第9話 名前を呼んで-3

 『―――助けてよ』


 誰の声だか判らないその声で、私は目が覚める。今にも崩れてしまいそうな、弱々しく悲痛の交じった声で、言う、というよりは吐息のように零れる、といった具合だった。


 いや、自宅のベッドじゃないし、夜じゃない。職員室の自分の席で、昼間だった。午後の授業が始まったころだろうか。私の受け持つ数学1は今日はもう無かったので、テストで使えそうな問題を参考書から探していたらいつの間にか眠ってしまっていたようだ。

 

 社会人としてそれはどうだよ、と思うけれど寝不足なのだから仕方がない。いや、これは言い訳にならないだろうか。まあ、誰にも咎められないうちに起きれたから良しとしよう。

 うん、寝ていなかったも同然だ。


 助けて。

 誰が言ったのだっただろうか。私だろうか、あの子だろうか。あるいは、別の誰かか。しかし、私は誰かに助けを求められたことが少ない。あってもせいぜい大学時代に、ノート写させて、を隠語で、助けて、と言われたくらいだった。

 今更大学時代のことを夢に見るはずもないし、だから、自分の口から発せられたような気がした。

 

 まあ、誰に言われていたとしてもきっと私はその時何もしなかったのだろう。私は誰も助けられない。あの子も和泉さんも私自身も、誰もを見捨てて適当に流してしまう。冷たいやつというよりは、無力を隠しているずるいやつだった。


 「……」


 和泉さんにはなんて言ったらいいのだろう。あなたのことが嫌い。もう近寄らないで気持ち悪い。そんなに私が好きなら私の為に消えてよ。もう顔も見たくない。

 なんて言った日には、和泉さんはどうなってしまうかな。泣いてしまうくらいはするだろうか。

 キスされた後に少し否定的なことを言っただけで軽く傷付いたらしいし。


 「…何かないかなあ」


 辞書みたいな参考書のページをめくる。

 何をどう言われたって私は和泉さんのために拒絶しないといけないし、和泉さんは自分のために私を忘れなければならない。

 そのためには、記憶に残らない終わりが必要だ。

 私みたいに何年も忘れられない、トラウマのような失恋じゃあ、いつまで経っても前には進めない。


 和泉さんの記憶に残ることのない、劇的でない恋の終わりを演出しなければならない。

 恋。それが本当に恋かどうかはわからないけれど、教師として、人として、大人として、和泉さんを導いてあげるのが私の責任だろう。


 「……」


 本当にそうか、と思うのはただの未練だ。それこそが私のエゴイズムの本体で、だからたぶん、一度私を好きになってくれたのに手放すのが勿体ないとかそんな理由だと思う。


 不純であり自分勝手であり、浅ましい思想だということは解っている。だからこそ、和泉さんには新しい、本当の恋を見つけてほしいのだ。


 「あなたのことは好きだけれど、それは生徒としてであって…」


 軽い練習をしてみたが何のことは無い、普通に言えそうだった。


 「……」


 しかし私は土壇場になって、本当にこんな真っ当なことが言えるだろうか。真っ当でない私からこんな台詞を絞りだすことはできるだろうか。


 「…言わなきゃね、なんであれ」


 そう奮い立たせて、またページをめくった。


********


 ロングホームルームが終わって、午後五時を過ぎた。部活をやっていない私はいつでも帰れる状態だった。明日の授業の準備もしたし、質問をしてくる生徒もいないので、今日はもうやることが無い。以前いた私立高校では七時くらいまで残らされたことを思い出して、ブラックだったなあ、と思う。

 

 ばらばらと他の先生たちは動き出しているのを見て、私もそろそろ帰るか、と立ち上がって伸びをする。

 うーん。

 伸びをする時、なんでこんなふうに声が出てしまうのだろうな、と欠伸をしながら思った。

 立ち上がると、窓から差す茜色が眩しい。

  

 「もう帰るの?」


 通りがかりの真智に言う。

 

 「ああ。うん、今日はちょっと用事があって」

 「へえ…おつかれ」

 「お疲れさま」


 言って真智は職員室を出る。心なしか浮足立っていたように見えた。

 これからどっか行くのかなあ、と想像する。私も映画でも行こうかな。いやまあ、疲れているから家で観ることになるだろうけれど。

 いいなあ、と思う。最近、あんな風に心躍ることがあまりない。

 

