第32話 日差しの中でふたたび-3

 「名前を教えてください」

 「…はあ」


 次までに考えておく、という宿題に対して、私の出した答えはこれだった。

 名前を知らない。下の名前を知らない。私の中では、結構大きなことだ。私は、どんな友達でも、ある程度親しくなったら下の名前で呼んでいる。何故なら、距離が近づく感じがするからだ。


 友達がより友達らしくなる。そんな感覚が好きだった。 


 「名前を、教えてください!」

 「名前…『三浦さん、おはよう』って声かけてきた人が何を…」

 「下の名前です!」

 「ああ…」三浦さんは首を傾げて、んー、と言ってから、「だめ」

 「ええ…なんで…!?」

 「だってもし教えたら、君、私の事下の名前で呼ぶでしょ」

 「はい」

 「それは、嫌です」

 「ええ…なんで…!?」 

 「…恥ずかしいので」


 三浦さんは少し目を逸らして言った。私の中では、何か凶悪なものが暴れまわっていた。


 「とう…とい…!」

 「いや、昨日からそれなに?」


 そうか、と思う。下の名前を呼ばれたら、恥ずかしいのか。そんなことを言われたのは初めてだった。三浦さんはしきりに首元を触っていて、落ち着かない様子なので、嘘を言っている感じではない。じゃあ、すっごい変な名前なのかな。三年寝太郎みたいな。


 いや、そうだったとしても。私はどんな名前でも三浦さんの名前を知りたいし、それを嗤ったりはしない。それよりも、もっと仲良くなりたいのだ。


 「じゃあ、こうしましょう!」

 「?」


 私は人差し指を立てていった。


 「私とゲームをして、私が勝ったら三浦さんの名前を教えてください!」

 「え…」


 三浦さんは困惑した様子だった。


 「なに急に」

 「だって、このままじゃ三浦さん、ほんとに教えてくれなさそうじゃないですか。だからちょっと条件を出してみようかと」

 「ふむ…」三浦さんは首を傾ける。「その勝負に、あなたが負けたら?」

 「三浦さんの言うことを何でも聞きます」

 「制限は?」

 「え」

 「お願いの上限数」

 「一個じゃないんですか…?」

 「十個だったらやる」

 「おお…結構な数要求するじゃないですか…良いですよ、十個で。やりますよ」

 「そんなに名前が知りたいか…」

 「知りたいです。そのためには馬車馬のように働くことも吝かではありません」

 「いや、それだと君負けちゃってるけど」


 確かに、盲点だった。心の中では何度もうなずくが、私は仕切り直すように咳払いをした。


 「さて、その内容ですが」

 「…ちょっと怖いな」

 「見つめ合って、先に目を逸らした方が負け、というなんともシンプルなゲームです」

 「……」


 三浦さんは黙って、しばしの間停止した。私の方を見っぱなしなので、早速始めているのだろうかと思ったが、ほどなくして、うぇ、と声を出した。


 「何ですかその嫌そうな声は」

 「だってなんか…」


 三浦さんは首を傾げて唸った。目は私から外して、瞑っている。


 「バカップルみたいでヤなんだけど…」

 「え…」

 

