第3話 こんな夢の続き-3

 「先生、放課後、少し付き合ってください」

 

 彼女に言われて、私はぎょっとする。授業が終わって、十分間休憩の時のことだった。授業中の水を打ったような静寂が嘘のように、また雑多な音が流れだす。

 その中でも、彼女の声は鮮明で、私の耳に吸い込まれるようだった。


 「え…」少し付き合う、とはなかなか抽象的だ。「なにか質問?」

 「ええ。ちょっと解らない問題がありまして」

 「どこどこ?」

 「いえ。授業ではないのです。個人的に数学のことについて質問があって。できれば腰を落ち着けて話がしたいんですが」

 「…んー」


 それを教科担任である私に依頼するのは、なるほど、理に適っているけれど、それは彼女と二人きりになるということで、今の私には少し心労が過ぎる。いや、彼女に恋愛感情を抱いているわけでは無いけれど、もし、万が一私が彼女を好きだとしたら、この放課後の個人指導のせいでたがが外れる、という可能性が無きにしも非ずだ。

 それでなくとも、私には前科がある。

 …まあでも、私の都合で数少ない質問してくる生徒を邪険したくはない。給料をもらっている身としては仕事に対しては誠実でいたい。


 「…昼休みじゃ駄目?」


 折衷案である。昼食を犠牲にしてでも放課後は回避したい。誰もいない状況、というのは結構人を狂わせるのだ。

 あの時と状況が同じということもあるし。

 

 「ダメです。昼休みは少し予定がありまして」

 「予定って…」なに、と訊こうとしたが、それはプライベートなことなので訊かない方が良いのかもしれない、と思って、「まあ、それならしょうがないか」

 

 そう引き下がった。

 彼女の言うことがなんとなく嘘っぽいけれど、彼女が冗談でも嘘を言ったことを見たことがない。嘘、というかまあ、おふざけ程度なら言っているけれど、何と言ったらいいのだろう、人の傷付くこと言っていない、とか、人の都合が悪くなることは言わない、って感じか。

 まあ、密に話したことは無いから本当のところは解らないのだけれど。

 彼女のことを知りたいとは思う。

 けれど私は、ちょっとばかり臆病で。

 そのちょっとは、どうやら私にとって重要なベクトルの様だった。

 

 「じゃ、放課後、よろしくです、せんせ」

 「ああ、はい」

 

 いつも、やや畏まった喋り方をする彼女が、そう言う。それはなかなかレアで、可愛らしい、悪戯っぽい表情に見惚れてしまった。


 ***


 「私の名前、和泉朱音いずみあかねと言います」彼女はそう自己紹介した。

 「うん…知っているけれど」


 彼女の予告通り、放課後二人きりの彼女のクラスで、私は頷く。今日に限って教室に誰も残っておらず、見事に二人きりだった。

 知っている、と言いきったが、しかし、実はうろ覚えだった感は否めない。和泉だったか泉だったか、あるいはイスミだったか、ちょっと確信がなかった。下の名前に関して言えば、みどりだと思っていた。

 何故だろう。

 朱音って、緑要素まったくないし、彼女、もとい、和泉さん自身も緑と言うよりは、寒色系ってイメージがある。

 

 「いや、混同しないためです」

 「はあ…」

 

 混同。

 和泉と泉とイスミ。

 これ、もしかして怒られているのだろうか。だとしたら、素直に謝るしかないけれど。

 というか、この子は私が名前を覚えていないことを、どうやら察していたみたいだ。なんでこう、私の受け持つクラスには鈍いやつがいないのだろう。私みたいな、どんくさいやつがいないのだろう。

 …いやいるのかな。三十五人もいるからもう、誰が誰だか、どんな成績を持っているか、殆ど把握していなかった。まあ、担任ではないから別に良い気もする。

 

 「ねえ、先生」

 「ん?」

 「ここ」

 

 和泉さんはそう言って、参考書を指し示す。

 

 「わからない?」

 「はい」

 

 ログの底変換だった。

 「あー、確かにここは力技感あるよね。納得いかない感じ…っておや」

 私は言いながら気付く。

 「ここ、一年の範囲じゃないんだけれど。二年でやる、数学2のやつ…」

 「塾でやっているのです」

 「じゃあ、塾の先生に教えてもらうのが得策では…」

 「そうなんですが、それじゃあ面白くないじゃないですか。答えを知っている人に訊いたって、我が物顔ですらすらと解いて、はい終わりです。問題を知らない、しかし私より賢い人と一緒に解いて、自分も賢い気分を味わってみよう、という寸法で、先生に助力してもらおうと思って」

 「あー…私今試されてる?」

 「そんなところです」

 「先生を試すとか…」


 私はぶつくさ言いながらも、結構楽しんでいた。数学1を担当しているので、この内容の問題に触れる機会は少なく、ちょっとばかし胸が躍る。

 

 「……」

 

 とはいえ、その問題の内容自体はそこまで難しいものでは無く、というか、初歩の初歩であるような問題だったので、解き甲斐がないというか、普通に解答出来てしまって、なんだか拍子抜けだった。