 「…さて」


 私も帰るか、と鞄を持って職員室の扉へ向かう。お疲れさまです、と何人かの教員に声をかけながら、扉を開いた。


 「……」

 「お迎えに上がりましたよ、姫様」


 気取ったふるまいをする和泉さんがいた。何と返したものかとしばらく考えた。言われた通りお姫様としてふるまうべきか、適当に流すべきか。年齢と比較しながら悩んでいると、みるみるうちに和泉さんの顔が赤くなって行く。


 「…恥ずかしい」

 「なら言わなきゃいいのに」私は呆れて言って見せてから、「何か用ですか。もう帰るんだけれど」後ろ手に扉を閉めながら言った。

 「ええ、ええ。用がなければ職員室になんて来ませんとも」

 「ああ、私じゃ無かったりする? じゃあ、呼んでこようか」

 「私がせんせ…先生以外に関わるはずないじゃないですか」

 「どの先生か知らないけれど」

 「…いじわる」和泉さんはいじけたように言ってから、「あなた以外に、用があるはずがないのです」

 「…ふうん。何用ですか」

 「ここじゃ話せない話なので、適当な教室に入りましょう」

 「……」


 確かに、ここじゃ駄目だ。一目が多いと、万が一和泉さんが泣いてしまった時、立つ瀬がない。

 だから、私としてもここは従っておくべきだ。

 が。


 「…ねえ、それ、今日じゃなきゃ駄目?」


 私は廊下に流れる人の激流を指して言った。わいわいと談笑しながらくんずほつれつ進んでいる。向こう岸に渡ることがほとんど不可能なくらいひしめき合っていて、かのホイホイを思い出した。


 いつもはこの時間帯、部活動をやってる生徒が帰るくらいだから、人数なんて知れていて、ここまで混み合ってはいない。じゃあ何故今日に限ってというと、多分もうすぐ文化祭だからだろう。部活をしていない生徒も半強制的に残らされ、準備をさせられる、一人が好きな生徒にとっては最低最悪の行事である。かく言う私も、学生時代はその口だった。


 「ダメです」和泉さんはきっぱりと言ってから、私に手を差し出した。「手を繋ぎましょう、はぐれないように」

 「…まあまあ」私は少し考えてから、その手を取った。


 私の用事は別に今日じゃなくてもいいのだ。いつでも、言ってしまえば明日の朝でも十分だが、後ろめたい気持ちもあって、彼女の予定に合わせたのだった。後ろめたい、なんて、そんな心持ちで大丈夫なのかという感じだけれど、これはどうしようもないことだろう。


 「まあ、はぐれたところで学校だから別に大丈夫だとは思うけれど」

 「ええ。けれど、先生そのまま帰っちゃうかもしれませんし、それに、私が手を繋ぎたいのです。先生に、触れていたいのです」

 「……」


 その言葉を、私は懐かしく迎える。いや、同じ台詞を誰かに言われたことがあるわけでは無い。懐かしいのは、その言葉を受けた私の感情である。

 年甲斐もなく狼狽えて、顔が紅潮してくるのが解った。

 

 「いきますよ」


 和泉さんは微笑みながら言って、濁流に飛び込む。私もそれに身を任せて、続いた。和泉さんが先導してくれているからかそれほど苦しくはなく、むしろ進みやすいくらいだった。


 この子を拒絶するのはいささか気が引ける。私のことが無ければいい生徒なのだ。沢山質問してくれるし、優しいし真面目だ。きっと最初は単なる数学好きだったのだろう。それが高じて、今こうなってしまっているのだ。

 私は彼女が嫌いじゃないし、むしろ好きなくらいだ。


 でも、それは多分恋心ではない。私は和泉さんに恋をする要素はない。確かに綺麗な子だから、いつも無意識に注目してしまっていたけれど、ただそれだけで、綺麗な子なら和泉さんじゃなくても注目すると思う。

