其ノ二
まさか5年以上も仕えていた乱丸に誰かと問われ、信長は言い様のない悲しみに襲われていた。
「……なんと言う事だ…」
「いや、そりゃのぅ…主の今の姿を見ればそうなるじゃろぅに。特にお乱は昔の主の姿を知る訳もないしのぅ。面影はあるがそこから主だと察する事は無理じゃろぅに」
安綱に指摘され、己の皺が無くなった手を見て思い出す。今は乱丸と同じ年頃…恐らく齢十八の頃まで身体が若返っていたのだ。
「あ、あぁ…そうであったな…だが安綱は儂だと直ぐに気づいたであろう?」
「それはほれ。妾は魂も見れるからのぅ?その形で分かったのじゃよ。まぁ少し違和感があったが恐らく妾が齧った跡じゃろぅ」
「儂の魂に貴様の歯型が付いておるのか……」
エヘンと胸を張り、ペタンと主張しない胸に生暖かい視線を送る信長。
「あ、あの…何のお話ですか?貴方達は……っ!?な、何これっ…文字が宙にっ!?」
おずおずと訊ねる乱丸がいきなり何かに驚いた様に後退り、目の前で手を振る。まるでそこにある何かを払う様に。
「む?何をしておるのだ乱の奴は?」
「さてのぅ?妾には何も見えんが…」
ワタワタする乱丸を安綱と二人で首を傾げて見る。
「さ、触れないっ!?え…織田…信長…様?あ、あれっ?隣の童女は……童子切、安綱…え、え?童子切安綱って信長様の刀の筈……え、妖女?幼女ではなくて妖女?信長様は……魔人?あれ、あれ?」
乱丸が宙を睨みそこにある何かを読み上げるように呟く。そしてその宙と信長達を交互に見て混乱する。
「あ、あの…失礼ながら…殿、信長様……でございましょうか?」
おずおずと上目遣いでそう聞いてきた。
「いかにも。六欲天の第六天の魔王信長とは儂の事じゃっ!」
「あぁ、確かに…その様な事を仰られるのは信長様以外おりません」
片手を突き出し、胸を張ってそう名乗る信長に乱丸は顔を押さえて俯く。
「これこれ乱よ……胸がのぅ……零れとるぞ」
「え……?」
信長の視線は乱丸の目を見ている…がどうしても視界に入ってしまうのだ。恐らくは槍で貫かれたであろう衣の穴から飛び出た形のよい片乳が……
乱丸が下を向き、己の衣から出ているモノに気付いて固まる。
「……ふひゃぁっ!!?こ、これは違うんです!ち、違うんです!!は、蜂に刺されたんです!腫れただけなんですっ!な、なので決してボクがお、おお…おなごだとかっ…その…そういう訳ではっ!?」
カチンと固まり、数秒経たずに顔を真っ赤にした乱丸が片手で胸を押さえ、もう片手で否定するようにぶんぶん振る。
「……よいよい。儂も安綱も知っておるわ。貴様は仕事は完璧だがなぁ…己の事になると所々で抜けておったからな…周りから隠すのを色々と苦労したぞ…クハハ…」
「確かにのぅ…主との掛かり稽古の際に緩んできたサラシが段々と盛り上がり、先端が見えた時の主の慌てようといい、夜番の時に寝惚けて厠を開けっ放しにして用を足していた姿を主が発見した時といい……のぅ…」
「それを今言う必要があったか安綱よ!?」
「あ、あわ…あわわわわわわ…!!!??」
信長が遠い目をしながらそう呟き、その思い出している事を安綱が言うと乱丸は顔を真っ赤にして目をグルグルしていた。
「どうだ。少しは落ち着いたか?」
「は……はい……申し訳ありません。まさか殿に色々助けられていたとは……未熟な己を悔いるばかりです」
(未熟どころか良い感じに育っておる、なんぞ言えぬなぁ…)
迂闊すぎる己を省みてガクガクしていた乱丸を必死で宥め、そして数分後やっと我を取り戻した乱丸は信長の前で正座をして項垂れていた。
「それと……殿を欺いていた事…この乱丸、腹を斬ってお詫び致しますっ!!」
ガバっと目に涙を溜め信長を見ると近くに落ちていた
「だ、だから落ち着けと言っておろうに!?」
「あいだぁっ!?」
ゴスッと手刀を頭に落とす。ポロリと乱丸の手から落ちた行光が草の上へと落ちその刀身に触れた草がハラリと斬れる。
「ほぅ、見事な斬れ味じゃ行光よ!妾程ではないがのう!にゅははっ!!」
ぺしぺしと安綱が行光の刀身を叩きそう自慢げに胸を張って笑う。たらりと草露が行光の刀身を流れた。己の扱いに涙を流すように…
「お、お恥ずかしい姿をお見せしました……もう大丈夫です…」
「そうか…まぁ、死した後にまた自害出来るかどうか分からぬが…取り敢えずは良かったわ」
疲れた様に座り込む信長と乱丸。安綱は行光を振り回して蝶々を追っかけ回していた。
その姿を眺め、ふとある事に気付く。
「……ぬ?安綱は兎も角、行光が此処あるという事は……もしやっ!!」
安綱の振り回している行光を見て何かを思い出した様に立ち上がり、此処で目を覚ました場所に戻る。
「お、おぉ……やはり居ったか!宗三左文字よっ!!」
ガバっと草をかき分け、やがて天に向かって掲げる一振りの太刀……刀ではない。
「……何故、太刀に戻っておる……?」
宗三左文字は信長が扱い易いよう二尺六寸(78.8cm)の太刀から磨りあげて二尺二寸一分半(67.0cm)にまで短くした刀だった。
