第29話 先生の昔話Ⅰ-3

 「……」


 数十分後、私達は黙りこくって部屋にいた。照明は消えている。全員眠っている体であるが、誰一人として寝入っていないことは、訊かずとも解っていた。あんなものをみて、そうやすやすと眠れるものでは無い。


 私たちは智弘の案内で、私達の担任の先生と三組の担任の逢瀬を盗み見ることに、見事成功した。


 彼らは初め、喋喋喃喃、会話をしていた。まあ、想定内である。恋人同士が険悪に言葉を交わすようになるのは結婚前くらいからだ、と母親から聞いていたから、事前に想像はしていた。


 問題は、そこからの展開だ。


 まあ、当たり前とも言える。会話の後、気持ちが昂ったのか何か知らないが、二人がキスをしだしたのだ。これには私たち四人は顔を見合わせ、少しばかり焦った。


 何故だろう、突き詰めれば、私達はこれが見たかったはずである。しかしどこかで、勤務中にそんなことをするはずがない、と高をくくっていたのかもしれない。昼間の教師の顔を知っている私たちは、彼らが普段は良識ある大人であることを理解していた。

 だからこそ無意識に、職務中に公私混同した行動はとらないと踏んでいたのだろう。


 しかし、彼らは、私達が見ている前で、まあそれは自覚していないのだけれど、キスをしだしたのだ。それも、ディープキスである。これにはさすがの智弘も固まっていた。


 ひとしきりキスを堪能した彼らは、彼女か彼か、どちらかの部屋へと消えて行った。それを見届けると、私達はしばらく『やべえものを見てしまった』という背徳的な感覚に意識を奪われていたが、やがて、そろそろと自分たちの部屋に帰った。


 「……」


 私は布団に入って、目を瞑って、想像していた。私もあんな風に、キスをする時が来るのだろうか。そして、その先も、きっと誰かと。


 何度も繰り返して想像する。しかし、端から相手の顔は朧気だった。その靄が晴れることは無く、現実味のない妄想だけが何度もリピートされる。


 ひそやかに話す声が聞こえて来た。よくよく聞くと、真理の声のようだった。それから、相手は美里のように聞こえる。あの双子はいつも一緒で良いなあ、と少し羨ましくなった。こういう時、驚きとか考えを共有できて、便利だ。


 「…やめ…まり…おきちゃう…んっ」

 「…ね…い…しょ…がまん…でき…から」


 会話の内容は、よく聞き取れなかったが、美里の方の声色が、少し変だった。おそらく、美里だと思う。双子なので声も似ているのだ。だから確実には言えないけれど、二人は何事かをやっていた。


 「……」


 さすがに、まったくわからないというわけでは無い。もしかして、と思うことがある。もしかして、二人は、姉妹で。そんな考えが頭をかすめたが、ぬぐいきれずに、想像は加速していく。そう思ってしまっては、もう、そうとしか考えられずに、さらに悶々とする。


 女の子同士で。

 

 良いんだ。


 そんなことして。


 それなら、私も。


 私は、雪葉のことを考えていた。靄のかかっていたはずの顔は、雪葉の顔になって、私の妄想は第二章へと突入した。


 こんなのが現実になったとして。想像して、嫌じゃないな、とこの時点ではまだ気づいていなかった。


****


 修学旅行の二日目。実質的な最終日。私は無意識に、雪葉の姿を追っていた。どこを回っていても雪葉が今どうしているかが気になるし、雪葉がどこかにいないかとあたりを見渡したりしていた。妙に集中できない。まあ、集中しなければならない事柄などないのだけれど、同じ班の人に悪いだろう。例えば、真理とか。


 「そうね」


 真理はうなずいて、責めるような視線を私に寄越した。というか、責めていた。


 「いや…まあ良いのだけれど。奏には悪いけど、雪葉ちゃんとはたぶん絶対にバッティングしないわよ。回る場所が全然かみ合ってなかったもの」


 真理の言う通りではあった。私たちが今回っているのは、昨日、雪葉の班が回っていたところで、雪葉たちは私たちが昨日回っていたところに行っているはずだった。


 「…まあ、そうなんだけど」


 私は諦め悪く、辺りを見回していた。この修学旅行の間中、一度も雪葉と話していないのだ。一度くらいは言葉を交わして、時間を共有したい。だって、悲しすぎるじゃないか。折角同じ学校で、同じクラスで、最後の思い出なのに、一言も話さずに終わってしまうなんて。


