第26話 好きな私の空回り-4

 人生はままならないものだ。それは、うん、今更だ。思い通りにいかないのも、夢が夢で終わるのも、全部が全部知っていることだった。しかし、今はそれが憎らしい。もう少し融通が利かないだろうか、と思ってしまうのだ。


 樹希ちゃんは、日増しに憔悴していく気がする。精神的に、もしかすると、肉体的にも。いや、精神が疲労すれば、肉体も疲れるに決まっている。逆もまたそうだろう。


 私は樹希ちゃんの話を聞いている。毎日、私に打ち明けてくれていて、私は適切に相槌を打てていると思う。それに、樹希ちゃんも楽になってくれていると思う。


 でも、それは頓服薬のようなものなのだ。この苦境を耐え忍ぶための、痛み止め、あるいは麻酔みたいなことだ。


 私にはそれしかできない。根本的な解決には決して至らず、ただ「楽にする」としかできない。


 こんな自分を情けないと思う。樹希ちゃんの力になると啖呵を切ったものの、私ができるのはこの程度で、樹希ちゃんを救うことは出来ないのだ。


 出来ない、のか?


 そんな問いがここ最近ずっと続いている。


 樹希ちゃんの話を聞くたび、続いて行く。


 「まあ、第三者ができることなんか知れてるよね」


 憂色の貴公子こと、雫が言った。こいつはいつも達観しているよなあ、と感心した。

 私なんて、その知れていることで悩んでいるのに。


 「知れてるかあ」

 「もっと言えば、無理がある。本当なら何も出来ないもの。綾乃は、だから、力になれていると思うよ、精いっぱい」


 一応、悩みの内容は避けた。

 樹希ちゃんだって赤の他人にそんなこと知られたくないだろうし。


 「んー…満足できない」

 「それは、どうなんだろうね。相手が満足していればそれで良いのか、それとも、綾乃が納得するべきなのか」

 「難しい問題ですねえ」

 「お、コメンテーターみたい」

 「ほんと?」

 「実際より頭良さそう」

 「何だとこらあ」


 そんなくだらない会話をしつつ、確かに、と思う。雫の言う通り、樹希ちゃんが本当に満足してくれていれば、私はそれで良いはずなのだけれど、何だかすっきりしない。


 何だか、前にもこんな事があったような気がするのだ。樹希ちゃんが誰かに傷つけられていて、それを私は救おうとする。


 でも、救えない。樹希ちゃんは壊れて、私だけが残る。


 そんな時が、いつかわからないが、ぼんやりとあった気がする。


 「デジャヴ」

 「が?」


 私が考えていることとドンピシャなことを言うので、少し驚く。


 「あれ、脳の誤作動らしいね」

 「あー…どうなんだろ。私、前世とか信じるタイプなんだよね」

 「え、綾乃が? 意外」

 「なんでさ」

 「綾乃、だって存外冷めてるから…『前世? そんな非科学的なこと、まだ信じてるの?』とか言いそう」

 「あんた、人をなんだと…」


 前世というより、夢っぽいな。ここ最近は樹希ちゃんのことばかり夢に見るのだ。樹希ちゃんとキスしている夢。キスって、アレですよ? 深いやつ。


 いっつも恥ずかしくなるんだよなあ、起きるとき。樹希ちゃんはいつも私より早く起きているから良いようなものの、たぶん樹希ちゃんが眠っていたら、魔が差す。そのくらいリアルで、照れるくらいなのだ。


 「まあ…好きな人ならなおさら、下手の動きできないよね」

 「すき!? な、なに、いきなり」

 「仮定の話」にや、と雫は言う。

 「あんた、なんか知ってんの?」

 「いやいや」雫は緩く否定してから、「大胆な行動って、ある程度どうにでもなれ、って思ってないとできないなあ、と思ってさ」

 「そういうもん?」

 「もんだなあ。だって、もし冒険して、それで相手に嫌われたりしたら、ことだもの。だから、好きだったら好きな分だけ、踏み込みづらくなって行くよね。距離を縮めるのが、とても慎重になる」

 「それなあ」

 「それそれ」


 なんか、経験者なのか、見てきたように語っている。気になる。雫の恋愛遍歴が気になる。この王子様は昔からさぞモテたことだろう。もしかして、女の子と付き合ったことあるのかな。そうだったら、話を聞いてみたいものだけれど。