 

 「…ねえこれ、和泉さんの学力なら普通に解けるんじゃない?」

 「いえ。実は私、数学2になってからはからきし理解が出来なくて。このログにしてもそうですけれど、数学1とはがらりと内容が変わってしまうのが、どうにも順応できなくて…」

 「…なるほどね。まあ確かにそうかも」

 

 このとき、しかし納得できなかった。何か言い訳じみた言い方と、彼女の成績がそう思わせるのかもしれない。

 和泉さんの数学の前期の成績は、5段階評価の満点の5だった。それを目の当たりにして、授業においても頼りにしているので、だから数学2になったからといってこんな問題も解けなくなるというのは、毛頭信じられなかった。

 まあ、頼ってくれるのは嬉しいことだけれど。

 

 「せんせ」

 

 他の演習を解きながら、不意に和泉さんが私を呼んだ。

 

 「ん」

 「寝不足ですよね」

 「…まあね」

 「寝てください」

 

 眠れるものなら、と答えようとしたが、それはやめておいた。和泉さんがそれを聞いて、何になるわけでもないからだ。

 

 「寝てるよ。でもこの年になるとねー…上手く疲れが取れないっていうか」

 「……」和泉さんはしばらく黙ってから、言う。「嘘はいけないと思います」

 「嘘、って」

 「なんでって言いたいのですか」

 「まさに」

 「…私は、先生の嘘なら見抜けるのです」

 「んなあほな」

 

 だって、と畏まって和泉さんは言う。不敵な笑みが少しだけ紅潮して見えたのは、夕日のせいだけではない気がして。

 まさか、嘘でしょ、と身構える。

 

 「だって私は、先生のことが好きなんですから」

 

 きっぱりと、和泉さんはそう言った。そして私は、少しの間動けないままで、彼女をじっと見つめたままで、さて、何を言ったらいいのやらと考える。

 

 「…私も和泉さんの事好きだよ。優秀だし、真面目だもの」

 「先生、そうでは無くて、私はあなたのことを食べてしまいたいと思うくらいに好きなのですよ」

 「食べられるのは嫌だけれど」

 「性的に、です」

 「いや、それでも」

 「いいですか、先生」

 

 言って、和泉さんは私の手を握る。それに動揺して、振りほどくようにしてしまった。

 ぱきぱきと乾いた音を響かせながら、私のシャーペンが床に転がった。

 

 「…せんせ」

 「ごめん」

 

 落ちたシャーペンを拾おうと、椅子を降りて屈んだ。前を見ると、いつの間にか同じように屈んでいた和泉さんの顔が、私と対面する。

 と。

 

 ちゅ。

 

 いや。

 

 ずきゅぅぅん、といった具合に、私は教え子にキスされた。

 

 ちょうど、私たちが座っていた机が、教室の外から目隠しのようになってくれ、誰からも見られる心配はなかった。

 私はこの時、泥水で口をゆすぎたい気分ではなく、清水で口をゆすぎたい気分でもなく、心地よいと感じていた。

 和泉さんの温度が、息遣いが、私を浮足立たせる。

 その優しい感触を振りほどけるほど、私の理性は仕事をしてくれなくて。

 職務怠慢も良いところだけれど、しかし、私も私でそうだった。

 教え子にキスされて、その感覚に浸っているようじゃ、教師失格だ。


 「……」

 

 和泉さんが顔を離しても、私はしばらく彼女を見つめたまま惚けていた。

 どきどきどきどき。

 『ばくばく』というより、『どきどき』という感じで、私の気分は高揚していた。私は彼女だけを感じ、私の時間は彼女だけのものになっていた。

 年甲斐もなく、顔が紅潮しているのが解る。

 もっとしたい。

 そう思った。

 けれど遅まきながら、私の意識は自分が教師なのだと自覚する。彼女は教え子なのだと思いだす。

 体裁を整えるには、若干の手遅れ感があるが、表情を引き締めて、私は言う。 

 

 「…なんのつもり?」

 「好きです」

 「うんまあ、今ので分かった」

 

 あくまで冷徹に、冷静に。

 動揺は、多分伝わっていないはず。

 私はシャーペンを取って、椅子に座り直した。

 

 「あんまりこういうことしちゃ駄目だよ」

 「…? どういう意味ですか?」

 「おふざけでもキスなんてするもんじゃない、ってこと」

 「ふざけてないです」彼女はきっぱりと言って、座り直して再び私を見据える。対して私は、彼女の眼光に目を逸らした。「真剣に、今キスしました」

 「…そう」

 

