第13話 雨音の終わり-4

 才川さんは、当然と言うべきか、私と一緒に逃げることを渋っていた。彼女は大学に進学したいのである。そのために、父親の暴力から今まで耐えてきたのだ。今、私と逃げるようなことをしたら、父親の気を逆撫で、学費を払わないと言いだすかもしれない。そうなってしまったら、すべてが水泡に帰す。


 だから私は、今の傷が治るまで、という条件を彼女に提示した。テスト前だという嘘を吐いて、友達の家で勉強会をするという名目で、私の家に来たら良い、とそう言った。


 傷が治るまでなんて、勉強会にしては長すぎる気もするが、若干無理してまで、実行する必要はあるように思う。


 「…なるほど。いい、のかな」


 才川さんは不安げに言う。彼女の父親のこともそうだろうが、どちらかと言えば、私に気を遣っているような感じだった。


 本当に、こんなやっかいなやつが転がり込んでも良いの?


 言外に、そう伝わってくる。


 「いいと思うよ。大丈夫。なんかあったら私が言い訳するから。…せめて、その傷が治るまでは、ここから逃げ出そうよ」私は才川さんに迫った。「私の親は、まあ、私が家に友達よんでもあんまり気にしないタイプだから、そこは気にしなくていいから。私の家に、一緒に隠れてよう?」


 「…ん」才川さんは少し考えるようなそぶりを見せてから、「うん…分かった。智咲にあまえて、そうさせてもらうよ」


 ごめんね。


 そう、才川さんは続けた。


******


 さて、思わぬところで発生した、お泊りイベントである。ここで距離をぐっと縮めて、あの子のハートを鷲掴み。

 とはいかない状況だということは解っていた。だから必要以上に才川さんに触れず、求められたら応じる程度に留めよう。

 そう決めておいた。


 「ようこそ、わが家へ」

 「そんなドラマを昔観たんだけれど、なんかバッドエンドだった」


 そんなひねたこと言う才川さんをうちまで持ってくるのには、なかなか苦労した。どこかの骨に異常を来しているのか、彼女はまともに歩けなかった。立つだけでも脚が痛んで、蹲ってしまうほどである。


 だから、私が負ぶってここまで来たのだ。いや、それでも彼女は痛みに喘いでいたから、あまりいい策とは言えないかもしれない。けれども、一応私が歩けば移動できるので、苦肉の策、といった感じだ。