 共有できる思い出がないなんて、嫌だ。


 「…っていってもね。まあ、いないものは仕方ないかあ」私は押し殺して言う。まあ、本当に仕方がないのだから仕方がない。

 「…まあ、そうね。ただ、そんな風に空元気を発揮されてもそれはそれで迷惑ではある」

 美里が言った。こら、と真理が窘める。「……っ」


 なぜか赤面する美里。


 「…二人は楽しそうだね」

 「そうかしら?」

 「…昨日の夜は、二人でナニをしていたのかね」

 「な…なんの話だ!」美里が言う。

 「誤魔化すの下手か!」

 「へ、下手じゃない!」

 「うるっさいわよ二人とも」真理が言う。「…何もしていないから安心して頂戴」

 「いや…堂々と」

 「ただの日課よ」

 「…そんな風に思ってたの?」

 「話がややこしくなるのでフォローは後でするわ」


 真理はきっぱりという。あたかももうこれ以上は取り合わない、という勢いがあった。こういう時、真理と美里で違いが出てくる。美里はむきになって、直情的になるが、真理は冷静に諫める。やっぱりバランス良いよなあ、と思う。


 「ただまあ…あなた達もあなた達で、相当仲が良いと思うわよ?」

 「なんで?」

 「だって、いつも一緒に帰っているじゃない? お互い別に友達いるのに、二人で帰るのが当たり前っていうみたいに、毎日一緒じゃない。それはやっぱり、あなた達の関係性でしか成り立たないことだと思うわよ」

 「私達も毎日一緒よ!」美里がいう。

 「いや、そりゃ、二人は同じ家に住んでるからね…?」

 「…まあ、それだけではないのだけれどね」

 「……っ」

 「ほんと君たち楽しそうだねっ!」


 そんな願望もかなわずに、なにも無いまま夜になって、明日はもう帰るだけである。今日も今日とて智弘は、私達の部屋へきて、夜更しして話したけれど、流石に、逢引の件には触れず、今日のあそこがだるかったとか、つまらなかったとか、楽しかったとか、そんな話をした。


 智弘にしては当たり障りがないなあ、と少し思ったが、口には出さない。智弘だって、あんな場面を見て少なからずショックを受けていることは解るからだ。そこに触れてしまうのは、いささか思いやりが足りないだろう。


 「…うつらうつら」美里が眠くなったようで、そんなことを呟いた。

 「眠い?」真理が訊く。

 「眠いわ。眠すぎて発狂しそう」

 「そりゃ随分だね…」大袈裟にいう美里に、私は苦笑いで応じた。

 「あー…私も眠くなってきたな」


 意外にも、智弘が同調した。このまま朝まで起きておくのかと思ったが、どうやら、智弘は寝不足らしい。

 昨日眠れなかったんだろうなあ、と察する。もともと、大して体力があるというわけでも無い子なので、こうなるのも当たり前だろう。


 「じゃあまあ、今日はお開きということで。また明日」真理がそう言うと、おやすみ、と倒れ込むようにして美里が布団に入った。智弘も異口同音に言ってから、部屋を後にする。


 間接照明を消すと、もう真っ暗闇だった。山奥、というほどではないが、市街地からは少し外れている旅館なので、外からの明かりは月と星だけで、室内に入ってくるほどではなかった。


 そろそろ寝ようかと呼吸を深くすると、かちゃ、と静かに扉が開く音が鳴る。最初は先生が来たのかとも思ったが、足音を立てないように気を付けつつ這入ってきているのがわかる。

 誰だろうかな、と少し怖くなったところで、よく知った声が私を揺り起こした。


 「かなで、おきて。いこう」


 待ち望んだ、雪葉の声だった。


****


 寝静まった旅館は、しかし、それほど怖くはなかった。照明が消えていないのはとてもいい。


 それから、雪葉の感触がとてもいい。手から伝わる温度に安心した。


 途中止まったりしながら、見回りの先生に見つからないよう、進んでいく。


 なんだか雪葉が勇ましく見えて、内心ドキドキする。まあ、手からはさすがに伝わったりしないだろうけれど、それでも私は気取られないよう気を遣って、平常心を保とうとした。