 「だからまあ、もしも綾乃がその従姉妹さんのことが好きなら、踏み込みづらいよねえ」

 「踏み込みづらいねえ…」

 「あれ、初めは嫌いって言ってたのに」

 「まさかのミスリード」

 「ま、いいんじゃない? 家族は仲良い方がいいよ」

 「…仲いい方がいいのか…そうだよねえ…じゃあ良かった」

 「含みがある気がする」

 「ない」


 私はきっぱりと言う。雫はにやにやしつつ、続けた。


 「まあ、もしそれで上手く行けば、もっと仲良くなれるかもね」


 解らんけど、と予防線を張るように付け足した。


****


 「っあやのちゃーん」

 「うお」


 その夜。樹希ちゃんはまだだろうか、そろそろ眠くなってきたと考えながら本を読んでいると、急に扉が開いて、ホカホカの樹希ちゃんが抱き付いてきた。


 いつの間にか帰ってきて、先にお風呂に入ったらしい。


 「えっと、お帰り」

 「ただまだよ。会いたかったよお」

 「ど、どうしたの…って、ちょっとお酒入ってる?」

 「えへへー…きょう、ゼミの飲み会あったんだよ」

 「ああ、それで…っていうか、樹希ちゃん十九歳じゃない?」

 「あー…私も一応言ったんだけど、なんかみんな飲んでたからさ…そういうもんみたいだよ?」

 「よく聞くけどね、確かに。…楽しかった?」

 「んー。まあ、結構楽しかったよ。色んな人と話せたよ」

 「そっか、よかった」


 私は言いながら、その話したとか言う顔も名前も知らない人に、軽く嫉妬していた。いいなあ、樹希ちゃんと話せて良いなあ。いや、私なんて毎日話してはいるけれども、一時たりとも漏らしたくないのだ。


 我がままだなあ、と自分でも思う。


 「…でもなんか」樹希ちゃんは言いながら、私を抱く腕を強くする。「やっぱり、あやちゃん見ると安心する。ありがと」

 「ありがとって…私、なんもしてないけれど」


 してない、ではなく、できない、だけれど。


 「いやいや。そんなこと無いよ」

 「……」


 最近、具体的には樹希ちゃんの問題を知ってから、樹希ちゃんは私に、そんな風に言う。

 私に対する樹希ちゃんの立場が、はっきりしている気がする。気のせいだろうか。


 「…樹希ちゃん、今日温かいね」

 「ん? 気温?」

 「体温」

 「ああ。お酒入ってるからね。あと、お風呂入った後だし」

 「そっか」


 その温度が私に移る。ちょっと暑くなってきた。


 「ね、あやちゃん」

 「ん?」


 呼ばれて、私は顔を上げる。


 あげてから、やめときゃよかった、と思う。樹希ちゃんの顔がすぐそこにあるのだ。夢の内容を思い出す。私は樹希ちゃんを押し倒すようにしていた。そうして、見つめ合ったのち、激しくキスをする。それを思い出す。否が応でも思い出す。


 唇に目が行った。それから、目を合わせる。


 「ど、どうし、たの…?」

 「ありがとうね、あやちゃん」

 「……」


 頬が上気している。目が潤んで、少し眠そうに半分ほどしか瞳が見えていない。口も同様に半開きだった。その口元は、微笑んでいる。


 無防備な姿だと思った。眠っているより、ずっと。


 だめだ。


 「ちょ、ちょっとトイレ行ってくる…」

 「あっ…」


 私はそう言って、部屋を飛び出した。転びそうになりながら階段を降る。それから、トイレに入って、鍵をかける。

 扉にもたれかかって、私はやっと息を吐いた。


 「…危なかった」


 あそこで離れなければ、多分私は、樹希ちゃんと夢の通りにしていたように思う。いや、ディープなやつはさすがにアレだけれども。


 もし、していたら。


 そう思うと、おっかない反面、少しドキドキする。


 キスしてみたいのだ。樹希ちゃんと。


 「……」


 どうだろう、と私は少し魔が差していた。今、樹希ちゃんの味方は私しかいないわけで、そんな私から求められて、樹希ちゃんは果たして拒めるだろうか。そもそも、樹希ちゃんがそんなはっきりしたことを言ってくるだろうか。もしかしたら、今なら何をしても受け入れてくれるのではないか。