 休み休み、二時間くらいかけて着いた。すっかり日は落ちている。


 「…ごめんね。苦労かけて」

 「んーん。才川さんのおみ足に触り放題だったから、嬉しかったよ。役得だよ」

 「…なんでそういうこと言うかなあ」

 「言って欲しくない…?」

 「そんなことないけど…」


 才川さんは私のベッドに横たわっている。その状態で、私に微笑んだ。


 「エッチな智咲も好きだよ」


 ねえ、これはやばいよ。なんでそういうこと言うんだよ。ムラッとするじゃんかよ。


 「…大丈夫だ。問題ない」


 私はセミの裏側を想像して、何とか気持ちを静めた。

 セミの裏側が気持ち悪くて本当に良かったと思う。


 「…? なんかよくわかんないけど、大丈夫なら良かった」

 「うん。のーぷろぶれむ」


 そう誤魔化した私に、才川さんは誤魔化されてくれる。こういうところも可愛くて好きである。


*******


 「あの…智咲?」


 しばらくした後、才川さんがおずおずと切り出した。何やら緊張した面持ちであったので、こちらも居住まいを正した。


 「…どうしたの?」

 「えっと…家の人に言ったりした…私のこと?」

 「ああ…まだ言ってないけど大丈夫だよ。さっき言ったと思うけど、うちの家族、家に立ち入るの嫌がる人いないから」

 「えっと…そーじゃなくて…私が彼女だって言う、その、あれ」

 「ああ、そういう…」


 そういえば、言っていない。いや、家族にいちいち自分の色恋の話をする方がおかしい気もするが、そこはかとなく罪悪感があるのは何故だろう。


 相手が女の子だからだろうか。


 多分私の家族はそんなことを気にするような人たちではないと思う。けれど、想像するだけでも、やはり怖かった。


 「…まあ、私が恋人だってことは言わなくてもいいんだけど。無断で家に恋人を泊めるって、どんな感じなのかと思って」

 「どんな感じ」

 「倫理的には」

 「ああ…」


 確かに、そう言われると、何だか響きがやらしい。なんだか不健全の香りがする。私たちはクリーンな交際をしているから、そういうイメージを持たれるのは困る。


 「んー…そうだなあ。んー…」

 「いやまあ…言いたくなかったらいいけど」

 「そんなわけないんだけどさー…んー…」

 「……」


 才川さんはじと目で私を見た。

 やはり才川さんのことを言い渋っている風に見えるのだろう。確かに、私が怖いということもある。しかし、同時に、才川さんが好奇の目にさらされないかという心配もあるのだ。

 私はどうなっても良い、とは言わないけれど、才川さんにこれ以上辛い思いをさせたくないのは本当なのだ。


 「…まあ、大丈夫。倫理的には問題ないから!」

 「なんで?」

 「いや、だって、よろしくないこととかするつもりないし」

 「……」才川さんは少し目を逸らしてから、「…ないんだ。へえ」


 え…!? 何その思わせぶりな台詞…!? え、良いの? 良いんですか?

 とか、心の中で叫ぶ。勿論、表には出していない。そして、訊けるわけがない。

 訊くまでもなく、ダメである。


 「…智咲?」

 「いえいえ。いえいえいえいえ。大丈夫。たぶん」私は両手をぶんぶん振った。「…それより、今はゆっくり休んでよ、才川さん。ここ最近、あんまり寝られていなかったんでしょ?」

 「うんまあ…そうだけど」もにょもにょ、と才川さんは言う。「…智咲と二人きりなのに、寝ちゃうってのも、何だか勿体ない気がするな、って」

 「ああ…ああ…」


 何でそう言うこというんだよ、だから…!


 さっきからムラムラしっぱなしだよ、私は中学二年生か!


 「い、いや、これから私の家に泊まるわけだし、私と二人きりって、それほど珍しくはないんじゃないかな…」

 「そうかあ…まあ、ともかく、今は痛くて眠れないけれど、もうちょっと引いて来たらお言葉に甘えて眠らせてもらおうかな」

 「そう?」


 私は言って、才川さんの髪を撫でてみた。


 「あやすみたいにしないでよ」

 「ごめんごめん」


*******


 次の日起きると、才川さんはちゃんと眠っていた。昨夜はまだ痛みで眠気がなかったらしいから、良かった、と安堵する。

 一応、息だけ確認した。うん、万全だ。


 私は学校へ行くが、才川さんはそのままにしておいた。いきなり私がいなくなっていたら驚くだろうから、書置きをして、家を出た。


 先生には一応、私の家で匿っていることは告げて置いた。さすがに、才川さんの親から心配する連絡が入ったらしい。単純に、気味が悪いなと思った。才川さんに暴力を振るっておきながら、今更そんな普通の親みたいなことをするなんて、どうかしている。


 猫に餌をあげてから家に帰ると、才川さんはまだ眠っていた。その寝顔を見て、可愛いなあ、と少し笑った。


 それから、心身の疲労を思って、悲しくなる。


 こんなふうにぐっすり眠っていられる環境を提供できたというその一点だけでも、才川さんを無理やり引っ張ってきた甲斐があるように思う。


 「…かわいい。かわいいよ、才川さん」私は静かに呟く。起こさないように細心の注意を払いながら、こらえきれない思いを吐きだす。「好きだよ、才川さん。私はずっと、才川さんのこと、好きだから」


