第26話 好きな私の空回り-4
人生はままならないものだ。それは、うん、今更だ。思い通りにいかないのも、夢が夢で終わるのも、全部が全部知っていることだった。しかし、今はそれが憎らしい。もう少し融通が利かないだろうか、と思ってしまうのだ。
樹希ちゃんは、日増しに憔悴していく気がする。精神的に、もしかすると、肉体的にも。いや、精神が疲労すれば、肉体も疲れるに決まっている。逆もまたそうだろう。
私は樹希ちゃんの話を聞いている。毎日、私に打ち明けてくれていて、私は適切に相槌を打てていると思う。それに、樹希ちゃんも楽になってくれていると思う。
でも、それは頓服薬のようなものなのだ。この苦境を耐え忍ぶための、痛み止め、あるいは麻酔みたいなことだ。
私にはそれしかできない。根本的な解決には決して至らず、ただ「楽にする」としかできない。
こんな自分を情けないと思う。樹希ちゃんの力になると啖呵を切ったものの、私ができるのはこの程度で、樹希ちゃんを救うことは出来ないのだ。
出来ない、のか?
そんな問いがここ最近ずっと続いている。
樹希ちゃんの話を聞くたび、続いて行く。
「まあ、第三者ができることなんか知れてるよね」
憂色の貴公子こと、雫が言った。こいつはいつも達観しているよなあ、と感心した。
私なんて、その知れていることで悩んでいるのに。
「知れてるかあ」
「もっと言えば、無理がある。本当なら何も出来ないもの。綾乃は、だから、力になれていると思うよ、精いっぱい」
一応、悩みの内容は避けた。
樹希ちゃんだって赤の他人にそんなこと知られたくないだろうし。
「んー…満足できない」
「それは、どうなんだろうね。相手が満足していればそれで良いのか、それとも、綾乃が納得するべきなのか」
「難しい問題ですねえ」
「お、コメンテーターみたい」
「ほんと?」
「実際より頭良さそう」
「何だとこらあ」
そんなくだらない会話をしつつ、確かに、と思う。雫の言う通り、樹希ちゃんが本当に満足してくれていれば、私はそれで良いはずなのだけれど、何だかすっきりしない。
何だか、前にもこんな事があったような気がするのだ。樹希ちゃんが誰かに傷つけられていて、それを私は救おうとする。
でも、救えない。樹希ちゃんは壊れて、私だけが残る。
そんな時が、いつかわからないが、ぼんやりとあった気がする。
「デジャヴ」
「が?」
私が考えていることとドンピシャなことを言うので、少し驚く。
「あれ、脳の誤作動らしいね」
「あー…どうなんだろ。私、前世とか信じるタイプなんだよね」
「え、綾乃が? 意外」
「なんでさ」
「綾乃、だって存外冷めてるから…『前世? そんな非科学的なこと、まだ信じてるの?』とか言いそう」
「あんた、人をなんだと…」
前世というより、夢っぽいな。ここ最近は樹希ちゃんのことばかり夢に見るのだ。樹希ちゃんとキスしている夢。キスって、アレですよ? 深いやつ。
いっつも恥ずかしくなるんだよなあ、起きるとき。樹希ちゃんはいつも私より早く起きているから良いようなものの、たぶん樹希ちゃんが眠っていたら、魔が差す。そのくらいリアルで、照れるくらいなのだ。
「まあ…好きな人ならなおさら、下手の動きできないよね」
「すき!? な、なに、いきなり」
「仮定の話」にや、と雫は言う。
「あんた、なんか知ってんの?」
「いやいや」雫は緩く否定してから、「大胆な行動って、ある程度どうにでもなれ、って思ってないとできないなあ、と思ってさ」
「そういうもん?」
「もんだなあ。だって、もし冒険して、それで相手に嫌われたりしたら、ことだもの。だから、好きだったら好きな分だけ、踏み込みづらくなって行くよね。距離を縮めるのが、とても慎重になる」
「それなあ」
「それそれ」
なんか、経験者なのか、見てきたように語っている。気になる。雫の恋愛遍歴が気になる。この王子様は昔からさぞモテたことだろう。もしかして、女の子と付き合ったことあるのかな。そうだったら、話を聞いてみたいものだけれど。
