第12話 雨音の終わり-3

 私の予感の通りに、才川さんはその後一度も登校できていない。先生にはクラスメイトにただの風邪だという説明をしてくれと頼んでいた。だから、誰もが才川さんは風邪で寝込んでいると思っている現状だ。


 実際には痛みに寝込んでいて、そしてそれは、日に日に酷くなっていた。それは当たり前だ。毎日毎日殴られていては、治るものも治らないし、新たな痣もできるから、加速度的に酷くなって行くのだ。


 私は毎日見舞いに行っているが、痣の量に比例して、才川さんの元気がどんどんなくなって行くことに気付いていた。

 才川さんは気丈にふるまうが、顔いろが明らかに悪いし、今や座ることさえ辛そうだった。


 「今日もお見舞い?」


 放課後、才川さんの家に向かう途中である。学校から一緒に歩いていた、裕美は言う。


 「うん、まあね」

 「そーか…私も行こうかな」


 思案顔で裕美は言う。

 私が思っているより才川さんのことを心配しているようで、割と本気のトーンだった。殆ど話したことのないクラスメイトにそんなことを思えるのは、ただただ尊敬する。私だったら気にも留めずに、帰りにアイス食べて帰っただろう。


 実際、才川さんと関わってなかった時は、なんで才川さんが金髪なのかとか、なんで誰とも仲良くしないのかとか、判らなかったし、それでいいと思っていたから。


 「…私最低だ」

 「…?」

 「いえいえ」

 「どうした?」


 そんな裕美を連れて行って一応は無事であることを確かめさせたいという思いは山々だが、しかし、才川さんとしてはどうなのだろうか。今の彼女の姿と、家内の状況からして、尋常ならざる状態であることは一目で分かってしまう。そこへ裕美を連れて行ったら、暴力を振るわれて休んでいることを察されてしまう。


 本当なら少しでも多くの人に才川さんの置かれている状況を知ってもらって、監視状態を作りたいのだ。しかし、表沙汰にすることは才川さんの本意ではない。


 というか、彼女の父親の本意ではない。


 「んー…」


 私は俯きつつ、才川さんの家へと足を進めながら考える。葛藤があるのは、私自身の気持ちと、裕美の気持ちと、才川さんの気持ちとの間で、である。それぞれが独立した思惑を持っていて、落としどころが見つからなかった。


 やがて才川さんの家へ着く。年季を感じる煤けた白色の壁のその家屋を見上げると、才川さんの部屋の窓が見えた。たぶんあの部屋にはいない。痛みに臥して動けずに、居間の方で倒れている筈だ。