 もちろん、返答はない。少し寂しく感じるが、わざわざ起こしてまで言うことでもなかった。

 リビングに降りると、私の妹がわちゃわちゃしていた。


 「か、帰ってきた、お姉ちゃん、帰ってきた。お帰り、おか、お帰り」

 「どうしたの…ちょっと落ち着け」


 私は妹の肩を掴んで、深呼吸をさせる。


 「ふうー…はあー…ふうー…はあー…ふうー…はあー…」

 「どう?」

 「お、おね、おねえちゃ、しら、知らん人が、お姉ちゃんのへやで、ねむ、眠って」

 「落ち着けって」

 「それで落ち着けたら、私は今頃世界のキングにでもなってるさ!」

 「ああ、まあ、そう言うもんかね」私は言ってから、「…私の部屋、勝手に入ったわけ?」

 「イキガカリジョウ、シカタナク」

 「そうかい…」


 嘘くせえ…


 「綺麗な人が寝てた!」そう言って、妹はわちゃわちゃ言う。「綺麗な人だけど、ヤンキーっぽいから、きっと勝手に入って寝てんだよ」

 「あんたのヤンキーのイメージよ…。まあ、ヤンキーっぽいけど、あの子はヤンキーじゃないし、ついでに言えば私が招いたんだよー、あの子」

 「…私に許可を取らずに?」

 「あんたの許可はわりと必要ないと思うのだけれども」

 「まあね」妹はあっさり頷いてから、「そっかー…お姉ちゃんの知り合いだったのかー…挨拶しなきゃあなあ」ちらちら、と私は流し見た。

 「あー…まあ、起きてからね」


 そう言って、少し考える。

 どう紹介したものかなあ。


*******


 「…んん…んにゃ」


 才川さんの隣に座していると、不意にそんな声が聞こえて、ああ、起きたのかと察する。

 晩ご飯も終わって、風呂待ちである。私は大体の場合一番最後に入る。そのため待ち時間は結構長いので、せっかくだから、と才川さんの顔を眺めているのだった。


 「おは、才川さん」

 「……」才川さんは首を傾げてから、「…なんで智咲がいるのかと思ったら、ここ智咲んちだった」

 「まあ、あるよね。旅館とか泊まると、ここどこだ、ってなる」

 「なるなる」才川さんは頷いてから、「おはよ、智咲」

 「うん、おはよ」

 「……」しばらくお互い黙ったまま、才川さんが先に破顔する。「なんか、同棲してるみたいだね」

 「う、うぇ、わ、そ、そうだね」

 「何その反応」

 「いや、才川さんが、きゅ、急にそんなこというから、びっくりして」

 「…嫌?」

 「嫌じゃないわー」

 「だよね」


 にへーと才川さんは私を見た。

 知ってて言ったな。


 「もう…あ、そうだ」妹との約束を思いだし、切り出す。「あの、才川さん。なんか私が帰る前、妹に才川さんが私の部屋で寝てるとこ見られたみたいで、いや、別に秘密にしようってわけじゃなかったんだけど、なんか紹介してって言われたんだけど…いい?」

 「えっと。要するに?」

 「妹に才川さんを恋人だって紹介したい」

 「恋人…」才川さん呟いてから、顔を赤くし、少し固まった表情で言った。「えっと…良いの? 昨日、なんかちょっと乗り気じゃ無かったように見えたんだけど…」

 「まあ、ちょっと怖いってのはやっぱりあるんだけど、妹はそんなやつじゃないと信じたいというか、なにより、才川さんとの関係に、嘘を吐きたくないと言いますか…紹介するなら、友達とか言いたくないっていうか…だってほら、恋人じゃん? よく考えたら、別に恥ずかしくもなんともない関係じゃない? セフレってわけじゃないし」

