第7話 名前を呼んで-1
「先生、なにか手伝うことありますか」
和泉さんが言って、私はぎく、とする。よくもまあ、こんなふうに何度も何度も関わってくるなあ、と少し感心した。
いつもの通りの笑顔の彼女を、しかし私は、いつも通りには受け入れられなかった。
「いや、なにもないよ」
私は平常心を装って言った。本当は顔を真っ赤にしてしまいたいくらいの心持だったけれど、社会人生活で鍛えたポーカーフェイスはそう簡単に破られない。
「先生、その荷物は結構重そうですけれど」
「大丈夫、これくらい一人で運べるから」
「いえいえ、遠慮しなくていいんですよ先生」
「…遠慮とかでは無く、本当に一人で大丈夫だから。あなたは次の授業の準備をして頂戴。私は次の教室に行くから」
言って、私は教室を早足で出た。
「あ、ちょ」和泉さんは慌てたような声を出して、私に続いて廊下に出る。私の隣についた。
傍から見れば、これはもうほとんど競歩の域だった。廊下は走ってはいけない、というのはよく聞くが、これからの時代、競歩をしてはいけない、も追加すべきだろう。
なんて、教師が言っていては世話がない。
「ねえ、先生、私の事、なんか嫌ってる?」
「嫌っては、ない。避けてるだけ」
「…同じことじゃない?」
というか、付き合ってもいない相手にいきなりキスしておいて、嫌われないとでも思っているのだろうか、この子は。それはちょっと教師として更生させたい思想だ。
普通、口きいてもらえないくらいのことだろう。
私は黙って歩く速度をまた上げた。
「…さすがにキスは早かったか」
和泉さんはそう呟いた。さすがにって、じゃあやっぱりあの日、数学のことが目的では無く、私に何かしらしようと思っていたのか。
少し悔しくて、成績を下げてやろうと心に誓った。
「……」
和泉さんはやっぱり、私のことが好きなんだな、と思う。本人がそう言っていたから確認するまでもないことなのだろうが、しかし、それを手放しで信じるには、理由がなさすぎるのだ。私と彼女はまったくもって教師と生徒で、私を好きになるに足る出来事があったわけでは無い。
そりゃあ、多少は仲が良かったけれど、それは相対的に見れば、という話で、一般的な仲の良さを越えないものだった。大体、近寄ってきたら仲良くするのなんて、私にしてみれば当たり前のことなのだ。
私は教師だから、職務を全うするためにも笑いかけてくる生徒を冷たくあしらうわけにはいかない。そして今は教師だからこそ、距離を取っているわけだった。
ちらりと彼女の横顔を盗み見て、この子にキスされた放課後のことを思いだした。
何とも言えない高揚感が私を襲う。深く呼吸をして態勢を整えた。
「じゃあ先生、先生が私を好きになるにはどうしたらいいんですか?」
「それを本人に訊くかね…」
「訊かないとやってられません」
ちょっと意味が解らないな、と思いつつ、私は真面目に考えてみた。私が、この子を好きになるにはどうしたらいいのか。
まず、私が教師をやめなければならない。
「…アウト」
「え、なに?」
「じゃあ、そうだな」
そんな元も子もないこと言っても仕方がない、と思い直して適当に言葉を誂えた。
「まず、私の名前を覚えなさいな」
「…ん?」
「いやだから、あなた私の事、単に『先生』としか呼ばないでしょ。ほんとに私の事好きなら、まず名前を覚えなさいな」
「ああ…なるほど…」
盲点だったとばかりに和泉さんは頷く。しかしながら、きょとんとした、ピンと来ないといった感じの表情で、今にも首をかしげそうだった。
おいおい、それはどういうことだ。
「ふむ…ふむふむ」
「なによ?」
「しかし先生、先生も私のこと名前で呼んでいないじゃないですか」
「…? いや、あなた、和泉って名前なのでしょう?」
「そうですけれど、それは姓じゃないですか。ほれ、私の名前、朱音、ですし」
「ああ…いや、でも私はあなたのことを、ねえそこの女生徒、とか呼ばないでしょう。ねえ和泉さん、と呼ぶでしょう。あなたは私に対して、ねえ先生、と呼ぶけれどそれはただの役職だから。どの先生よ、って話」
「…んむぅ。なるほど」
難しい顔をしてそう言う和泉さんを見て、もしかして朱音さんって呼んで良いのだろうかと頭を過る。あかねさん。試しに呼んでみようかしら、と考えたところでそんなことをするべきではない、と思い直す。
これ以上距離を縮めたところで、どうなるわけでもあるまいよ。
「あのですね、先生」
「はーい?」
「いえ、大変申し上げにくいのですが…その、私実は、あなたの名前を忘れてしまったのです」
「…はあ?」
「単に『先生』と呼んでも普通に会話が成立するからか、今の今まであなたの名前に興味がなくって…すみません…」
はは、と苦笑いを浮かべる彼女を私は少し残念に思う。残念、というか、嫌な気分、と言った方が適当かもしれなかった。
えらくショックを受けたのだ。
名前くらい憶えておいてよ、仮にも私を好きだって言うのなら。
そう思って、ああ成る程と妙に納得する。要するに、その程度なのだ。彼女の中にある私への好意なんてしょせんその程度なのだ。名前を知らなくてもさして知りたいとも思わない。私のことを、知りたいとは思わない。
「……」
まあ、それが良いだろう。私なんかに本気で恋をするなんて、不毛が過ぎて愚かである。どうせ不幸になるのだし、誰も幸せにならないのだし。
だから、ここはショックを受ける場面ではなく安心するべき場面だ。教師としても人間としても、行く末を案じて安堵するべきだ。
ふう、とため息を吐いた。
「…そう」
思った以上に棘のある語調になってしまったことに若干の戸惑いを覚えながら、目的の教室の前で立ち止まる。ここまで早歩きできたためふくらはぎが大変なことになっていた。
「まあ…じゃあ授業頑張ってね」
私は言って、その教室に入ろうとする。そこで、まあ、案の定引き留められた。
「…?」
「え、あの、教えてくれないんですか、名前」
「…ああ」
そりゃあそうかと思う。知らないという話題がでたから、当然ながら流れ上教えるのが普通なのだろう。けれど私はこの時、まったく違うことを考えた。
意地でも教えたくない。
子供っぽくそう思った私は、拗ねているようだった。
「ひみつ」
不敵に笑って見せて、そう言った。私っぽくないなあ、と思う。基本的に私はあまり表情豊かな方ではないから、こんな顔をしたのはこの時が初めてかもしれなかった。
こんな少女にパーソナリティを乱されるなんて、結構侮れないものだ。
「可愛過ぎかよ…」
おい、それは先生に向ける言葉ではないぞ。
そう思ったが口には出さず、そのまま背を向けた。
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