 「…いやいや」


 それで好きって言ってもらえて、それで私は嬉しいのか? いや、嬉しいかもしれないけれど、そんなの、偽物だ。私しか得していない関係なんて、そんなものは恋人とは言わない。


 言わない。言わないはず。


 「言わないよ、絶対」


 そこで、トイレの扉がノックされる。


 樹希ちゃんだろうなあ、と予想したが、案の定、「あやちゃん…?」と声がした。「ごめん、怒った?」

 「お…怒ってないよ。全然全然。怒るような事されてないし」

 「ごめんね、ちょっとお酒入ってるから、変な絡み方しちゃったね」

 「大丈夫大丈夫、気にしてないよ」

 「そう?」


 するする、すとん、と音がする。樹希ちゃんも扉の前に座ったのだ、とわかった。たぶん今、扉を隔てて背中合わせに座っている状態だろう。


 いや、これほんとに用を足してたらどうするんだ。すっげえ恥ずかしいと思うんだけどな。


 「……」


 黙るし。えー…出るに出れない。なんだ、何が目的なんだろう。


 「…今日さ、気付いたことがあって」


 どーしよーここで寝ようかな、なんて考えていると、樹希ちゃんが口を開く。なにやら真剣な声色だったので、私は居住まいを正す。


 「なんか最近、ずっとあやちゃんのことばっかり考えている気がするんだよねえ」

 「え…そ、それはどういう」

 「今何してるのかなあ、とか、何考えてるのかなあ、とか、そんなこと。思えば私、あやちゃんのことあんまり知らないんだよね。好きなものとか、嫌いなものとか」

 「はあ…」

 「だからなんか、知りたくなってきたの。あやちゃんのこと、全部」

 「好きなもの…」


 好きな人は、あなたです。


 そう言ってしまいたくなったけれど、今では無い気がした。


 「だから、教えてほしいな。私の話も聞いてほしいけど、あやちゃんのことも聞きたい」

 「あ、ありがと…」

 「私も、あやちゃんにお返ししたい。ありがとう、って言っても、あやちゃんあんまピンと来てないみたいだから」

 「……」


 ピンと来ていないのは、当たり前なのだ。私は何もできていないし、樹希ちゃんは何もされていない。ただ話を聞いているだけだ。そんなこと、私じゃなくてもできる。なんなら、携帯電話にだってできる。それなのに、樹希ちゃんはそんな言葉をかけてくれるのだから、反応が微妙になるのも当然というものだ。


 「…あやちゃん?」

 「い、いや。あ、樹希ちゃん。先、寝ちゃってていいよ。…結構かかりそう」

 「…そんなやばいの?」


 樹希ちゃんはいったい何を想像しているんだろう。何を想像しているにしても、何だか恥ずかしい。実際はただ座っているだけなのだけれど。


 「…じゃ、おやすみ、あやちゃん」

 「うん。おやすみ」


 結局、樹希ちゃんは何を言いに来たのだろうか。私のことが知りたい、とは言われたけれど。


 「…あれ」


 百合厨の頭だからだろうか。それ、百合漫画だったら、結構良い感じじゃないだろうか。付き合う一歩手前、的な。


****


 「ねえ、だからさ、もうちょっと何かあったら付き合えると思うんだよね! ちょっと前まであははーとかうふふーとかしか言ってなかったのが、私のこと知りたいって! すごくない!? というか、やばくない!? よくこんななったよね!? ね!?」

 「お、おう…せやな」


 テンションが上がっている私をよそに、雫は少し引き気味だった。


 帰路。テスト期間に入ったため、部活は休みだった。そんなわけで私はかなり元気なのだ。こんなテンションにもなろうというものである。


 「しずく! ちゃんときいてる!? わたしさ、なにすればいいかな!」

 「知らんがな」

 「冷たし! いと冷たし! なにさー、いつにも増して素っ気ないじゃんかー」

 「いつも素っ気ないみたいに言うな」雫は疲れた様に対応した。それから、少し迷ったような素振りを見せてから、「っていうか、綾乃の、従姉妹さんに対する好き、ってそういうやつだったんだね」