「だからまあ、もしも綾乃がその従姉妹さんのことが好きなら、踏み込みづらいよねえ」
「踏み込みづらいねえ…」
「あれ、初めは嫌いって言ってたのに」
「まさかのミスリード」
「ま、いいんじゃない? 家族は仲良い方がいいよ」
「…仲いい方がいいのか…そうだよねえ…じゃあ良かった」
「含みがある気がする」
「ない」
私はきっぱりと言う。雫はにやにやしつつ、続けた。
「まあ、もしそれで上手く行けば、もっと仲良くなれるかもね」
解らんけど、と予防線を張るように付け足した。
****
「っあやのちゃーん」
「うお」
その夜。樹希ちゃんはまだだろうか、そろそろ眠くなってきたと考えながら本を読んでいると、急に扉が開いて、ホカホカの樹希ちゃんが抱き付いてきた。
いつの間にか帰ってきて、先にお風呂に入ったらしい。
「えっと、お帰り」
「ただまだよ。会いたかったよお」
「ど、どうしたの…って、ちょっとお酒入ってる?」
「えへへー…きょう、ゼミの飲み会あったんだよ」
「ああ、それで…っていうか、樹希ちゃん十九歳じゃない?」
「あー…私も一応言ったんだけど、なんかみんな飲んでたからさ…そういうもんみたいだよ?」
「よく聞くけどね、確かに。…楽しかった?」
「んー。まあ、結構楽しかったよ。色んな人と話せたよ」
「そっか、よかった」
私は言いながら、その話したとか言う顔も名前も知らない人に、軽く嫉妬していた。いいなあ、樹希ちゃんと話せて良いなあ。いや、私なんて毎日話してはいるけれども、一時たりとも漏らしたくないのだ。
我がままだなあ、と自分でも思う。
「…でもなんか」樹希ちゃんは言いながら、私を抱く腕を強くする。「やっぱり、あやちゃん見ると安心する。ありがと」
「ありがとって…私、なんもしてないけれど」
してない、ではなく、できない、だけれど。
「いやいや。そんなこと無いよ」
「……」
最近、具体的には樹希ちゃんの問題を知ってから、樹希ちゃんは私に、そんな風に言う。
私に対する樹希ちゃんの立場が、はっきりしている気がする。気のせいだろうか。
「…樹希ちゃん、今日温かいね」
「ん? 気温?」
「体温」
「ああ。お酒入ってるからね。あと、お風呂入った後だし」
「そっか」
その温度が私に移る。ちょっと暑くなってきた。
「ね、あやちゃん」
「ん?」
呼ばれて、私は顔を上げる。
あげてから、やめときゃよかった、と思う。樹希ちゃんの顔がすぐそこにあるのだ。夢の内容を思い出す。私は樹希ちゃんを押し倒すようにしていた。そうして、見つめ合ったのち、激しくキスをする。それを思い出す。否が応でも思い出す。
唇に目が行った。それから、目を合わせる。
「ど、どうし、たの…?」
「ありがとうね、あやちゃん」
「……」
頬が上気している。目が潤んで、少し眠そうに半分ほどしか瞳が見えていない。口も同様に半開きだった。その口元は、微笑んでいる。
無防備な姿だと思った。眠っているより、ずっと。
だめだ。
「ちょ、ちょっとトイレ行ってくる…」
「あっ…」
私はそう言って、部屋を飛び出した。転びそうになりながら階段を降る。それから、トイレに入って、鍵をかける。
扉にもたれかかって、私はやっと息を吐いた。
「…危なかった」
あそこで離れなければ、多分私は、樹希ちゃんと夢の通りにしていたように思う。いや、ディープなやつはさすがにアレだけれども。
もし、していたら。
そう思うと、おっかない反面、少しドキドキする。
キスしてみたいのだ。樹希ちゃんと。
「……」
どうだろう、と私は少し魔が差していた。今、樹希ちゃんの味方は私しかいないわけで、そんな私から求められて、樹希ちゃんは果たして拒めるだろうか。そもそも、樹希ちゃんがそんなはっきりしたことを言ってくるだろうか。もしかしたら、今なら何をしても受け入れてくれるのではないか。
「…いやいや」
それで好きって言ってもらえて、それで私は嬉しいのか? いや、嬉しいかもしれないけれど、そんなの、偽物だ。私しか得していない関係なんて、そんなものは恋人とは言わない。