 しかし、と思う。そんな状況にときめきつつ、私は首を傾げる。雪葉が何をするつもりなのか、私はどこへ誘われたのか、皆目見当が付かないのだ。さっき私を呼びに来たときの雪葉はとても爛々とした表情だったので、きっと悪いことでは無いということと、階段を降っているから、外に出ようとしているということだけは解る。


 外に出て、いったい何をしようというのか。というか、外に出るならフロントの人に止められたりしないだろうか。

 階段を降ると、『一階』という表示が壁にあった。やはり、思った通り外に出る気なのだ。


 「おねえさん」


 囁き声で、雪葉が喋り掛けたのは、フロントに立つ若い女性だった。


 「ちょっと出てきます」


 そう言って、手を振って、フロントの女性も軽く手を振る。


 え、ちょっと、いつの間に仲良くなったの?


 静かにしないといけない雰囲気だったので、そうは訊かなかったが、引っ掛かりを覚える。ああ、どうして雪葉は誰とでも仲良くなるのだろう。嫉妬が頭をかすめた。


 紛れもない独占欲を自覚して、汚いなあ、と自分で落胆した。


 いつでも雪葉の一番近い友達でありたいし、現にそうなのかもしれないけれど、でも、満足できない自分がいる。それはきっと、雪葉がいつでもどこでも私の隣にいてほしいという、醜い願望のせいだろう。


 いつから何を間違えて、こんな人間になったんだろうなあ。


 「……」


 嘆息をかみ殺す。せっかく雪葉と二人なのに、暗い感情を持ちこみたくないから。


 宿を出たなあ、と思うと、雪葉はぐるりと裏手に回った。おお、どうしたどうした、と私は少し警戒する。宿の裏手はちょっとした森になっていて、街からの明かりが全く入ってこない。まあ、そこを抜けたら道路なので、車の明かりが少しは入ってくるけれど、ほとんど輪郭すらつかめない程に暗いのだ。


 「…ねえ、雪葉どうしたの? こんな暗いところで」


 雪葉が立ち止まったので、私はゆっくり尋ねた。


 雪葉は手を繋いだまま、こちらを向かずに、言う。


 「…奏、私寂しかったよ。奏と一緒に、修学旅行まわれなくて。お話しも、全然できなかったし。…奏は、寂しかった?」


 私は静寂に震えるその言葉を聞いて、驚いて、一瞬間答えられない。雪葉も同じ気持ちだったのかという喜びと、寂しかったに決まっていると答えたい気持ち、それから、真理と理美のことが頭をよぎって、衝撃が支配する。


 何か答えなくては。


 そう思ったのは、しかし、数秒後だった。


 「…寂しい、よ。苦しかったに、決まってるよ」

 「でも、奏、楽しそうだったじゃん」

 「…押し殺してた。同じ班の人に悪いかなって。楽しそうにしてなかったら、嫌な感じじゃない」

 「う…確かに」

 「…っていうか、どこから見てたの? 私も雪葉を探していたけれど、全然姿が見えなかったのに」

 「……。部屋の中をこっそり見てたり、すれ違たりはしてたし…」

 「嘘だ」

 「ほんとだよ。手、振ったりしてたけど、奏、全然気づかないんだもん」

 「…うそ」

 「ほんと」


 私が雪葉に気づかないなんて、そんなことがあるはずない。


 そう思ったが、確かに、宿は同じで、なのに一度もすれ違わないというのは、お

かしなことだろう。しかも、団体行動が基本であるのに、それはさすがに不自然だ。


 私が、雪葉を見逃していた、のか。


 雪葉は私を追っていてくれたのに。


 「ご…ごめん、雪葉気づかなくてごめん。私もずっと雪葉を探していたのに、どうして気づかなかったんだろ。…寂しい思いをさせて、ごめん」

 「…奏が気づいてくれなかったのは、寂しいし、悲しい。修学旅行の間、一度も話せなかったし」

 「……」

 「だからこうして、奏を連れ出したんだよ」


 雪葉は悲しそうな顔をしてから、不意に微笑んだ。そして、人差し指を立てて、「うえ、見て」と言う。


 言われたとおりに見ると、そこには星空が広がっていた。冬の気候のために空気が澄んでいるし、街からの光もないので、プラネタリウムで見るような、教科書に載っているような、そんな星空がある。