 「え、今更?」

 「確かに」


 雫は苦笑いで頷いて、ため息を吐いた。物憂げな表情をしたり、唸ったりと、忙しく表情を変える。


 「どうした。友達が同性愛者じゃ駄目か。なんか前、妹にそんなことを言われた気がする」

 「あんた妹居ないだろ」

 「確かに」


 なんだろうこのやり取り。


 「まあ、あれだよ…昔のことを思い出した」雫は嬉しそうに言う。しかし同時に悲しげでもあった。

 「昔の」

 「そう。私も昔、女の子と付き合ってたことがあってさ」

 「あ、やっぱり? なんかそんな気してたわ」

 「そう?」

 「うん。雫、王子様だもんねー。ほっとくわけないよ」

 「…まあ、私は昔、こんなふうにモテる奴ではなかったんだけどね」

 「そうなん?」

 「友達が欲しいやつだった」

 「へえ…意外だね。今なんか全方位女の子を侍らせてるのに」

 「侍らせてねえ…前は一人だったんだ。その女の子だけは、私の傍にいてくれたんだけどね…自然消滅、ってやつだよ」

 「そっか…」

 「もうちょっと一緒にいたかったんだけどなあ」

 「え、振られたの?」

 「みたいなもんだよ。ある日突然いなくなるんだもん。びっくりしたよ」

 「……」


 もしかして、雫が恋人を作らないのはその子に要因があるのだろうか。


 「…私は、突然いなくなったりしないからね」

 「綾乃は別に恋人じゃないだろ」

 「まあ、そうだけどね」

 「あー…私も誰かと付き合いたいなあ…」

 「やだもー、私と樹希ちゃんはまだ付き合ってるわけじゃないんだからね!」

 「楽しそうだな、このやろー」


 雫は言ってから、伸びをした。した後に、あ、と声を出してその姿勢のまま立ち止まった。いや、立ち止まった、というよりは雫の時間だけ止まってしまったような感じだった。


 数歩前へ歩いた私はそれに気付いて、振り返る。


 「どうした雫さん」

 「いや…その従姉妹さんは、今日はもう帰ってんの?」

 「…どうしてそんなことを聞く。ま、まさか、雫も樹希ちゃんを…!」

 「いや、そうじゃ無くて」


 ほれ、と雫は指を指した。示された通りその方を見た。


 「結構会うもんだね」

 「…雫は一緒じゃ無かったけど、この前も出くわしたんだよね」

 「マジか。すごいな。運命じゃない?」

 「やめーや」


 にやにやしながら雫は言うが、私は浮かれる気分ではなかった。

 当たり前とも言えるが、樹希ちゃんはあの三人と一緒にいたからだ。例によって、樹希ちゃんは疲れた様に笑っている。昨日見せてくれた気の抜けた笑みとは一八〇度違う。


 「…どうした?」

 「いや…」

 「声かける?」

 「ううん」


 言いながらも、私は樹希ちゃんの方を見続けていた。私は読唇できるわけでは無いけれど、それでも、樹希ちゃんは同じ言葉を定期的に口にしている。


 『ごめんね』だ。


 何をそんなに謝っているのかは知らないが、ただ話しているだけで謝るような状況とは何だろうか。見たところ、樹希ちゃんが行動的に迷惑をかけているようには見えない。


 むかむかとした怒りは、徐々に私の内面を支配していく。


 すると。


 「…!」


 樹希ちゃんがこちらに気付いたようだった。横目でしか見てこないが、確かに目が合った。にへ、というふうに、安心したような笑みを送ってくれる。そのあとで、軽く手も振ってくれた。


 「…私は」


 私は、そんな人間じゃない。そんな笑顔をもらえるような人間じゃない。


****


 「樹希ちゃんを、もう虐めないでください」


 気付いたら、そんなことを口走っていた。樹希ちゃんはいないタイミングだった。例によって、この人たちのために何かを買いに行っているのだ。大学生三人に向かってこんなことを言うのは少し怖い気もしたが、そんな理性は職務放棄を極めこんでいた。