 それに、教師と生徒だっていう問題とか、受け入れるための懸念材料が無視できない。


 「……」


 こうして手を繋いで、私はドキドキしてしまっているが、それだってただ私が手を繋ぐという行為に免疫がないだけだ。


 そういえば、最後に手を繋いだのはいつだっけ。

 ああそうだ。あの子と最後に出かけたときだ。


 曲がり角に差し掛かる。左に曲がれば正面玄関だ。私たちは道なりに行って、川岸に上がった。


 「っふい」


 和泉さんが一息ついた。前かがみになって、深呼吸をしている。私も同じようにして、彼女を盗み見る。

 少し火照っているのか、顔が艶やかに赤らんでいた。


 「…大丈夫?」

 「ええ。もう大丈夫です。しかし、私はあまりこの時間まで残っていることが少ないので知らないのですが、結構いるんですねえ」

 「…そうね。まあ、普通はいないよ。文化祭の準備があるから」

 「ああ。参加してないんで知りませんでした」

 「? じゃあなんでこんな時間まで」

 「先生を待っていたに決まっているじゃないですか」

 「……」


 まあ、そりゃあそうか。言ってしまえば私を待ち伏せていたようなものなのだから、私の為に残っていたのはよく考えれば当然だ。それを照れもせずに言えてしまうのにはさすがに驚くが。


 「迷惑でしたか?」


 私はそれになにも返せない。そうだと言うにはそれほど嫌じゃない。しかし違うと言っては軽率すぎる。

 

 「この教室、誰も使っていないみたいですね」


 和泉さんは三つ並んだうちの、一番右の部屋を指さした。左からパソコンルーム、木工室で、最後にあるのが空き教室だった。普段、英語とか数学の科目分けの時に使う教室だったから、なにも飾り付けられていなかった。


 和泉さんと私はその部屋に入る。机が整然と並んであって、少し気持ち悪い。


 「…さて」和泉さんは私に向き直って、切り出した。「私は、先生のこと好きなんですよ」

 「……。それは、知っているけれど」

 「キスまでしちゃいましたもんね」苦々しい顔で彼女は言う。「…気持ち悪かったですよね、ごめんなさい」

 「……」


 申し訳なさそうに俯く彼女を見て、あのとき、言いすぎてしまっただろうかと反省する。確かに期待を持たせないためにもある程度のことは言わなければならなかっただろうが、果たして気持ち悪いまで言う必要があっただろうか。


 驚いたから言いすぎてしまったことは否めない。

 それによって彼女が傷ついてしまうのは、不本意だった。


 「…まあ、避けるのは、良いです…良いですけれど、無視されると、その、きついです」今にも泣きそうな口調で和泉さんは言う。 

 「それは、さっき手振ってくれた時のことを言っている?」

 「ええ、そうです」

 「まあ…それはさ、ほら、斎藤先生と話していたし」私は言い訳がましく言った。

 「…仲良さげでしたね」

 「そりゃあ…先生同士が仲悪かったらなんかやでしょ?」

 「それはそうですけど…反応くらいしてくれてもいいじゃないですか…」

 「ごめんごめん」

 「そうやって流しますけれど」言いながら、和泉さんは私に詰め寄ってくる。「私は本気でショックを受けているのですよ」

 「…へえ」

 

 こんなに近くに来られると、ちょっと困ってしまう。心臓の音が早くなっているのが聞こえてしまうのもそうだし、近付いて来るせいで早くなるというのもそうだし、このまま抱きしめてしまいたくなるものそうだ。こんなに密着されると普通にどぎまぎする。

 和泉さんの顔がすぐそこにあった。私はとっさに目を逸らす。


 「だから先生、罰として、名前を教えてください」

 「罰って…」

 「ひみつ、とか可愛い顔で言われたって我慢できるわけないじゃないですか」

 「だからそれは先生に言う言葉じゃあないでしょう」

 「先生だからって、可愛いものには可愛いと言うでしょう」

 「……」

 「…どうしても教えるの嫌ですか?」

 「いや…どうしても嫌かと訊かれると、教師だから毎期一回目の授業の時には前に立って名乗るから、別に抵抗は無いけれど」

 「じゃあ良いじゃないですか」

 「いいんだけどさ…問題はそこじゃないでしょ」

 「問題って…問題? え、なんかありますか。個人情報漏えい以外になにかありますか」

 「いや、だからさ、あなたが…」


 あなたが、私の名前を覚えていなかったからいけない。あなたが私の名前に興味がなかったことが問題なのだ。

 そう言いかけて、慌てて口を噤んだ。いや別に、教師としてはそれを言ったって構わないと思うのだ。人の名前はちゃんと覚えなさい、と指導する意味で、不自然なことは無い。しかし、それをやめたのは私の理性では無い部分だった。