言わない。言わないはず。
「言わないよ、絶対」
そこで、トイレの扉がノックされる。
樹希ちゃんだろうなあ、と予想したが、案の定、「あやちゃん…?」と声がした。「ごめん、怒った?」
「お…怒ってないよ。全然全然。怒るような事されてないし」
「ごめんね、ちょっとお酒入ってるから、変な絡み方しちゃったね」
「大丈夫大丈夫、気にしてないよ」
「そう?」
するする、すとん、と音がする。樹希ちゃんも扉の前に座ったのだ、とわかった。たぶん今、扉を隔てて背中合わせに座っている状態だろう。
いや、これほんとに用を足してたらどうするんだ。すっげえ恥ずかしいと思うんだけどな。
「……」
黙るし。えー…出るに出れない。なんだ、何が目的なんだろう。
「…今日さ、気付いたことがあって」
どーしよーここで寝ようかな、なんて考えていると、樹希ちゃんが口を開く。なにやら真剣な声色だったので、私は居住まいを正す。
「なんか最近、ずっとあやちゃんのことばっかり考えている気がするんだよねえ」
「え…そ、それはどういう」
「今何してるのかなあ、とか、何考えてるのかなあ、とか、そんなこと。思えば私、あやちゃんのことあんまり知らないんだよね。好きなものとか、嫌いなものとか」
「はあ…」
「だからなんか、知りたくなってきたの。あやちゃんのこと、全部」
「好きなもの…」
好きな人は、あなたです。
そう言ってしまいたくなったけれど、今では無い気がした。
「だから、教えてほしいな。私の話も聞いてほしいけど、あやちゃんのことも聞きたい」
「あ、ありがと…」
「私も、あやちゃんにお返ししたい。ありがとう、って言っても、あやちゃんあんまピンと来てないみたいだから」
「……」
ピンと来ていないのは、当たり前なのだ。私は何もできていないし、樹希ちゃんは何もされていない。ただ話を聞いているだけだ。そんなこと、私じゃなくてもできる。なんなら、携帯電話にだってできる。それなのに、樹希ちゃんはそんな言葉をかけてくれるのだから、反応が微妙になるのも当然というものだ。
「…あやちゃん?」
「い、いや。あ、樹希ちゃん。先、寝ちゃってていいよ。…結構かかりそう」
「…そんなやばいの?」
樹希ちゃんはいったい何を想像しているんだろう。何を想像しているにしても、何だか恥ずかしい。実際はただ座っているだけなのだけれど。
「…じゃ、おやすみ、あやちゃん」
「うん。おやすみ」
結局、樹希ちゃんは何を言いに来たのだろうか。私のことが知りたい、とは言われたけれど。
「…あれ」
百合厨の頭だからだろうか。それ、百合漫画だったら、結構良い感じじゃないだろうか。付き合う一歩手前、的な。
****
「ねえ、だからさ、もうちょっと何かあったら付き合えると思うんだよね! ちょっと前まであははーとかうふふーとかしか言ってなかったのが、私のこと知りたいって! すごくない!? というか、やばくない!? よくこんななったよね!? ね!?」
「お、おう…せやな」
テンションが上がっている私をよそに、雫は少し引き気味だった。
帰路。テスト期間に入ったため、部活は休みだった。そんなわけで私はかなり元気なのだ。こんなテンションにもなろうというものである。
「しずく! ちゃんときいてる!? わたしさ、なにすればいいかな!」
「知らんがな」
「冷たし! いと冷たし! なにさー、いつにも増して素っ気ないじゃんかー」
「いつも素っ気ないみたいに言うな」雫は疲れた様に対応した。それから、少し迷ったような素振りを見せてから、「っていうか、綾乃の、従姉妹さんに対する好き、ってそういうやつだったんだね」
「え、今更?」
「確かに」
雫は苦笑いで頷いて、ため息を吐いた。物憂げな表情をしたり、唸ったりと、忙しく表情を変える。
「どうした。友達が同性愛者じゃ駄目か。なんか前、妹にそんなことを言われた気がする」
「あんた妹居ないだろ」
「確かに」
なんだろうこのやり取り。
