中学に入るとスチェヴィツァがある人々に目を付けられた。その口調と道徳観が、ある種の人々の気に触るらしい。放課後帰りの電車の中で別クラスになったノンノコにいわゆるいじめのことをおくびにも出さないスチェヴィツァは二日に一日は雨でもないのに髪がびしょ濡れだった。教科書は買っても買っても破損したり紛失した、靴や体操着はひどく汚され、しかしスチェヴィツァは負けなかった。やられたらやられた分だけはきっちりやり返すというような態度を崩さなかった。そのせいで彼女のクラスの女子一人が頬に痣が出来て親が学校に乗り込んできたという。スチェヴィツァの頬にも同じ痣があるというのに。ノンノコは言った。きょうだいだ。

 スチェヴィツァ、我々はきょうだいだ。スチェヴィツァは笑った。二人は放課後今までに増していろいろな話をした、それは紛れもなく二人の最も蜜月といえる時間であり、短い間の幸福でもあった。話す程に思い知らされる、スチェヴィツァのその真っ白な心にノンノコは近づきたいと思った。神に殺させられてたまるか。物語に射殺されてたまるか。こんなにきれいなものを。ノンノコはそう思った。それはその頃のスチェヴィツァの口癖からくる言い回しだった。

 沈んでいると神様や物語に殺される。きれいなものが沈んでくすんでいると奴らはとりあえず掬ってみたくなるんだ。ノンノコは物語に殺されちゃだめだよ。そんな風に輝き続けていてね。その間は奴ら、手を出せない。

 冬になった。放課後、ホームでノンノコと並んで電車を待っていたスチェヴィツァが線路に落ちた。自殺ではなかった。ノンノコは、スチェヴィツァが後ろから誰かに押されるのを見た。スチェヴィツァは慌てて線路から逃げようとしたが、ぎりぎりで間に合わず車体に掠ってホームの向こう側に吹き飛んだ。しかし、まだ息があった。病院にて、いろいろなチューブが繋がれてそれからスチェヴィツァは三日命を繋いだがいよいよダメだと言うことでノンノコは学校を休んで病院に行った。スチェヴィツァの父親が帰れと言った、お前を見たくない、どうして横にいたのに助けてやれなかったのか。ノンノコは俯いて泣くだけだった。すまんといってスチェヴィツァの父親はぼんやりしていた。とうとうという時がきて、スチェヴィツァは一度だけかろうじて喋った。ごめん息をするのもしんどいんだ、と言った。父親は嗚咽に身体全体を震わせながら言った。もういいあ、ありがとうい、今までありがとう。頑張れとか生きろとか既に誰も言えず、ましてや、誰かに押されたか?等、訊ける者などいなかった。ノンノコは、親友を後ろから押したのは確かに同じ学校の制服の手だったのを見ていた。だからそう証言した。しかし他の証言が無く取り合ってもらえなかった。誰も見ていないという。というかノンノコさん、それならなぜ本人に聞く機会がありながら押されたか聞かなかったのか、スチェヴィツァさんは一度意識が戻って話が出来たんでしょう?押されたならそう主張するでしょ本人も、これは自殺だよ、と言われた。ノンノコの供述は不自然に思われ、そして最終的にも自殺という風に片付けられてしまった。それからノンノコは、同時刻に電車に乗る、すなわちあの時刻にホームにいた、スチェヴィツァのクラスの女子を調べ上げ、四人に絞り込むことに成功した。ノンノコは呟いた。まだ死ねない。すまないスチェヴィツァ、君のぶんも生きなければならない、と言えばいいのか、僕は君の周りの清算しなければならない物事を引き受けてしまったので、生きる、それから死ぬよ、待っててくれ。自らのことを無意識に僕と称していることに、ノンノコはしばらく自分で気付いていなかった。

 落とし前をつけなければならないくそ人間の一人目はヌナモトユウコ。黒髪ロングで平べったい顔をしていた。ノンノコは部活帰りで一人になったところを待ち伏せし、40メートル離れた正面から、警戒したり体勢を変えさせる間もなく、肝臓と両腎臓と脾臓と膵臓と膀胱の六カ所に正確にナイフを放り込んだ。一秒かからなかった。何が起きたのかも分からず横に倒れたヌナモトユウコに近づき、なんで殺したんだ、とノンノコは訊いた。殺されてるの私なのに意味わからないな、と思いながらヌナモトユウコは死んだ。二人目はマツイモモモ。おかっぱ頭で馬みたいな顔をしていた。殺しては質問に答えてもらうことが出来ないことを学習したノンノコは犬の散歩中のマツイモモモをナイフで脅して拉致。山の麓にある空き家で手足を縛って爪を剥いだり指を切り落としたり膝を解体したりしながら尋問したが、やってないの一点張りだったので肺に穴を開けて殺した。三人目はモミジマアリーナ。ブロンドで、美人だった。学校でも登下校でも一人にならなかったため、四人目のコマゴメピペコを先に始末するという選択肢も考慮に入れながら作戦を練っていたら、捕まった。放せ馬鹿野郎!ぶっ殺すぞ!そう叫びながら暴れたため取り押さえられたときノンノコは左肩を脱臼した。