 「……」


 それを思うと、裕美を上がらせるのには抵抗があった。才川さんにとって他人である裕美にそんな弱ったところを見せるのは、やはり彼女にとって嫌なことだろう。


 それは才川さんの核心の部分で。


 それは才川さんの本体だからだ。


 「ごめん…やっぱ裕美、私一人で行くよ」


 私はおずおずと言う。


 「ああうん。わかった。まあ、私なんかがいきなり来ても才川さんびっくりしちゃうもんね」

 「うん。体調が落ち着いたら、聞いてみるよ。才川さんもきっと裕美と仲良くなりたいだろうし」

 「どうかなあ…才川さんと話したいって思ったの、やっぱり未来が仲良くしているから、ってとこ大きいしなあ。今まで何もしてこなかったやつが何を今更、って思ってるかも」

 「そんなひねた奴なわけないでしょ?」


 ……。


 言っていて自信がなくなってきた。才川さんは結構ひねている。


 「まあ、んじゃ、才川さんにお大事にって言っておいてよ」裕美はそう言ってから、「じゃ、また明日」そう手を振って、帰っていった。

 「…さて」


 一人になってから、才川さんからもらった合鍵を取りだす。学校に行くとき彼女がいつも持っているものである。これがないと彼女は家に這入れない。


 才川さんが私にこの鍵を預けているということは、彼女自身、しばらく学校に行けないことになると覚悟しているのだろう。


 がちゃ。


 ぎー、とはさすがにならない。


 黙って上がると、しばらくして居間が現れる。


 そこへ寝転がっている才川さんを見て、やはり裕美を上がらせなかったのは正解だったと思う。


 「…おはよ、才川さん」

 「……おは」


 才川さんは辛うじて挨拶を返した。


 「だいじょーぶけー?」

 「んー…ちょっと無理…」

 「あらあら」


 私は口に手をやりながら言う。内心穏やかではなかったが、努めて陽気を装った。そうしないと、才川さんに余計な負い目を感じさせてしまいそうで、怖かった。


 「まあまあ…ゆっくり休んでよ」私と対するために起き上がろうとする才川さんを、そういさめた。


 「……」才川さんは物憂げな眼で私を眺める。ただ単にぼーっとしているのと、痛みで目が潤んでいるのが重なって、非常に魅力的な表情になっていた。


 むらっ。


 まあまあ、こんな状態で欲情したって仕方あるまいよ。


 「…ねえ、智咲」


 才川さんがゆっくり話す。


 「さっき、誰と一緒に居たの?」

 「さっきって、入口のところで話してた子?」

 「うん」

 「ああ、あれね。あの子、裕美っていうんだけれど、才川さんと仲良くなりたがっていてさ」

 「…ふうん」

 「まあ、私の友達でもあるんだけど」

 「…そっか」

 「…ねえもし良ければ、裕美も一緒にお見舞いに来ても良い?」

 「ああまあ…来たきゃ来れば…?」


 才川さんは目を合わせずに言った。珍しく角の立つ表現をしたので、もしや、と思う。


 「…もしかして、嫌?」

 「嫌…ってわけじゃあないけれども」

 「じゃあなんでそんなふうに言うの…?」

 「…さっきさ」

 「うん」

 「さっき、家の前で、楽しそうだった」

 「…うん」

 「智咲の声が楽しそうだった。私と話すときより、楽しそうだった」

 「…そんなことは、ないと思うけれど」


 私は思い返して言う。裕美とは友達なので、そりゃあ話していて楽しい。けれども、それ以上に才川さんと話している方が、私としては嬉しかったりする。


 だからまあ、うん。


 「…やきもち?」


 「…ぐぬぬ」才川さんは恥じ入るように目を逸らしてから、「そうだよ、やきもち。嫉妬」そう頷いた。「ねえ、智咲、私だけのものでいてよ。しばらくの間だけで良いからさ、私以外と、楽しそうにしないで」


 おお、と少し感動する。


 才川さんから告白されて私たちは付き合いだしたから、私はどちらかと言うと受け身だったのだけれど、しかし、才川さんの感情っていうのは読み取り辛いことがあったから、こんなふうに可愛いことをされると嬉しくなってしまうではないか。


 「ねえ、智咲…」


 私の名前を呼びながら、才川さんは私の方へ向かってくる。キスされる、と思って、のけぞりそうになったが何とかとどまった。


 唇が重なる。柔らかい。

 しかし、前にした時よりもかさついていた。こんなふうに毎日暴力を振るわれていては、唇のケアなんて出来ないだろう。そう思い、私は悲しくなる。嬉しいはずのキスが、ずっと悲しいものになる。


 こんな状況、早く脱したい。


 顔を離して彼女を見ると、顔が紅潮し、目が潤んでいた。私もこんな表情をしているのだろうか、と思うと少し恥ずかしくなる。


 「…ねえ、もっと」


 才川さんはまたキスをした。


 「…!」


 今度は舌が入ってきて、驚いて思いっきり離れてしまう。


 「あっ…」私はそう声を出して、才川さんに向かう。「ち、違うの」

 「…ごめん、嫌だったよね」才川さんはゆっくりと身を引いて言った。「ごめん、いきなり変なことして」

 「そうじゃなくって、あの、びっくりしただけだから…嫌なわけじゃないから」

 「ほんと…?」


 才川さんは涙をためて、縋るように言った。愛されているな、と思う反面、キスを拒絶されたくらいで泣いてしまうほど限界なのだと思うと、素直に喜べない。


 「…じゃあ、いい?」


 端的に彼女は言う。少し緊張してから、うん、と頷いた。


 「…ん」


 唇を重ねると、それを堪能するように、彼女はしばらく静止する。繋いだ手から加速度的に早まる拍動が伝わってきた。


 「ん、んむ…」


 荒くなっていく息遣いを聴きながら、激しくなっていくキスに浸る。押し倒されるころには舌が絡まってきて、今度は突き放すことはしなかった。


 というか、両手を抑えられているから出来ないのだ。


 しかし、この押さえつけられている感じにたまらなく安心した。全身で才川さんを感じられて、才川さんがまだ壊れていないこと、私が才川さんと触れ合っていることを知覚する。


 倒れ込むようにして私と才川さんは対面する。


 「…ん、はあ」

 「…ごめんね、こんなにして」


 荒い息遣いで才川さんは言った。


 「んーん…うれしいよ」

 「…私も嬉しい。そんな風に智咲が言ってくれることが」才川さんはゆるく微笑んでから、「でも、少し不安だよ…私はひねてるからさ、自分で言うのも何だけど。智咲がそんなこと言うの、なんか、怖い」

 「怖いって…?」

 「騙されてるんじゃないかって…いや、ごめんね」


 才川さんが言ったことは、私だって解らないでもない。本当は才川さんは私なんか好きじゃなくて、いつか手痛く振られるんじゃないかと危惧しているのは、否めなかった。


 こんなふうにキスをしていても、心を見通せているわけでは無い。所詮体しか繋がれないのだ。


 女性同士なんて、そんなもので、どれだけ相手を信頼していても、どれだけ相手が好きでも、結局普通じゃないから、怖くなる。


 だからきっと、才川さんに、私が本当に好きだって思ってくれるためには、私のすべてをささげるしかないのだ。


 「…ねえ、才川さん」

 「ん?」

 「もし良かったら、なんだけどさ」


 私は彼女の頬に触れながら言う。


 「二人で一緒に、逃げよっか?」


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