 これを、私と見たかったのかな、雪葉は。

 

 きっとそうなのだろう。


 雪葉の方を盗み見ると、照れ臭そうにしながら、空を見上げている。


 「綺麗だね」

 「綺麗でしょ」


 そんな、素直な感想しか出てこない。本当はもっと色々なことが頭を巡っていて、それを口に出せば静寂なんかは消えてなくなるはずなのに、どうにも、言語化できない思いでいっぱいだった。


 私達を取り囲む星空は、きらきらきらきら、笑っている。


 お互い、言葉少なになっていく。雪葉と二人で、二人きりで星空を見ているなんて、夢心地で、現実感がちっともない。あるのは、吸い込まれそうな星空と、耳が痛いほどの静寂による、浮遊感だ。いや、夢でさえ、こんなにも自由を感じたことが無い。


 あの先生たちも、こんなふうに思い出を作ったりしているのだろうか。そんなことが、頭を過る。


 いつまででも見て居られると思った。雪葉の横顔を盗み見る。熱に浮かされたように、目を潤ませていた。


 こんな表情もするんだな、雪葉は。初めて見た。何年もお隣さんをやっていて、初めて。


 「…ねえ、雪葉」

 「ん?」


 真理と美里のことを思い出す。あんな関係になれたら、私は。


 私は、嬉しいに決まっている。


 「ちゅーしたい」


 気付けば、そんなことを口走っていた。しかし、後悔はないし、やってしまったという意識もない。無意識下だからこそ、本当に本音であるし、無意識下でなければ言えなかったことだ。言えてよかったという確信すらあった。


 真剣に隣のお隣さんを見つめる。


 雪葉は驚いた風に、少し目を大きくする。それから、顔を赤くして、目を伏せた。逡巡したのち、小さく、頷いた。


 「……」


 頷いた。そのことが意味することを、私はかみしめる。


 雪葉が目を瞑った。輪郭しかわからなくても、雪葉のことならなんでも分かる。


 私はゆっくり顔を近づける。雪葉の瞼が見える。私のまつ毛と雪葉のまつ毛がふれ合いそうな位置まで来て、私はふと思う。


 もし、このまま雪葉にキスをしたとして。


 それで、拒絶されたら?


 雪葉が目を瞑った理由が、私とキスをするためでなく、ただ考えているだけだったら?


 ここで、キスをして、雪葉は私を嫌ったりしないだろうか。


 雪葉の唇を目前に、私は静止して、考えた。


 だめだ。


 「…ちゅ」


 と、雪葉の頬に自分の唇を押し当てた。ぷに、とした感触が私に伝わる。


 「…っ?」雪葉が戸惑いつつ、ゆっくり目を開いた。「あ、あの、奏…?」

 「ん…?」


 私は何事も無かったように首を傾げて見せた。それが自分にとっても雪葉にとっても残酷なことだと知っていて、それでもなお、笑って見せる。


 馬鹿だなあ、と私は、結果論だが、そう思う。


 この時の雪葉の戸惑いと、悲しげな顔は今でも忘れられない。


 「そ…そっかそっか! そうだよね、うん!」

 「……」

 「勘違いしちゃった…」雪葉は顔を赤らめて、必死で取り繕う。


 私は何も言えずに、心の中でごめんねと言った。それから、先ほどとは打って変わって、死にそうなくらいの後悔を覚える。


 こんなことなら。こんな気持ちになるなら、雪葉にこんな表情をさせてしまうくらいなら、ちゃんと、真正面から、雪葉にキスをして、好きだと伝えればよかった。


 好きだと言って、ちゃんと恋人になって。


 特別になって。


 選ばなかった未来の妄想が、瞬時に頭のなかを巡るが、それはどうしようもなく幻想で、現実味が皆無で、馬鹿みたいだった。


 星空が笑っている。きらきらきらきら、私達を囲んでいる。


 うるせえ、と何故か思った。


 そんなわだかまりを残して、私達の小学校は終わっていった。


 そして、私達は中学生になる。


 私と雪葉との決定的な転換点となる、中学生活が始まろうとしていた。

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