 そもそもセックスしたことないし。

 「まあ、はい」

 「だからこう、ね、あの…上手く言えないけどさ…」

 「いや、言わんとしていることは解った」才川さんは軽く頷いて、「うん、良いよ。というか、智咲の妹かー…私も会ってみたい。どんな人なのか」

 「まあ、大したやつじゃないよ。うん。まったく。才川さんが気にかけるほどの人間じゃない。全然、全然全然」

 「…仲悪いの?」

 「いや、そういうわけじゃないけどさ…周りから、顔が似てるって良く言われるから…」

 「から、私が妹さんに目を奪われるかも、と」

 「…ええ、まあ」

 「くだらないことを…私、そこまで顔を重視しているつもりは無いからね。確かに、智咲は可愛いけども、でも、それは副産物的なものだし。智咲が智咲だったから、こうして、こう、恋人、やってるわけだし。大丈夫よ…………………たぶん」

 「良いこと言っておいて、たぶん、で締めるのはどうなの!?」


 と、叫んだところで部屋の扉が、ばん、と開いた。


 「るせーな、未来みく。上がったつってんだろ、さっさとはいれ」

 「…おかあさん!?」


 粗暴な感じで、お母さんはノックもせずに入ってくる。この人のこういうところが本当に苦手である。普段は優しいのに叱るときだけ、こんなレディースみたいな口調になるのやめてほしい。


 「さっきから何度叫んだことか…」お母さんは言ってから、遅ればせながら才川さんの存在に気付く。「…その子は誰だ!?」

 「え!? えーっと…特には」

 「どういう意味だよ」

 「…智咲、未来って名前だったんか…いい名前だ」


 妹にしか言わないつもりだった才川さんのことを、お母さんにも知られてしまい、これはいよいよ外堀が埋められてきたぞ、と感じる。


 いやまあ、秘密にする必要もないのだけれどね。


 でもなんとなく恋人を家族に紹介するとか恥ずかしいじゃん!


 普通やんねーよ。結婚でもすんのか。


 …結婚かあ。


 悪く無いなあ。


 そんな風に浸っていると、妹まで私の部屋に来て、まあじゃあ紹介するかと観念する。

 お父さんがまだ帰っていなかったことが、せめてもの救いというものである。


 「さてお立会い」

 「探偵か、あんたは」

 「私の彼女の、才川さんです」


 と、後ろにいる彼女を示した。彼女。彼女である。


 「どーも、こんにちは。みっともない姿ですみません。才川と申します」才川さんは礼儀正しく頭を下げる。

 

 一瞬の静寂の後、

 