それが何故か元の太刀に戻っていた。鞘から抜き、刀身を見ると反りが余りない直刃に瓦の目交じり…見慣れた刃文だ…だが長い。
不安になり目茎を抜き、柄を取って茎を見る。すると、そこには確かに己の物だと主張する様に
「相違ないな……だが何故だ?いや、取り敢えずは左文字があっただけでも良しとするか…」
伸びてしまったのならしょうがないと左文字を腰に差して未だにはしゃいでいる安綱の元へと向かう。
「ほれ、何時までも遊んでるでないわ。これからどうするかを決めなくてはいかんからな」
「む?…ふむ、そうじゃのぅ。半刻は此処におるが妾達以外に誰も居らんしのぅ…ならば散歩がてら歩くしかあるまい?」
周りを見渡し、信長の顔を一度見上げて答えると遠くに見える森へと向き直り走り出した。
「目指すは彼処の森じゃっ!!にゅははははっ!!お乱、主よっ!妾についてくるがよいっ!」
「お、おいっ!?……なんと自由すぎる奴よ…」
「あはは…安綱は人の身体を得たのですから色々動き回りたいのですよ、きっと…それに殿も負けず劣らず自由ではありませんか」
愉しそうに笑いながら遠くを疾走していたく安綱を見て乱丸が慈しむ様に微笑む。
「……ふむ、そういうものか」
「それより殿…何だか雰囲気がお変わりになりましたね?柔らかいといいますか…言葉遣いも少々…」
「んむ?雰囲気は知らんが…言葉は言われてみれば確かに…身体の若さに引っ張られて言葉遣いも多少昔に戻ったのかもしれんな」
「ふふ…お噂は柴田殿に色々聴いております」
「…鬼柴田か…余計な事を吹き込みおって」
筋肉達磨の髭面を思い出して顔を顰め、嬉しそうに微笑む乱丸から目を逸らしてそう毒づいた。
暫く歩いていると先頭の安綱が立ち止まった。
「む、どうした安綱よ。何ぞ見つけたのか?」
肩を上下する安綱を見て声をかける。
そして安綱はゆっくりと振り向くと…
「ぜぇ、ぜぇ……あ、足が動かぬ……なんじゃこれは…顔や身体から水が吹き出すんじゃが…それと口から出る風も段々と速くなってきたんじゃが……」
「そうか……それはな、疲れた。と言うのだ安綱よ…」
顔から汗を流し息を乱してゼェゼェしている安綱を見て呆れるように教えた。
「にゅっは〜、楽チンじゃぁ〜!ほれ、もっとはよう歩かんかぁ!」
「喧しいわ戯けっ!儂の上で暴れるでないわっ!?」
「にゅはははははっ!!」
パタパタと両足を振り、片手で前方を指差し、もう片手で信長の頭をぺしぺし叩く安綱に信長の怒りの声が上がるが安綱は聞こえていないようだった。
「ふふふ…可愛らしい妹がもう1人出来たではありませんか」
「よさぬか…市の様に静かすぎるのもどうかと思うが…じゃじゃ馬過ぎるのも困るぞ」
長政へと嫁がせた妹を思い出す。だがアレは静か過ぎた…色々と。
頭は良く、回転も早い。裏で色々していたが何も伝えず全て黙っており、儂が気付かぬ内に色々終わっていた。暗い笑いを浮かべる姿が脳裏に蘇りブルっと震える。
見目はかなり良く、周りの男衆からは人気が高かった。だが女衆からは恐れられていた。
(長政に嫁がせた時の男衆の儂を見る目ときたらそれはもう……血の涙を流しそうな目と砕けそうな位に歯を食いしばっておったな)
……茶々、江よ…黒く染まるでないぞ…
母娘で黒く笑い合う姿を想像し、そんな事を切に願った。
「殿の昔はどうでしたか?」
「ぬぐっ!?」
「ふふふっ」
青く澄んだ空に願いを送っていると乱丸から痛い所を突かれた。己は馬どころでは無かったからだ。
「乱よ…貴様の主君に対してなかなか言うではないか…」
「え、あっ!?も、申し訳ございません!その、殿が余りにも若々しいもので…」
己の主君に対しての態度を思い出しその場で跪き頭を垂れる。
「クハッ…いや、よい。儂もその方がやりやすいのでな。それに儂はもう死した身…死後の世界にまでそんな堅苦しい事を持ち込みたくはないのでな。別に殿と呼ばんでも良いぞ?ただ信長、とそう呼べば良い。ほれ、呼んでみるがよい。クハハ」
「そ、そんな呼び捨てなど!!信長様は我が殿っ!それはいかに死していようとも変わりませぬ!ただ…信長様と偶に呼ばして頂ければボクはそれで……その…」
「……お、おぅ…うむ、偶にと言わずとも…いつでも良い……ぞ?」
からかうつもりで言ったのだが必死の表情でそう言い、最後の方は顔を赤くしながら視線をキョロキョロさせて呟くように言われる。
途端に小っ恥ずかしくなり少し詰まりながらそう返した。
「にゅふふ…なんじゃお主ら。愉しそうじゃのぅ?青いのぅ、酸っぱいのぅ?にゅふふふふふ〜」
「あ、あぅ……」
「や、喧しいわっ!振り落とすぞこのナマクラ刀めがっ!」
にやにやとしながら信長達を見下ろす安綱がからかい怒った信長の言葉に安綱も怒り、「なんじゃとぅっ!」「なんぞっ!」と言い合いながら信長の頭上でポカポカと戦いを繰り広げる。
それを顔を赤くした乱丸がどこか嬉しそうに見ていた。
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