 ノンノコは13歳なので矯正施設に入れられた。まず精神科医が来た。女性で、グノーシスという名前だった。よろしくノンノコさん、と言って最初の質問。

「あなたはいくつ?」

「自分が先に言えよ」

「28よ」

「あんたの計算法だと僕は再来年に生まれるのかな」

 その後にも諸々応酬があったが最終的にグノーシスはブチギレて帰った。次に施設でノンノコを担当するという職員がやってきた。

「お前知ってるか。残念ながら犯罪者の資質を持つ遺伝子はDNAに刻み込まれているんだ。俺たちは犯罪がない社会ってのを作るためにこの施設でお前みたいなクソを相手にずっと頑張ってきた。でもな、最近、思うんだよ。生まれてきてはいけない人間がここには集まってるだけなんだって。この施設を焼き払えば良いんじゃないかって思う。昔の人はハエが空気から産まれると思ってたらしいが、犯罪者もそうだ。いくら消してもあっちからこっちから生まれてきやがる。生まれながらの犯罪者をこれからもずっと一つ一つ潰していかなきゃならんのか俺らは。まずそこから入っていくことが大事だったんだよな。現代社会に生きる俺たちのこれからの課題は、生まれてきてはいけない人間をどのようにして社会から排除するかだろう。頭に障害がある場合は受精卵診断で排除することも可能だが、お前達みたいな人間に化けて紛れ込んでる凶悪犯罪者は見た目で分かりにくいからなぁ」という説明を受けて施設での生活がスタートした。説明をしたノンノコ担当の男は、四十代後半の筋骨隆々の角刈りの巨漢。名前はベニショウガ。しかしベニショウガは、最初こそ口汚くノンノコを罵ったものの根気強かった。施設には数千冊の道徳を学ばせるための本が用意されており、一日一冊、ベニショウガは効果的と思われる本をノンノコに読ませた。施設ではノンノコに近づく者は殆どいなかった。恐れられていたのだ。しかし、しばらくして二人の人間がノンノコと親しく喋るようになった。一人は十六歳の少年ボジャボジャ。ボジャボジャは小学生の時母親が再婚した。義父に鬱陶しいから暗くなるまで家に帰ってくるなと追い出され、晩ご飯も出してもらえず仕方なく毎晩夜の街や公園をぶらぶらして過ごし、ある日飢えをしのぐためコンビニで万引きしたところを捕まって保護され、そのまま児童保護施設で暮らし両親とは一度も会わず中学を卒業して廃品回収業に就職したが職場に馴染めず辞め、よく計画も立てずに空腹に任せ空き巣に入って捕まりここに来た。もう一人は14歳の少年ブレマー。ブレマーは、ある日廊下ですれ違った好きな子がすれ違いざま自分を笑った気がしたから原爆を作ることにした。手始めに手軽な爆弾を20個作って、そのうち1つを液化天然ガスのタンク脇で爆発させて捕まりここにきた。ブレマーの計画ではこの一発で国の西半分が更地になるはずだったが、タンクはびくともしなかった。なんでそんなことしたいんだよ、ボジャボジャがそう訊いてもブレマーはいつも同じ返答をするだけだった。みんなが笑うから。それだけだった。人間というものは、最初からそうだと、現在そうであると、将来そうなるだろうと、一度そうなったら永久にそのままになると決まっているわけではなく、ある日突然そうなったり、そうでなくなったりするものなんだよ、ブレマーはよくそう言った。ホセ・オルテガ・イ・ガセトという人の言葉だという。ボジャボジャはノンノコのやったことを崇拝していた。ブレマーはノンノコのことを志を同じくする者だと思っていた。ノンノコは自分がやったことの理由を説明したので、それは違うということがすぐにわかったが、ブレマーはノンノコを仲間だと思い続けていた。テロは良くない、とノンノコは言った。しかしそんなこと言われても俺は何かを壊さないと正気でいられない、とブレマーは言った。ディスカッションの結果、殺し屋になればいい、という結論が出て、ブレマーはそれを目指すことにした。そんな二人を見ながらボジャボジャは、僕はまっとうな人間になろう、と決意した。殺し屋を目指すブレマーにノンノコはナイフの作り方と投げ方について講義した。その中で黒曜石やガラスについてもノンノコは話した。そういえばガラスは液体なんだけど象の時間だからドロドロ流れたりしないんだとブレマーは言った。象の時間って何だよ、とボジャボジャ。知らないのかよ、象の時間と鼠の時間だよ、象と鼠じゃぜんぜん寿命が違うけどさ、どちらも一生のうちに心臓が動く回数、呼吸の回数が同じなんだって、長いか短いかじゃなくて、速いかゆっくりかってことなんだよ、ガラスの話だったよな、古い建物の窓ガラスがさ、下の方にぐにゃーんと垂れたような形になってることがあってね、ガラスが液体説を裏付けるものとして考えられたことがあったんだけど、ちゃんと計算してみたらさ、液体の性質を見せるとしても、千年やそこらじゃそういう風にあからさまに垂れるほど動かないんだって、だからそのガラスは最初からそういう形だったってことなんだけどさ、すげえよな、千年やそこらじゃ変わらないって、千年やそこらって、なんだその表現、って感じだよ、おい聞いてるのかお前ら。ブレマーがクソみたいな雑学まがいをひけらかし始めるとボジャボジャもノンノコも右から左に聞き流していた。ボジャボジャは、僕は人殺しにはなりたくない、と二人を見てつくづく思っていたので、ちゃんとした人間になって、いつかお金を貯めて大学に行こうと心に決めた。とりあえず法律の本を読んでみた。最初に読んだ判例は、甲が乙と丙と共同で買ったヨットを丙が独占して使っているという理由で争っているものだった。なんということだろう甲乙丙。ヨットくらい仲良く乗ればよいのに、と思ってボジャボジャは悲しくなった。甲と乙と丙がまた笑って一緒にヨットを使える日がいつかくればいい、ボジャボジャはそう思いながら毎日眠った。夢の中で、寒空の海の上にヨットが一艘浮かんでいる。海の中では鮫がうようよ泳いでいて、船上で甲乙丙が殺し合っていた。