 「彼女…彼女って言うと…恋人?」


 言葉をいち早く理解した妹が言う。この辺の処理能力は若さゆえだろう。なんていうとお母さんに怒られるから絶対言わないけれど。


 「いえす」

 「お姉さんの彼女やってます」てれてれ、と才川さんは続けた。

 「女の子…」

 「まあ、彼女ですから」

 「男の子の彼女って言うのも斬新だけれど」

 「…同性愛?」

 「そのくくり方はあまり好きじゃないなあ」才川さんは少し笑って、「私は女の子が好きなんじゃなくて、あなたのお姉さんが好きなんだよ」と、私は抱き寄せた。

 「…!? …!?」


 私は言葉が出ないまま狼狽える。家族の前でそんなことしないで、とかいうと、いないところではいちゃついてんのか、とあちら側から追及がありそうだし。

 才川さんとの距離が嬉しくもあり、恥ずかしくもあった。


 「親に内緒で恋人連れ込むとか…マジかよ…不健全の塊かよ…」


 そこでようやくお母さんは口を開いた。やや乱暴な口調だったが、その顔はやけににやついている。


 「おいおい…この前まで『恋愛? ああ、きょーみない(笑)』って言ってた我が子が、舌の根も乾かないうちにこれだよ…」

 「ちょ、勝手な想像やめてよね!? 不健全なことは何もしてないから!」

 「恋人と一つ屋根の下でそんなわけないだろ…うわー…えっろー…未来えっろー…」

 「やめろ…!」

 「いやでも、智咲…じゃなくて、未来は結構エロいと思うよ?」

 「才川さんは黙ってろ!」

 「うっわー…我が子ながらひくわー…」

 「ひくな!」

 「いや、ちょっと、待って待って」妹が母親を制して、私たちを見まわして言う。「え、何この歓迎ムード…理解できないんだけど…?」


 妹は顔をひきつらせていた。語調から察するに、妹は納得いかないらしい。


 「あの、え、なに、これ…私、姉が同性愛者とか嫌なんだけど」


 ぐっ、と胃が鷲掴みにされる感覚を覚えた。


 「…と、言われましても」

 「なんで母さんあっさり受け入れてるわけ? 意味わかんないんだけど?」

 「いや、私が口を出すことじゃないでしょうに」お母さんは毅然として言う。

 「いや…いやいや…わっかんない」妹は徐々に嫌悪感を顔ににじませた。


 ああ、この反応。覚悟はしていたつもりだけれど、実際に見るとやはりくるものがある。妹のことは解っているつもりだった。あまり、否定しないやつだった。私のことも、周りのことも、自分のことも。しかし、そんなものは解っているつもりになっているだけで、この子の本質では無かったのだろう。


 同じく私も、きっとこの子に本質を見せていなかった。


 だからこんな齟齬が生まれてしまったのだろう。


 私は、まあ別に構わない。妹との関係がぎくしゃくしてしまうのは不本意だが、仕方ないことだと我慢できる。


 だが、才川さんはどうだろう。才川さんにとっては、ここは一時的な避難場所である。そこでさえ、こんなふうに否定されるのは、堪えるのではないか。


 才川さんを盗み見た。普段の表情と、あまり変わらないので、何を思っているかは読み取れなかった。


 「…私は、認めないから。お姉ちゃんが女の子と付き合うなんて、嫌…気持ち悪い」


 そう言い残して、妹は私の部屋から立ち去る。残された私たち三人は、黙ったままだった。


 「…ごめんね、二人とも」


 やがて、母親が口火を切った。


 「あの子が理解できるのはずっと先だと思うけれど…きっと解ってくれるときが来るはずだから。変でも、気持ち悪くもないから、あなた達は堂々と交際していなさいな」

 「……」

 「親としては、交際は認めるよ。…きっと辛いこともあるかもしれないけど、そういう時はまあ、頑張りなさいな。無理な時は、ちゃんと大人を頼りなさいよ? 解った?」

 「うん…ありがと」

 「それじゃ、才川さん、ゆっくりしていってね」

 「あ、はい。ありがとうございます」


 そんな言葉をかけてくれたのはやっぱりうれしかったけれど、才川さんはどう受け取っただろうか、と気が気でなかった。

 どうしたものかなあ、と呟きながらお母さんは出て行って、才川さんと二人きりになった。


 「…ごめん、才川さん、うちの妹が」私はしばらく黙ってから言った。「あの子、いま思春期真っただ中で、そういうのに敏感な歳というか…悪気はなかったんだと思うんだよ。…ごめん、私が配慮すべきだった」

 「……」才川さんは私の言うことを黙って聞いてから、言う。「…私は、大丈夫。こう言っちゃあなんだけど、私にとっては、未来の妹でも他人だからあんま傷つきはしないよ。…未来の方こそ、大丈夫? 私のせいで、妹さんと気まずくなっちゃうかも」