 今、私はどんな表情をしているのだろう。怯えたような表情をしていないだろうか。


 「…いじめる、って何のことかな?」


 面食らったような表情で、私に向かってそう言う。この前カラオケボックスで名前を聞いた人だったが、どんな名前だったか、もう忘れてしまった。


 「惚けても無駄です。樹希ちゃんから聞いていますから。今もそうでしょう? 樹希ちゃんに払わせて、あなたたちはお金を出していない」

 「それは…別に、払っても良いけど」


 相手は困惑した表情を作っている。他の二人も同様に、首を傾げて応じる。


 それが白々しく思え、私の苛立ちはさらに募っていった。


 「…何言ってるんですか。無理やり払わせているのでしょう? 手持ちがないとか言って、立て替えさせているのでしょう? それで、あとで返さない。それじゃあ、立て替えてるとは言わないじゃないですか」

 「手持ちがない…」

 「本当はそんなことなくて、樹希ちゃんに払わせる口実でしかないんでしょ?」

 「……」


 そこで、双方黙ってしまう。相手は考えるような素振りをして、私はそれを睨みつけたままだ。何を考えているのだろう。言い訳だろうか。


 「…あの、多分誤解しているみたいなんだけれど」


 相手はゆっくり声を出した。


 「誤解?」

 「うん。私たちは別に、襲さんに支払いを要求してるわけでは無いよ?」

 「…だから、要求したわけではなくても、よってたかって断り辛い雰囲気を出しているんじゃないんですか?」

 「え…」相手は驚いたような表情を見せてから、「そうなのかな…」と一つ呟いた。


 そこで私はようやく違和感を覚えた。相手の反応にいちいち自信がないのだ。てっきり高圧的に対応されるものだと思っていたから、この対応は意外だった。


 「……」


 もしかして、樹希ちゃんと私が勘違いしていて、この人たちは何もしていないのだろうか。そんな考えが頭をかすめる。


 いやいや、と自分を鼓舞するが、相手は言葉を続ける。


 「あのね、綾乃ちゃん。私たちが認識していることとしては、襲さんがお金を払ってくれていることは間違いないけど、強制しているわけでは無いんだよ…むしろ、毎回払ってもらって悪いなあ、って思っているくらいで」