「まあ、あれだよ…昔のことを思い出した」雫は嬉しそうに言う。しかし同時に悲しげでもあった。
「昔の」
「そう。私も昔、女の子と付き合ってたことがあってさ」
「あ、やっぱり? なんかそんな気してたわ」
「そう?」
「うん。雫、王子様だもんねー。ほっとくわけないよ」
「…まあ、私は昔、こんなふうにモテる奴ではなかったんだけどね」
「そうなん?」
「友達が欲しいやつだった」
「へえ…意外だね。今なんか全方位女の子を侍らせてるのに」
「侍らせてねえ…前は一人だったんだ。その女の子だけは、私の傍にいてくれたんだけどね…自然消滅、ってやつだよ」
「そっか…」
「もうちょっと一緒にいたかったんだけどなあ」
「え、振られたの?」
「みたいなもんだよ。ある日突然いなくなるんだもん。びっくりしたよ」
「……」
もしかして、雫が恋人を作らないのはその子に要因があるのだろうか。
「…私は、突然いなくなったりしないからね」
「綾乃は別に恋人じゃないだろ」
「まあ、そうだけどね」
「あー…私も誰かと付き合いたいなあ…」
「やだもー、私と樹希ちゃんはまだ付き合ってるわけじゃないんだからね!」
「楽しそうだな、このやろー」
雫は言ってから、伸びをした。した後に、あ、と声を出してその姿勢のまま立ち止まった。いや、立ち止まった、というよりは雫の時間だけ止まってしまったような感じだった。
数歩前へ歩いた私はそれに気付いて、振り返る。
「どうした雫さん」
「いや…その従姉妹さんは、今日はもう帰ってんの?」
「…どうしてそんなことを聞く。ま、まさか、雫も樹希ちゃんを…!」
「いや、そうじゃ無くて」
ほれ、と雫は指を指した。示された通りその方を見た。
「結構会うもんだね」
「…雫は一緒じゃ無かったけど、この前も出くわしたんだよね」
「マジか。すごいな。運命じゃない?」
「やめーや」
にやにやしながら雫は言うが、私は浮かれる気分ではなかった。
当たり前とも言えるが、樹希ちゃんはあの三人と一緒にいたからだ。例によって、樹希ちゃんは疲れた様に笑っている。昨日見せてくれた気の抜けた笑みとは一八〇度違う。
「…どうした?」
「いや…」
「声かける?」
「ううん」
言いながらも、私は樹希ちゃんの方を見続けていた。私は読唇できるわけでは無いけれど、それでも、樹希ちゃんは同じ言葉を定期的に口にしている。
『ごめんね』だ。
何をそんなに謝っているのかは知らないが、ただ話しているだけで謝るような状況とは何だろうか。見たところ、樹希ちゃんが行動的に迷惑をかけているようには見えない。
むかむかとした怒りは、徐々に私の内面を支配していく。
すると。
「…!」
樹希ちゃんがこちらに気付いたようだった。横目でしか見てこないが、確かに目が合った。にへ、というふうに、安心したような笑みを送ってくれる。そのあとで、軽く手も振ってくれた。
「…私は」
私は、そんな人間じゃない。そんな笑顔をもらえるような人間じゃない。
****
「樹希ちゃんを、もう虐めないでください」
気付いたら、そんなことを口走っていた。樹希ちゃんはいないタイミングだった。例によって、この人たちのために何かを買いに行っているのだ。大学生三人に向かってこんなことを言うのは少し怖い気もしたが、そんな理性は職務放棄を極めこんでいた。
今、私はどんな表情をしているのだろう。怯えたような表情をしていないだろうか。
「…いじめる、って何のことかな?」
面食らったような表情で、私に向かってそう言う。この前カラオケボックスで名前を聞いた人だったが、どんな名前だったか、もう忘れてしまった。
「惚けても無駄です。樹希ちゃんから聞いていますから。今もそうでしょう? 樹希ちゃんに払わせて、あなたたちはお金を出していない」
「それは…別に、払っても良いけど」
相手は困惑した表情を作っている。他の二人も同様に、首を傾げて応じる。
それが白々しく思え、私の苛立ちはさらに募っていった。
