苦しみの冒険
堀越葵
苦しみの冒険
いい夜だ。このまま月曜日を迎えてしまうにはあまりに惜しい。少し思考実験に付き合ってほしい。
たとえば君に、複雑な関係のまま音信を断ってしまった異性の友人がいたとする。友人でなくても、先輩・後輩でもいい。大事なのは異性(君がヘテロだとして)であるという点だけだ。
日曜の夕暮れ時、電車内の人々はみなおそらく帰路の途中で、空席はまばら。しかたなく適当な吊り革を握ってふと視線を落としたら、目の先にいる人物が、その条件を満たす異性に酷似していたときに、果たして君はどのように振舞うだろうか。
繰り返す、これは思考実験である。
彼女は手元のレジュメに目を落としていてこちらを見ようともしない。その目は、太めの眼鏡フレームに遮られて見えなかった。確信はもてない。しかし様々な要素が彼女は彼女だと告げていた。黒いまま肩まで伸びた髪が、落ち着いた色の服装が、何が入っているのだろうというくらい大きな鞄が。
もうひとつ条件を付け足そう、先ほど「複雑な関係」と書いたがなんのことはない、僕がいくばくか彼女を傷つけ、そのお返しとして、多大なるダメージを与えられたことがあるというだけだ。
当時まだ大学生になりたてだった僕にとって、なるほど女性というのは、自分を袖にした男性に対してここまで残酷になれるのだな、ということを学ばせてもらえた、それはそれは素晴らしい体験だった。感謝したいほどだ。
そう、僕は決して彼女を恨んでなどいないのだ。さらに言うと、袖にしたからって、格別に嫌っていたというわけでもない。だからこその「どのように振舞うか」だ。そう、僕は声をかけようか迷っていたのだ。
人違いの可能性はこの際どうでもよかった。見ず知らずの彼女似の女性に白い目で見られるほうが、彼女に白い目で見られるより何ぼかマシだ。
じゃあ声をかけるか? いったいなんて言えばいいんだろう?
頭の中で言葉をまとめた、――さん、――さんじゃないですか? わぁ久しぶり、今こちらにいるんですね。風の噂で東京に出てきたとは聞いていたけれど、こんなところで会えるなんて。
大人っぽくなりましたね。僕はどうかな……。こうして都会に出ては来たけれど、知ってのとおり気弱で、よく粘りが足らないって怒られたりしている。
――さんの蛇のような執念深さをときどき懐かしく思い出して、参考にすることすらあるんだ。
ところで、――さんは何をしているんですか? 確かあのころは……
そこまで考えて、彼女が読んでいるレジュメの、細かい文字に目を凝らした。途端に膝から力が抜けそうになる。
「カンピロバクターの高感度,定量的,迅速検査法の開発と応用」
僕の知っている彼女は、法学を志す正義感に満ちた女性だった。
気がつけばもう降りる駅で、僕は振り返りもしないまま家の最寄り駅に降り立った。
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「なんだ、結局勇気がなくて話しかけられなかった上に人違いで結果オーライでした、って話?」
「そう取ったんならそうなんでしょうね、君の中では」
「まぁいいんじゃない、彼女の性格的に、そんなふうに話しかけられたら罵詈雑言の嵐か、最低でも嫌味のひとつは言われたに違いないよ。無駄に苦しまなくて済んでよかったじゃない」
「うん」
「で、さっきから何してるの?」
「検索」
「検索?」
「うん」
「なんでまた」
「言いたいことをあそこまでまとめてしまうとね、本当の所在が気になりだすものなんだよ。そうして会って言ってみたくなる。たとえ苦しいことだとしても」
そう応じて僕は、ネットの海へと船を繰り出した。僕の冒険はこれからである。
月曜はまだ遠そうだった。
苦しみの冒険 堀越葵 @mtflat
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