 嬉しい、とか、そんなわけでは無いけれど、悪い気はしないというのは少し残酷だ。こちらにはその気がないというのに期待させてはいけない。

 仮にその気があっても。

 あなたは教師わたしなんかに恋をしてはいけない。

 私は生徒あなたなんかに恋をしてはいけない。

 それはどちらも、幸せになれない決断だから。


 「…動じないんですね」

 「まあ…こんなふうに大勢の前に立つ職業に就いてたら、こういうこと、こういう勘違い、結構あるからね」

 「勘違い、というのは私の恋心のことを言っていますか?」

 「ええ」

 「私は勘違いなんかでファーストキスを先生にあげたりしません」

 「…重いよ」

 「それくらい好きということです。…それに先生、今の台詞、嘘でしょ?」

 「いや。本当に重いと思ったけれど」

 「そうではなくて、生徒に告白されること、結構あると言いましたが、それは嘘ですよね」

 「どうして?」

 「先生、なんか恋愛経験少なそうですもん」

 「…しっつれいな」

 

 まあ、確かに私は今までに一人としか付き合ったことがないし、生徒に告白されたことも新任のころに数えるほどしかない。しかもそのすべては男性で、今のように女生徒に告白されるという経験は初めてだった。

 しかも、自分も気になっていた相手から告白されるなんて、この先一生ないかもしれない。

 けれど今、それを正直に言うわけにはいかない。どうせ本当のことなんてこの子は知らないのだから、嘘を吐き続けて、この子と私との間でだけの真実を作りだしてしまおう。

 ホワイトライというやつだ。

 あるいは、ホワイトトゥルー。

 いや、それはただの真実になるのか…。

 まあ何にせよ、それでたぶん、この話は終わる。

 少しばかり寂しい気もするが。

 それでも私は、大人として見栄を張って、彼女を諦めさせなければいけないのだ。


 「私はね、和泉さん。一応あなたの先生だから、…一応、あなたは私の生徒だから、普段あまりきついことは言えないのだけれど、こういう話なら私は真摯に受け止めさせてもらう」

 「はい」

 「あなたとは付き合えないし、あなたのことを好きになることは無い。今のキスも、正直言って気持ち悪かった。今後、こういうことするのやめてね」

 「…あなたの教え子が今、傷付きましたよ」

 「知ってる。傷つけた。ごめんね。でも、これも立派な仕事だからさ」

 「じゃ、じゃあ仕事じゃなかったら?」

 「私はこの職業をやめるつもりはないから、多分その仮定に意味はない。それに、仕事辞めちゃったら、あなたとももう接点なんてなくなるでしょ」

 「……」

 「まあ、あなたのことは嫌いじゃないし、これからも教師と生徒としてなら、どんどん頼ってくれていいから」


 私は最後にそうつけたした。相手が自分を好きだと解ったうえで、今まで通り接するのはおそらく不可能だけれど、便宜的に、この話を終わらせるために、そう言った。

 ちょっとずるいなあ、と我ながら思う。

 しかし、ずいぶんと大人っぽい対応だと思って、やはり自分も大人なのだな、と感じ入る。


 「…泣きませんよ」彼女は不意に呟いた。

 「それならよかった…泣かれても困る」

 「前回、前々回で、いやその前もですけれど、いっぱいいっぱい泣いたので今回は泣かないと決めていました」

 「……」

 

 彼女は今まで、沢山の人に告白して、そして失恋したのだろう。けれど、今回も、私に性懲りもなく恋をして、こうしてまた失恋して。

 私の時は泣いてくれないの?

 あと少しで、そう口に出しそうになっていた。

 それじゃあ、まるで私が彼女がいままで好きなって来た人に嫉妬しているみたいじゃあないか。そんなこと言ってしまえば、拒絶が台無しになってしまうから、間違っても彼女に伝えられない。


 「…だから、私は、今回こそは諦めないことに決めたんだ」

 「は…?」

 「先生が、どんなに私を拒絶しても、どんなに私を嫌っても、今回こそは、一緒に幸せになってもらいますから…!」

 「…お、おう」


 その勢いに気圧されて思わず返事をしてしまったけれど、一般的に言うならば生徒と恋仲になった教師は幸せになれないのでは。

 なんて、論点はそこではない。

 私とじゃあ、彼女は幸せになれない。

 もしも私が彼女を好きになって、彼女と恋仲になって、私が幸せになっても、彼女はたぶん幸せにならない。

 不幸になって、私を恨むことになる。

 恨まれるのは、もうごめんだ。後ろめたい思いをするのは、あれきりにすると決めたのだ。


 「まあ…頑張ってね」


 私は。

 何故かそう答えた。

 頑張って。私を振り向かせられるように頑張って。私を恋人に出来るよう頑張って。なんで私は、こんな、和泉さんが私を好きであることを許容するようなこと言ったのだろう。

 期待している?

 私はどこかで、和泉さんが私を救ってくれるんじゃないかと、そんな期待しているのだろうか。

 本当なら、和泉さんのことを考えて、彼女を嫌って、もう近づかないでとくらい言うべき場面だっただろう。

 教師としても、人間としても、私はこの時、和泉さんを拒絶すべきだった。

 しかし、訂正の言葉も出ないまま、和泉さんは言う。


 「はい…私はずっと、先生のことが大好きですから」


 そう言い残して、彼女は教室を出る。


 「……」

 

 風呂上がりのようにぼーっとして、椅子にもたれかかっている私は、窓から見える夕日に耐えかね、目を瞑った。

 

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