 「才川さんのせいじゃない」私は断言する。「妹が全部悪いよ。気持ち悪いなんて、人に言う言葉じゃない」


 理解できないのは、仕方がない。ただ、否定したのは完全に妹の自己満足であるだろう。


 まるで、才川さんが私を好きなのが、悪いことのように。


 私が才川さんを好きなのが、悪いことのように。


 それは絶対に間違っていない。それだけは断定出来る気がした。


 「ぎゅー」私は才川さんを抱きしめる。体を締め付けない程度に、抱きしめる。「…私は絶対、あなたを離したりしないから」

 「私もだよ、未来…」才川さんは私の頬にキスをして、そう言った。「…それはそうと、好みの顔が三つ並んでいたのは、やっぱり最高だったなあ」

 「みっつ…」


 私と、妹と、お母さん。


 「…怒って良いやつ?」

 「いや、他意はないから。あくまで原作は未来だから」

 「原作で言うならお母さんだと思う」

 「未来の顔が一番好きだよ」

 「適当な事を…」

 「ほんとほんと…未来が一番好き」

 「…むう」私は言ってから気付く。「そういえば、さらっと名前呼び…」

 「ああ…智咲が他にもいたから、私の恋人は未来だなと」

 「私にも名前をおしえろぉ…」

 「…てか逆に知らないの?」

 「うう…ごめん…」


 私は素直に白状する。

 だって以前は、才川さんは才川さん以上の意味を持っていなかったから、深く知る機会がなかったのだ。

 学期頭の自己紹介とか、ほぼ眠っていたしなあ。


 「ショックだなあ…」

 「ご、ごめんなさい」

 「冗談冗談」私もさっきまで知らなかったし、と続ける。

 「それはそれで…」

 「まあまあ」才川さんはなだめるように頭を撫でる。

 「…おしぇーて」

 「んー…まあ、今はいいかな」

 「どういうことかな!?」

 「いやー、なんとなくさー自分で自分の名前を名乗るって、恥ずくない?」

 「わからなくもないけど…」


 なんだか納得いかなかったが、そのまま違う話題になってしまったので、その日は諦めることにした。

 いろんな話をしたが、なんとなく辛そうに見えたのは、まだ体の痛みが残っているからか、それともやっぱり、妹に言われたことが堪えているのか。


 あるいはその両方だろうか。


******


 それから数日後、ついに、才川さんが帰宅する日がきた。その前日くらいから才川さんは登校していて、だからまあ、本人も治ってきたなあとは言っていたのだけれど、このまま私の家に居続けてくれるのではないか、とどこかで期待していた。


 確かに今は傷が癒えているけれど、しかし、また才川さんは傷付くことになるのだ。それが決まっている。

 そんなの、殴られに帰るようなものじゃないか。傷つきに帰るようなものじゃないか。


 「ほんとに行っちゃうの?」


 猫のいる公園で、私は言う。漫然と猫を撫でる才川さんを見て、この子が傷つくところなんか、もう見たくないと思った。


 「うん。そういう条件だったから」

 「…いかないで」


 私は彼女という立場を最大限に利用して、そう甘えたような声を出す。


 「いっちゃやだ。ずっと私の家にいてよ…」

 「そういうわけにはいかないよ」


 才川さんはきっぱりと言った。

 それはそうだろう。初めから、彼女はそう言っていたのだから。私の家にいるのは、やっぱりただのお泊り会でしかない。


 「私は、未来と一緒に幸せになりたい」

 「だったら」

 「だから、今は我慢しないといけない気がするんだ」

 「……」

 「それに私は、いろんな人に迷惑をかけている気がする」才川さんは困ったように笑って言った。


 才川さんが何を思ってそんなことを言ったのかは解らないけれど、才川さんが何かを気に病んでいたことは薄々勘づいていた。

 落ち込んでいる風でもある。


 「…そんなことない」

 「ありがと」


 私の無責任な言葉に、才川さんも無責任に返す。

 無責任の応酬だった。


 「妹さんのこと、ごめんね。あと、匿ってくれてありがと」才川さんは言ってから、俯いて言う。「これからも、私、もしかしたら面倒かもしれない」

 「そんなこと、私が問題にするとでも思っているの?」

 「…ありがと」

 「才川さん。絶対離れて行かないでね。私は、才川さんが好きなの。私の方が先に好きになったし。才川さんは二番煎じだし」

 「二番煎じて」

 「…私はずっと好きだった子を彼女にできて、幸せなんだよ。だから、面倒なんて、喜んで背負ってあげる。こんな程度のことで、才川さんを離すわけにはいかないんだよ」

 「…私にそんな価値は」

 「ある。断言する。才川さんが自分のことをどう思っていようと勝手だけれど、これだけは言わせて」私は才川さんの方を真っ直ぐに見た。「私はずっと、才川さんのことが大好きだから…辛くなったら、また私を頼ってよ。才川さんに頼られるのが、私、嬉しんだよ」