「…何言ってるんですか。無理やり払わせているのでしょう? 手持ちがないとか言って、立て替えさせているのでしょう? それで、あとで返さない。それじゃあ、立て替えてるとは言わないじゃないですか」
「手持ちがない…」
「本当はそんなことなくて、樹希ちゃんに払わせる口実でしかないんでしょ?」
「……」
そこで、双方黙ってしまう。相手は考えるような素振りをして、私はそれを睨みつけたままだ。何を考えているのだろう。言い訳だろうか。
「…あの、多分誤解しているみたいなんだけれど」
相手はゆっくり声を出した。
「誤解?」
「うん。私たちは別に、襲さんに支払いを要求してるわけでは無いよ?」
「…だから、要求したわけではなくても、よってたかって断り辛い雰囲気を出しているんじゃないんですか?」
「え…」相手は驚いたような表情を見せてから、「そうなのかな…」と一つ呟いた。
そこで私はようやく違和感を覚えた。相手の反応にいちいち自信がないのだ。てっきり高圧的に対応されるものだと思っていたから、この対応は意外だった。
「……」
もしかして、樹希ちゃんと私が勘違いしていて、この人たちは何もしていないのだろうか。そんな考えが頭をかすめる。
いやいや、と自分を鼓舞するが、相手は言葉を続ける。
「あのね、綾乃ちゃん。私たちが認識していることとしては、襲さんがお金を払ってくれていることは間違いないけど、強制しているわけでは無いんだよ…むしろ、毎回払ってもらって悪いなあ、って思っているくらいで」
「そんなの、あなたたちが勝手に言っているだけで、樹希ちゃんにとってはそうじゃないんですよ」
「そっか…そうなのかな」相手は言ってから、「もしかして、それを言いに?」
「はい」
「…襲さんのことが好きなんだね」
「家族として当然のことをしているだけです」
「襲さん、綾乃ちゃんに嫌われてる、って言ってたから…でもそんなこと無いんだ」
「…私はそんな話をしに来たんじゃありません」
「ああ…そうだよね。でも、私たちから言えることは、もう言ったんだよねえ…どうしたもんかなあ」
相手は困ったように言う。困るのは私の方だった。
なんでこの悪役はこんなに良い人なのだろうか。いや、良い人、というよりは普通の人なのだ。悪くも良くもない。
なんなのだ。なんなのだろう。
「とりあえず…襲さん迎えに行かないとな」
相手はそう言って歩きだそうとするが、すぐに立ち止まった。なんだ、とその方を見ると、樹希ちゃんがこちらに向かってきていた。
ファストフード店の紙袋を片手に、確信のある足取りだった。しかし、その途中、どうやら私の存在に気付いたようで、減速していく。
私たちと、あと五十メートルといったところで、遂に立ち止まった。
「…襲さん? どうしたんだろ…」
心配そうに声を出した。
それが聞こえたのかどうかは解らないが、樹希ちゃんは踵を返して、一直線に走って行った。
「…!」
つまり、逃げたのだ。それは紛れもなく、樹希ちゃんが嘘を吐いていたことの証明だった。
傷付いたような、そうで無いような。不思議な気分のまま、私はとにかく、樹希ちゃんを追わなくてはいけない。
「追います。嫌なこと言ってすみませんでした」
相手の言葉を待たないで、私は樹希ちゃんに向かって走る。背中で、こちらこそごめんね、というのが聞こえた。
夕方は買い物をする人が多く外に出るため、結構混み合っている。人の間を縫いながらも、私は樹希ちゃんの背中を睨みつける。
どうして、あんな嘘を吐いたんだろう。
そのことが頭の中を占拠している。酸素が不足していることも相まって、それしか考えられていなかった。
どんどん、距離が詰まっていく。それは当たり前だった。現役の陸上部員の脚力は、あまり運動をしていない大学生とは比べるまでもないだろう。
あと、一メートル。
「樹希ちゃん!」
私は肩を掴んで、その足を無理やりに止めた。人が多いから、そのまま端に寄って、樹希ちゃんと対面する。
「…はあ…はあ…はあ」