 教師とか関係なく、和泉さんに名前を忘れられていたことが不満。他の子ならこんなふうには思わないけれど、和泉さんに忘れられていたのが嫌だった。


 ことごとく私を裏切ってくる感情に、少しもどかしさを感じる。


 「別にいいけど…」

 「いや、気になるんですけれど…」

 「良いから。…教えてあげるわよ、名前くらい」

 「良いんですか?」

 「ええ」私は頷いてから、視線を逸らして言った。「…大月奏おおつきかなで

 「大月奏」

 「そう。それが私の名前」

 「…奏? 奏、ですか?」

 「そうだけど…あんまり人の名前連呼しないでよ」

 「先生の名前、奏、って言うんですか」

 「ええ…それがどうかした?」

 「だって…っ」


 和泉さんは、驚きを隠せない、といった風だった。奏なんて名前それほど珍しいわけでは無いだろうに、どうしてこんなに驚くことがあるのだろう。正直、名前を教えて驚かれるって結構居心地が悪いものがあるのだけれど。


 それとも一般的には変わった名前なのだろうか。そりゃあ、多少は格好いい名前だとは思うけれど、この前ネットで見た『伝説の権蔵』って名前よりは全然普通だと思うのだけれど。

 

 和泉さんに目を向けながら、次なるアクションを待つ。


 「…同じ、名前じゃあないですか」

 「同じ名前?」

 「同じです…」


 和泉さんはなおも目を見開いて言う。和泉さんの名前は朱音だから、彼女と同じという意味では無い。だから、近しい人に『奏』という名前の人が誰かいるのかもしれない。


 そんなことで驚かれても私にしてみれば戸惑うばかりだった。早く終われこの時間、と念じる。


 「…絶対、これは運命です。運命ですよ…!」

 「うんめーね…はいはい、良かったね」

 「ちょ、あしらうとか。感動が薄れるようなことするのやめてくださいよ」

 「だって私、その同じ名前の人知らないし」

 「…大丈夫です」

 「何の話よ…」

 「知らなくっても、奏さんが知らなくっても、私が憶えています。私がずっと憶えていますから…今度こそ、一緒にいましょう。ずっと一緒に」

 「……」


 和泉さんが何を言っているのか分からず、私は当惑しっぱなしだったが、誰かに重ねているのは解った。


 誰に、どんな存在の人に重ねているのだろう。この前口走っていた、前の恋人か何かだろうか。それだったら代替品みたいでちょっと嫌だけれど。まあ、所詮数学教師というだけの私だから、別に良いちゃ良いのかもしれないが。


 「ね、ねえ、奏さん…キスじゃなくっていいから、ちょっとの間だけ、抱きしめていてもらっても、良いですか…?」


 上目遣いで甘えるように和泉さんは言った。顔が赤い。息が少しあらい。心臓の音が伝わってきて、結構早鐘だった。

 和泉さんのこんなに余裕のない顔なんて、初めて見る。いつでも余裕そうに微笑んで、飄々とした印象の彼女が、こんなふうに弱々しい表情を見れるのは、それだけで優越感があった。


 「……」

 

 真智の言葉を反芻する。

 私の気持ちはどうなんだろう。

 私は今、抱きしめるくらい良いかな、と思っている。本当を言うならそんなことするべきじゃない。それで、もし間違って和泉さんが私に受け入れてくれた、とか思ってしまったら和泉さんはさらにショックを受けるだろう。そしたら消えない傷が残るかもしれない。和泉さんのためにそんなわけにはいかないはずだ。


 しかしそんなことは関係なく、私は和泉さんに触れたがっていた。


 「…まあ、いいよ、そのくらいなら」

 「あ、ありがとうございます…!」


 結局私は微笑んで腕を伸ばす。和泉さんに折れたふりをしながら、仕方ない態を装った。


 私の目的は和泉さんを拒絶することだったはずだが、今はそんな気分じゃなかった。三限目の時に手を振ってくれたのを無視したのがいけなかったかもしれない。あるいは、先生を付けずに名前で呼ばれたのが悪かったかもしれない。


 ぎゅ、と和泉さんは腰に手を回して、私の胸に顔を埋める。私も彼女に腕を回して、和泉さんと密着した。癖になりそうな安心感だった。心臓は加速度を増して、体がぽかぽかした。


 「…あったかい…あったかいです」

 「そりゃあね、抱き合ってるわけだし」

 「抱き合ってるわけだし…! なんかエロいなあ…!」

 「…いや、そんなこと言われたら今すぐ突き放したくなるんだけど」

 「冗談です。あったかいだけです」

 「…よろしい」

 「…んむぅー」和泉さんはさらに力を込めて、私と密着した。そんなにくっついたら心臓の音が聞こえてしまう、と私は少し身構える。「…懐かしい。こんなにあなたに近付いたの、久しぶり…嬉しい。嬉しいです、ありがとう、奏さん」