 「…未来を好きになって、良かったよ」


 才川さんはなおも俯き加減だった。心なしか顔いろも悪い。やっぱり、殴られるのが怖いのだ。当たり前だ。またあんなふうに満身創痍になると分かっていて、心躍るなんてやつがいたらそれはただのサイコパスだ。


 才川さんのことを守ってあげたい。


 けれど、私には何も打つ手がない。


 才川さんに頼ってもらうのを待つしかないこの現状が、もどかしかった。


 「…そろそろ帰ろっかな」


 才川さんがそう言うと、私は心臓が震える感覚を覚えた。


 「辛くなったら、絶対言って。私は、才川さんの味方だから。いつでも支えになるから」


 才川さんは少し微笑んで、頷いた。それから私にキスをする。


 その温度は、少し冷たい気がした。


******


 薬の匂いと、まっさらなシーツの洗剤の香りが混ざり合って、何とも言えない人工的な香りが充満している。この香りは嫌いじゃなかったけれど、最近嫌いになった。こんな現実離れした匂いは、落ち込んだ気持ちに追い打ちをかけるように、意地悪だと思った。


 窓の外からオレンジ色の陽光が部屋中を染める。後ろの若い夫婦がまぶしーねーとのんきな声を出した。


 「……」


 ベッドのわきに座る私は、目の前に横たわる自分の恋人を眺めながら、何度目かの妄想をする。


 あの時、無理にでも才川さんを止めていたら、こんなことにはならなかったのかもしれない。


 あの時、私が解決してあげられていれば。


 今更どうしようもないことを、絶対に不可能な方法を取って、解決する想像だった。何周目だ、これは。


 才川さんを見送った次の日、才川さんは学校へ来ていなかった。

 やっぱり痛くて起きれないのか、と単純に思っていた。

 しかし、事態はもっと深刻だった。

 先生に、才川さんが入院しているということを告げられた。

 原因は、自殺未遂。

 入水自殺を図って、意識を失った直後に運良く岸に打ち上げられたらしい。そこを通行人に発見され、病院に搬送された。

 生徒手帳を持っていたから、学校にも電話が入ったということだった。

 直接学校に連絡が来るということは、自宅や親に関する情報は、一切なかった、ということだ。

 心臓は止まっていない。

 一応、回復するだろう、ギリギリのラインを保って、搬送された。


 しかし一週間経った現在でも、意識を取り戻していなかった。


 点滴で栄養を摂って、自発呼吸はしている。いつ目覚めてもおかしくない状態だ。


 けれど、彼女は目覚めない。


 何故か彼女は目覚めない。


 それはきっと、現実が厳しいからだろう。目覚めてしまえば、彼女は傷付くこと

になる。なにも得がない。彼女にとって、何も得がない。だったらこのまま、目覚めない方が彼女のためだ。


 そして、そこまで追い詰めたのは、ほかならぬ私だ。


 「ごめんね、かなで…ごめんなさい」


 彼女が持っていた生徒手帳から知った、彼女の下の名前だった。


 いい名前だと思った。


 それを本人に伝える術はない。


 「…私のせいで、ごめん」


 寂しいなんて。

 あなたと話せないことが悲しいなんて、言う資格もない。

 やり直したい。

 一から、あなたとの出会いから、全部やり直したい。


 「神様」


 私たちを幸せにしてなんか言わないから。私がこの子を幸せにしてみせるから。



 だから。



 だからもう一度、やり直させてください。

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