樹希ちゃんは膝に手をついた姿勢で、激しく息を切らしている。汗を流して、顔が上気しているので、回復するまで少し待つ必要がありそうだった。
「……」
それを見降ろしながら、言うべきことを考えていた。
上手く出てこない。私は何を訊きたいんだろう。なぜ、そんな嘘を吐いたか、事情を聴きたいのだろうか。
「…ふう、ふう」
やがて、樹希ちゃんの息が整っていく。
「逃げてどうするつもりだったの?」
言ったのは私だ。
「あー…そうだよね。私も走ってる途中にどうしよこれ、って思ってたから、早めに捕まえてくれて助かったよ」
「そんな話をしてるんじゃない!」
思った以上に語気が強くなったので、私は自分で困惑した。少し周りの目が気になったが、そんなことを気にしないで、私は続ける。
「あの人たちの言ってたこと、本当なの? 本当のことを話して!」
「えーっと…」樹希ちゃんはいつもの調子だった。それに少し苛立つが、それを言っている場合ではない。「当たり前だよね…えっと、そうだな…まずね、本当だよ、それは…」
「…なんで!」
「分かんないかな…」
「分かんないよ!」
「そっか…」樹希ちゃんは、うーん、と言いあぐねていたがやがて観念したように、話し始めた。「…賄賂のつもりだったんだよ」
「賄賂って…」
「うん。…お金払ってないと、安心できないんだよ」
「どういうこと?」
「…あんまり言いたくないんだけどね」
樹希ちゃんはそう断ってから、「情けない話なんだけど…私、あんまり人のこと信用できなくて…ね。私は、あの子たちと一緒にいてもね、何も返せてないんだよ。グループ活動の時とか、普段の大学生活とか、色々助かってるんだよ。…でもね、私は何もできてない。あの子たちに得になるようなことを、何一つとしてできてない。…それで、いつか捨てられるんじゃないかって、怖くって。だから、解りやすく、お金を払うので、お友達でいてください、ってそういうつもりだったの」
「……」
「だから本当に、私は強制されてるわけじゃなく、自分の安心のためにお金出してたんだ…あとで謝っておかないとなあ…」
私は、そんなことを聞いているわけではなかった。いや、確かに率先してお金を払ってる、と聞いて何故か解らなかったが、そんなことは、私にとってはどうでもいい。
「分かった…分かったけど、私に嘘を吐いたのは、なんで…!」
自分本位だったが、樹希ちゃんに対して言うなら、私は後ろめたく思わなくていいと思う。
だって、先に自分勝手をしたのは、樹希ちゃんなのだから。
「…他意はないよ」
「それじゃあ分からない…!」
「…ごめん」樹希ちゃん項垂れるように頭を下げた。「ちょっとした、からかいのつもりだったの。あやちゃんが勘違いしてるみたいだから、それに乗っかろうかな、って…ごめんね、本当に、悪ふざけが過ぎたよね…」
樹希ちゃんは目を三角にして謝る。しかし私は、それすら、嘘にしか見えなかった。こうなってしまえばおしまいだ。何を言われても、納得なんて出来るわけないのだ。
「…それだけ?」
「え…」
「理由は、それだけなの?」
「……」樹希ちゃんは、目を逸らしていう。「ごめん」
「もう、そんなの要らない!」
私は言ってから、樹希ちゃんに背を向けた。
「…最低。大っ嫌い」
そう言って、私は家の方へと歩いた。
歩きながら、思う。
私が期待していたのは、そんなものじゃなかった。私が期待していたのは、私と話す口実を作りたかったとか、仲良くなりたかったとか、そんなことだった。
ただのからかいだなんて、そんなことって、あんまりじゃないか。
今となっては、馬鹿にしか思えない。私が言ってほしいことなんて、樹希ちゃんが考えるわけはないのだ。
「……」
もう怒らないってこの前言ったのに、嘘を吐いてしまったなあ、と漫然と思った。
背中に感じる樹希ちゃんと、私との間には、大きな壁が出来たようで、それはどうやら、以前通りの関係性のようだった。
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