 「そんなの、あなたたちが勝手に言っているだけで、樹希ちゃんにとってはそうじゃないんですよ」

 「そっか…そうなのかな」相手は言ってから、「もしかして、それを言いに?」

 「はい」

 「…襲さんのことが好きなんだね」

 「家族として当然のことをしているだけです」

 「襲さん、綾乃ちゃんに嫌われてる、って言ってたから…でもそんなこと無いんだ」

 「…私はそんな話をしに来たんじゃありません」

 「ああ…そうだよね。でも、私たちから言えることは、もう言ったんだよねえ…どうしたもんかなあ」


 相手は困ったように言う。困るのは私の方だった。


 なんでこの悪役はこんなに良い人なのだろうか。いや、良い人、というよりは普通の人なのだ。悪くも良くもない。


 なんなのだ。なんなのだろう。


 「とりあえず…襲さん迎えに行かないとな」


 相手はそう言って歩きだそうとするが、すぐに立ち止まった。なんだ、とその方を見ると、樹希ちゃんがこちらに向かってきていた。


 ファストフード店の紙袋を片手に、確信のある足取りだった。しかし、その途中、どうやら私の存在に気付いたようで、減速していく。


 私たちと、あと五十メートルといったところで、遂に立ち止まった。


 「…襲さん? どうしたんだろ…」


 心配そうに声を出した。


 それが聞こえたのかどうかは解らないが、樹希ちゃんは踵を返して、一直線に走って行った。


 「…!」


 つまり、逃げたのだ。それは紛れもなく、樹希ちゃんが嘘を吐いていたことの証明だった。


 傷付いたような、そうで無いような。不思議な気分のまま、私はとにかく、樹希ちゃんを追わなくてはいけない。


 「追います。嫌なこと言ってすみませんでした」


 相手の言葉を待たないで、私は樹希ちゃんに向かって走る。背中で、こちらこそごめんね、というのが聞こえた。


 夕方は買い物をする人が多く外に出るため、結構混み合っている。人の間を縫いながらも、私は樹希ちゃんの背中を睨みつける。


 どうして、あんな嘘を吐いたんだろう。


 そのことが頭の中を占拠している。酸素が不足していることも相まって、それしか考えられていなかった。


 どんどん、距離が詰まっていく。それは当たり前だった。現役の陸上部員の脚力は、あまり運動をしていない大学生とは比べるまでもないだろう。


 あと、一メートル。


 「樹希ちゃん!」


 私は肩を掴んで、その足を無理やりに止めた。人が多いから、そのまま端に寄って、樹希ちゃんと対面する。


 「…はあ…はあ…はあ」


 樹希ちゃんは膝に手をついた姿勢で、激しく息を切らしている。汗を流して、顔が上気しているので、回復するまで少し待つ必要がありそうだった。


 「……」


 それを見降ろしながら、言うべきことを考えていた。


 上手く出てこない。私は何を訊きたいんだろう。なぜ、そんな嘘を吐いたか、事情を聴きたいのだろうか。


 「…ふう、ふう」


 やがて、樹希ちゃんの息が整っていく。


 「逃げてどうするつもりだったの?」


 言ったのは私だ。


 「あー…そうだよね。私も走ってる途中にどうしよこれ、って思ってたから、早めに捕まえてくれて助かったよ」


 「そんな話をしてるんじゃない!」


 思った以上に語気が強くなったので、私は自分で困惑した。少し周りの目が気になったが、そんなことを気にしないで、私は続ける。


 「あの人たちの言ってたこと、本当なの? 本当のことを話して!」

 「えーっと…」樹希ちゃんはいつもの調子だった。それに少し苛立つが、それを言っている場合ではない。「当たり前だよね…えっと、そうだな…まずね、本当だよ、それは…」

 「…なんで!」

 「分かんないかな…」

 「分かんないよ!」

 「そっか…」樹希ちゃんは、うーん、と言いあぐねていたがやがて観念したように、話し始めた。「…賄賂のつもりだったんだよ」

 「賄賂って…」

 「うん。…お金払ってないと、安心できないんだよ」

 「どういうこと?」

 「…あんまり言いたくないんだけどね」


 樹希ちゃんはそう断ってから、「情けない話なんだけど…私、あんまり人のこと信用できなくて…ね。私は、あの子たちと一緒にいてもね、何も返せてないんだよ。グループ活動の時とか、普段の大学生活とか、色々助かってるんだよ。…でもね、私は何もできてない。あの子たちに得になるようなことを、何一つとしてできてない。…それで、いつか捨てられるんじゃないかって、怖くって。だから、解りやすく、お金を払うので、お友達でいてください、ってそういうつもりだったの」


 「……」

 「だから本当に、私は強制されてるわけじゃなく、自分の安心のためにお金出してたんだ…あとで謝っておかないとなあ…」


 私は、そんなことを聞いているわけではなかった。いや、確かに率先してお金を払ってる、と聞いて何故か解らなかったが、そんなことは、私にとってはどうでもいい。


 「分かった…分かったけど、私に嘘を吐いたのは、なんで…!」


 自分本位だったが、樹希ちゃんに対して言うなら、私は後ろめたく思わなくていいと思う。

 だって、先に自分勝手をしたのは、樹希ちゃんなのだから。


 「…他意はないよ」

 「それじゃあ分からない…!」

 「…ごめん」樹希ちゃん項垂れるように頭を下げた。「ちょっとした、からかいのつもりだったの。あやちゃんが勘違いしてるみたいだから、それに乗っかろうかな、って…ごめんね、本当に、悪ふざけが過ぎたよね…」


 樹希ちゃんは目を三角にして謝る。しかし私は、それすら、嘘にしか見えなかった。こうなってしまえばおしまいだ。何を言われても、納得なんて出来るわけないのだ。


 「…それだけ?」

 「え…」

 「理由は、それだけなの?」

 「……」樹希ちゃんは、目を逸らしていう。「ごめん」


 「もう、そんなの要らない!」


 私は言ってから、樹希ちゃんに背を向けた。


 「…最低。大っ嫌い」


 そう言って、私は家の方へと歩いた。


 歩きながら、思う。

 私が期待していたのは、そんなものじゃなかった。私が期待していたのは、私と話す口実を作りたかったとか、仲良くなりたかったとか、そんなことだった。


 ただのからかいだなんて、そんなことって、あんまりじゃないか。


 今となっては、馬鹿にしか思えない。私が言ってほしいことなんて、樹希ちゃんが考えるわけはないのだ。


 「……」


 もう怒らないってこの前言ったのに、嘘を吐いてしまったなあ、と漫然と思った。


 背中に感じる樹希ちゃんと、私との間には、大きな壁が出来たようで、それはどうやら、以前通りの関係性のようだった。

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