 「…そう」


 このまま、和泉さんにキスをして、付き合ってしまっても良いかもしれない。私は夕方の気怠さの中でそう思う。教師と生徒だから、倫理的によろしくはないだろう。だからしばらくは誰にも言えないが、卒業すれば正式に付き合うこともできる。

 それは結構、幸せなことじゃないだろうか。


 彼女は私を好きで、私も彼女が好きなら、誰も止めるものはいないじゃないか。



 『――――一生あんたを、呪ってやる…!』




 がんと頭を叩かれたような衝撃で、私ははっとした。

 夜でもないのに、あの子のことを思い出す。中学生の時の記憶を思い出す。

 憎らしげな顔をして私に言い放ったその言葉を、恐怖とともに思いだす。


 無理やり現実に引き戻されたような感覚は眩暈めまいをもって私を叱咤した。

 あなただけ幸せになるの?

 そんなこと、絶対に許さないよ。

 私と和泉さんだけの教室で、そう言われた。


 私の中にはあの子がいる。そしてそれは私の核心であり、本体だった。

 私だけ、幸せになるのか?

 あの子を不幸にしておいて?

 そんな自分勝手が許されるはずがないし、私自身も許してはくれないだろう。


 「……」


 彼女は私を愛してくれるのに、私は彼女を愛せない。

 あの子は私に不幸にされたのに、私は勝手に幸せになる。

 そんな都合の良いことが、あるわけがなかった。


 「…奏さん?」

 

 何かを気取った和泉さんは、私を見上げた。私は今度も目を合わせない。

 和泉さんはどういう反応をするだろうな、と考えながら、私は言う。


 「…ごめん、あなたの気持ちには応えられない」


 心からの言葉は、案外職員室で考えた、予定通りの言葉だった。ああ結構普通にいえるじゃないか、と安堵する。

 和泉さんをやや強引に引き剥がしながら、続ける。


 「気持ち悪い…ごめん、やっぱり駄目。あなたのことを恋人には出来ない」

 「……」


 途端に和泉さんの表情は悲しみに支配されていく。私のせいで、私のせいでという思いが、あの時のように体中を駆け巡った。


 仕方ないじゃないかと思いたくてもやっぱり私は加害者でしかないのだ。なにも仕方ないことなんて無い。私が和泉さんを悲しませている。今現在、そして多分これからもことあるごとに傷つけて、それで私は彼女の中に滞留することになる。

 単純明快で最低な行為をもって私は和泉さんの中に刻まれる。


 「…私、じゃ、ダメですか、やっぱり」

 「……」


 泣いている彼女に慰めの言葉もかけられない。


 『―――私が、なにしたって言うのよ…』


 和泉さんとあの子が重なった。


 こんな時に何も言えないのが私で、和泉さんが好きになったやつの本体だった。


 ごめんね、折角好きになってくれたのに、こんな奴で。

 それすら言えなかった。


 「そう、ですか…いえ、そうですよね、やっぱり。いきなりキスするような奴と、一緒にいたいなんて思う人、いるわけないですもんね」

 「…和泉さんならきっと、私なんかじゃない、良い人が見つかるよ」

 「…その言葉は、結構残酷ですよ」ぽつりと和泉さんは言ってから、「ごめんなさい、お時間とらせて。ありがとうございました…また、月曜日です、かな…大月先生」にこりと笑って、私から離れた。


 名残惜しく感じたが、それを言うことはできなかった。言う権利もないし、言ってしまったらまた和泉さんを傷つける結果になると思う。

 

 「…ごめんね」

 「謝らないでください。ちゃんと受け止めてくれて、嬉しかったです。…もう、帰っていただいて大丈夫ですよ」

 「…和泉さんは帰らないの?」

 「しばらくは、帰れません…察してください」


 その表情を見て、私はやっと解る。もう一度、ごめん、と心の中で言った。


 「さよなら」

 「さよならです」


 いつものように返してくれる和泉さんだったが、その胸中は想像に難くない。これで、和泉さんとは終わりか、と私も感傷に浸る。いや、和泉さんとは何も始まっていなかったのだ。始まる前に芽を摘んで、一件落着だった。


 「……」


 いまだ混み合っている正面玄関を眺めながら、物語のようにこれで私たちの人生が終わったら、楽だったのになあと漫然と思った。

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