ているため、ジルエットは自分でエールを注いでいた。しかし小ぶりな壷からはエールの雫がこぼれるだけだ。

「おーい、次の酒を……」

 上体がふらりと揺れ、そのままテーブルの上へ倒れる。料理の上へ倒れることはなかったため、服が汚れることは避けられた。その際に手から壷が落ちたが、幸いに割れることはなかった。

「あらあら騎士様、こんなに酔っ払って」

 村長の妻が倒れた体を抱き起こす。半開きになった口と目からは、意識があるようには見えない。

「酒……新しい酒を……」

「飲みすぎですよ」

 酒を求めてさまようジルエットの手を払いながら、村長の妻は誰かを手招きした。その人物は村の女性達に混じって男達を介抱している人間だった。この場にいる者の中では一番若く見える男だ。少年と言ってもいいように見える。

「プーレ、騎士様を部屋まで送っておくれ。お客用の部屋でいいから」

「わかりました」

 プーレと呼ばれた少年は、酔いつぶれたジルエットを抱き上げた。俗に言うお姫様抱っこというものだ。

「うう……」

 弛緩しきった人間の体は重いはずだが、プーレは楽々抱き上げる。そしてまだ酔っ払い達が騒ぐ部屋を出ていった。

「……んん?」

 体を揺らす振動に、うつらうつらとしていたジルエットは目を開いた。しかし酔いのせいで半分もまぶたは上がらない。

「誰だ?」

 抱き上げているプーレの顔は下からだとよく見えない。しかも酔いで視界が霞がかかったように濁っていてる。働かない頭で、自分が今運ばれているということだけは理解できた。

「どこに行くんだ」

「部屋へ」

 短い返答。若干高い声にまだ若い男だと感じた。

 廊下をしばらく歩いた先にある部屋へジルエットを抱き上げたまま入る。入り口近くの壁へプーレが触ると、部屋が明るくなった。その眩しさにジルエットは目を手で覆う。

 部屋は質素ながら整えられたものだった。一人用のベッドと小さめの机に衣装棚。広さはジルエットの寮の部屋より半分ほど広いだろう。

 ジルエットはベッドへ優しく下ろされた。普段なら危険を感じて抵抗するシチュエーションだが、酔っているジルエットはされるがままだ。脱力しきった体をベッドの中へ丁寧に納めると、プーレはそっと布団をかける。

「おやすみなさい」

 そう言うとプーレは部屋のドアへと向かう。

 ジルエットは頭を動かし、揺れる視界で自分を運んでくれた人物を見ようとする。プーレが部屋の明かりを操作するであろう壁のスイッチへ手を伸ばしたとき、ジルエットのほうへ顔を向けた。

「あ……」

 正面ではなくほとんど横顔で、しかも酔いによって歪む視界だったが、ジルエットの目には特徴的な色がはっきりと見えた。それは白色の髪の毛と、緑色の瞳。

 その瞬間部屋の明かりが消えて暗闇となった。白色と緑色が目に焼きついた感覚がしながら、そのまま眠りへと落ちていった。

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