第8話 名前を呼んで-2
「
私のことを上の名前で呼んで、且つ先生とつけない人物は一人しかいない。斎藤真智は私の隣に着く。彼女は私と同期で、結構仲が良かった。お互いの家に行ったことがあるくらいの仲で、だからまあ、同僚というよりは友達の感が強かった。
白のロングスカートが良く似合う。この前寝ぼけていたのかブラウスもスカートも白色で来たときの彼女には神々しさすら感じたものだ。
「学校では先生、って付けた方がいいんじゃないの?」
「ああ…まあ、ここ生徒いないしいいんじゃない?」
「はあ、そういうものかね」
というか私も私で、同僚には敬語で接した方がいいのでは、と思う。思い返してみると、私が学生時代にため口で話していた先生を私は見たことがない。今も職員室では結構いるけれど、廊下とかじゃやっぱりみんな敬語だ。教師としてはちゃんとした言葉遣いをした方がいいのだろう。
そう思うが、なんとなく真智には敬語を使うのを躊躇われた。あと、何故か彼女は下の名前で呼んでしまう。私はたいていの場合苗字で呼び合うが、彼女だけは真智の印象が強かった。
「…まだ三限目だけれど、お疲れはまだ早いんじゃ?」
「いやーさっき、見てたよー。大月さん、生徒に絡まれていたでしょ」
真智は楽しそうに言う。ああ和泉さんのことか、と私は思い至って、少し恥じ入った。見られていたのは、なんだか恥ずかしい。
「…どっから見てた?」
「はじめっから。あなたたち二人が競歩で教室を出てきたところから、好きなら名前で呼んでよ、のところまで」
「いや…そこピックアップするかね。それに、名前で呼んでよじゃなくて、名前を覚えなさい、だから」
「同じことじゃない?」
「だってそれじゃあ、私が名前を呼んでほしいみたいじゃないの」
「違うの?」
「全然」
「ふうん…」
「なによ」
「いやいや」
そのはっきりしない真智の態度は、どうやら邪推しているようだと分かった。
「あんたねえ…」
「まあまあ、そう怒らずに。ていうか、いいことじゃないの、生徒に好かれるのは」
「いやまあそうなんだけど…好かれ方が、というか、普通なら良かったのだけれど」
「普通の好きじゃないの?」
「ええ…えっと、被害者だから言うれど、この前キスされた」
「ぶふう! マジか、すげえ」
「いやちょ、口調がいつもの感じじゃない!」
「そりゃそうでしょ! 男子に告られるならまああるけれど、女子か…しかもキス…やるなあ、大月さん」
「そんなことで評価されたくない」
「それでどうしたの、それから?」
「そりゃあ、受け入れるわけないから、拒絶して距離取って…」
「で、今日名前覚えて、と…発展してんじゃん。それで受け入れていないと言い張る?」
「いや…よく考えたらそうだな…何やってんだ私」
「そうだね。まあでも、良いんじゃないの、少し遊ぶくらい」
「教職者の言う台詞では無いな」
「大切なのは、大月さんの気持ちじゃない?」真智は言ってから、「大月さんは、その子のこと好きなの?」
真智は私に目を合わせて言った。
私の気持ち。私が、彼女を好きかどうか。
正直に言うなら、そこまでの感情を持っていない。確かにちょっと気になる存在ではあったけれど、だからと言ってそれ以上を望んだかと言えば望んでないし、想像すらしていなかった領域だ。
「お。噂をすれば。あの子でしょう、さっき一緒に居たの」
真智が指さす方向に目を遣る。窓の外には校庭がすぐ広がっていて、ボールでガラスが割れないための防護ネット越しに、体育の授業を受ける和泉さんが目に入った。
体育着の彼女を見るのは実は初めてだな、と思う。
「…うーん」
特に好きって気はしないけれど…けれど、何故だかずっと見て居たい気分になった。和泉さんが目に映っているだけで何か安心する。これが好意でなくて何だ、と訊かれたら答えられないな。
和泉さんはこちらに気付いたようで、大きく手を振った。
「…振り返してあげないの?」
真智はおずおずと訊く。
「まあ、ここで返したら、なんとなく残酷な気がしてね」
「成る程ねえ…解らなくもないけれど」
真智は納得していない風に頷いた。どうしてこんなに和泉さんの味方なのかな、と少し思った。
しているうちに、和泉さんは大きく手を振りながら、こちらへかけてきて、私は少し焦りを感じる。
「おわ、こっちくる」
「そんな害虫みたいに言わんでも…」
「…逃げなきゃ」
私は言って、廊下を早足に進む。途中、こんなふうに無言で立ち去られたら、和泉さんはどう思うかなあ、と頭をかすめたが、それでも歩みを止めなかった。和泉さんと話したとしても多分私は拒絶するだろうから、これでも同じことだろうと思う。
廊下が角に差し掛かって、運動場が見えなくなったところで私は歩調を緩める。
「…良かったの、本当に?」
同じようにする真智は、少ししてからそう訊いてきた。
私の心情的には、何とも言えない。無視した形になったことが心苦しくないかと言えばそうではなく、しかし、それはやっぱり私の自分勝手のような気もする。
私の気分をよくするために、なあなあの関係でいることは、和泉さんにとって辛いことなんじゃないかと思うのだ。
「……」
「まあ、分からなくはないけれど、後悔はしないようにね」
「…それが出来れば楽勝なんだけどなあ」
「楽勝って、何がよ」
「人生が」
「…そりゃそうだ」
あの子のことを想いながら私は言う。私が関わらなければ幸せに人生を送れたであろうあの子は、私の後悔の根源だった。
真智は苦笑いで応じた。
その笑顔はなんだか自嘲的で、考え事をしているようだった。
楽勝。後悔をしないように生きられれば楽勝。まあ、生きていれば誰しも考えることかもしれないけれど、真智にも思い当たる節があるようだった。
「…まあでも、ちゃんと考えてあげなよ。逃げてばかりじゃ、可哀想だと思う」
真智はたしなめるように言った。
解っているのだ、そんなことは。避けているばかりじゃ何も解決しないし、和泉さんも私も、得をしない。
私は和泉さんを拒絶すべきで、私自身彼女を好きじゃないことを、ちゃんと言葉で示さなければならないのに。
それなのに私は、和泉さんに嫌いだとはっきり言うことに抵抗を持っている。彼女を傷つけることに、そして嫌悪を言葉に出して彼女と話せなくなることに、抵抗を持っている。
何故だろう。キスまでしてくれたから?
それとも、自分自身と重ね合わせている?
どちらにしても、和泉さんには関係無いことで、私の心ひとつのことだ。これじゃあ、あまりにも残酷だろう。
「解ってる。解ってるよ、真智。…すぐにでも、私は和泉さんを拒絶するよ。嫌いだと、はっきり言ってもう私に近付きたくないってくらいに」
「いや…そこまでしなくても」
「そこまでやんないと、あの子のためにならないよ」
そう思うのだ。私なんかと関わったら、きっと和泉さんの人生はしっちゃかめっちゃかになってしまう。
「……」
あの子がそうだったように。
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