 ああ、確かに。私はぶんぶんと、今度は本当に頷く。三浦さんの言う通り、付き合って一か月くらいの大学生カップルが、休講の日とかにやりそうだ。偏見だけど。 


 「持って来いじゃないですか」

 「いや持って来いではない。意味が解らない」

 「じゃあ、やめますか。不戦勝ですか」

 「えー…じゃあやるけど」


 一瞬駄々をこねた三浦さんだったが、すぐに了承した。何だ結局やるのかい、と少し落胆したわけだが、まあ、三浦さんを合法的に凝視できるのならば結果オーライだ。


 「…ではやりますよ」

 「はいはい」


 三浦さんは疲れた様に頷いた。


 「よーいどん」

 「じーっ…」


 三浦さんは黙って私の目を見る。


 私も黙って三浦さんの目を見る。


 いや、私はどちらかというなら、顔を見ていた。


 はあ、やっぱきれいな顔をしているなあ、とか。


 三浦さんは爆笑したりするのかなあ、とか。


 ああ、やっぱり好きだなあ、とか。


 そんなことを考えながら、ここ最近思いださない日は無いほど考えている、三浦さんの顔を見つめていた。


 どどど、と心臓の脈打つ速度が加速していく。それでも、三浦さんから目を離すことは出来ない。これが、見惚れる、ということなのだろう。


 「……」

 「…ねえ、精神攻撃やめてくれない?」

 「え」

 「さっきから褒め殺しなんだけど。きれいとか、整ってるとか、そんなことばっか言って…」

 「口に出てましたか。まあ、別に話しちゃ駄目ってルールはありませんし」 

 「そうですか…なんかずるいな…」三浦さんは言う。そういえば赤面している。


 ああ、可愛いなあ、赤面。


 「やめて…」 

 「ああ、また出てましたか。じゃあもう言っちゃいますね。可愛い」

 「怒るよ」

 「それもちょっと見てみたい自分がいます」

 「…変態」

 「ぞく」

 「変態…やだ…」

 「嫌がってるの珍しいですね。可愛い」

 「んーもー!」三浦さんは怒ったような声を出してから、目を伏せた。「やめやめ、私の負けで良いから…もう…恥ずかしい…」

 「もうちょっと見つめて居たかったですが、そういうことなら、私の勝ちですね!」


 私はよっしゃーと右手のこぶしを掲げて見せた。


 「……」


 三浦さんは呆れたような顔をしてそれを見ていた。


 「さあ、教えてくださいな」


 私は満面の笑みを向けて言う。そういえば別に勝負が終わっても三浦さんの顔を見て良かったのだった。


 このままずっと見ていようかしら。


 「…え―――――っと」


 三浦さんは明らかに渋っていた。赤面して目を伏せているのはなかなか魅力的だったが、その中には確実に嫌そうな感情も見て取れる。


 だとしてもね。きっと三浦さんだって、家族には名前で呼ばれているはずだ。全員三浦の名字を持つ環境の中で、流石に個人を識別するための名前は必要だろうから。


 ならば、私も名前で呼んで家族みたいに思ってもらおうじゃないですか。


 「え――――――――――――っと」

 「さらに長くなった」

 「今日じゃなきゃ駄目?」

 「ダメです」

 「言わなきゃ駄目?」

 「許しません」

 「…あなた、強情なのね。まあ、イメージ通りか」


 三浦さんは嘆息混じりに言ってから、言う。


 「…あ、私次だから」


 「そうじゃ無いでしょ!?」

 「え、次だけど」

 「真顔で言われるととぼけてるのか本気で無かったことにする気なのか判らないんですけど」

 「していいの?」

 「ダメです」

 「そうよね」三浦さんはうんうん、と頷いた。「出際で良い?」

 「え、何で?」

 「だ…だって、すぐ出れるから、恥ずかしくても大丈夫じゃない」

 「……」


 三浦さんは次の日も私と会うということを忘れているのだろうか。


 「まあ、いいですけど」

 「それは良かった」


 安堵したような顔をするので、本当に忘れているようだった。あるいは、この場をしのげればもう恥ずかしくないかの、どちらか。


 あと、明日は私と会わないつもりだという可能性がある。


 「……」


 急に不安になる。


 もしかして、私と会わないためにもう少し早い時間の電車に乗るつもりだったりして。


 「…あの、明日も会えますよね」

 「え…? どうして?」

 「だ…だって…明日も会ってくれるなら、出際に言ったとしても、私は名前で呼ぶので、明日は恥ずかしいわけじゃないですか、結局」

 「…………………あっ」

 「……」

 「失念していたわ。それはその通りね。でもいいの。今日の分の恥ずかしさは防げるから、これで良いの。何も間違っていないの。きっと失念していなかったとしてもこの選択をしたはずだから、間違いはないの」

 「…明日の分も、私と会わなければ防げますよ」


 私は何を言っているのだろう。自分からこんな風にネガティブなことを言って、三浦さんが困ってしまうことは解っているのに。


 たぶん、自分が思っている以上に、下の名前を教えるのを渋られたことがショックだったのだろう。それで、変な不安に襲われているのかもしれない。


 でもだからって、三浦さんにあたること無いよな。


 「あ…あの、ごめんなさい。朝からネガティブことばっかり言って…」

 「ネガティブ…これネガティブなのか。私いっつも、しに…いや、えっと。まあ、大丈夫よ」


 三浦さんが言ったくらいで、慣性力を感じる。

 電車が減速し始めた。

 三浦さんはああ言ったけれど、やっぱり私の不安はぬぐえなかった。


 何故あたるような事を言ってしまったのだろう。三浦さんは会わないとか、避けるとか、そんなことを一言だって言っていないのに。


 「…三浦、みどり、ね。私の名前」


 三浦さんは言った。嘆息混じりに言ったなあ、と思ったが、それは三浦さんのではなく、電車のものだった。


 珍しく、三浦さんはため息混じりではなく、はっきりと言った。


 「…また明日ね、あずささん」


 柔く笑った三浦みどりさんが、目の前のドアから降りるまで、私の意識はその言葉だけに集中していた。


 「私の…名前…憶えてたんだ…!」


 なんて、それだけのことで。


 私は明日も、あなたに会えると確信できた。

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