 1年が経って、ノンノコの両親が死んだという知らせが入った。二人の同級生を殺害した子供の母親に対する世間の風当たりは当然ながら想像を絶する。悪いことは重なるもので、もうどうしたらいいかわからないと母親が挫けそうになったとき、夫が船から落ちて行方不明という連絡が届いた。その二日後に、死体が見つかったと連絡を受けて、わかりました、という冷静な返答を受話器に返したあとすぐに母親は首を吊った。ボジャボジャやブレマーと交わす会話以外では反省を見せていたこと、犯行が動機のハッキリした復讐ということもあり十七歳でノンノコには監視付きで一旦シャバに出られる日が来た。とても早い。ノンノコが事件を起こしたのは国の南端だったので、まだ顔の知られていない北端に部屋を借り、仕事に就くことになった。この時点でノンノコは施設の部屋にある道徳を説く本千冊を読破していた。努力家のノンノコに、ベニショウガは心を打たれた。ベニショウガはノンノコが出て行く前日にベッドの横に座って涙ながらに言った。

「お前みたいな、十分に更生できる奴もいるんだなぁ。ノンノコ。もう一度俺もこの仕事に誇りが持てるようになったかもしれない。お前からも教えられたよ。ありがとう。頑張れよ。なぁ、これからここに入ってくる可哀想な子供達の為にも、誓ってくれ。お前の後に続けるように。もうしないと。まっとうな道を歩むと」

「わかったよ。この施設で出会った様々な本の中でも一番心に響いたあの本に誓うよ」

「ほう、何だ?それ。そうだな、それじゃ持っていってもいいぞその本。特別だぞ」

「本当?」

「嘘言ってどうするんだよ」

 ありがとう、じゃあ、もらっていくよ、でも恥ずかしいから、そっと持っていってもいいかな、ノンノコは俯いてはにかみながら言った。いいともいいとも、俺がなんとかしとく、とベニショウガは微笑んで答えた。数日後、事務職員がベニショウガに訊ねた。

「辞書知りません?」

 清掃・廃棄物処理業の仕事に就いて、ノンノコは1年ほど真面目に働いたあと姿をくらませた。職場に殺人犯であることがばれて居辛くなったのだが、最後にきっかけになったのは、どうやらスチェヴィツァを殺したのもこいつなんだろう、と思われているらしいということだった。それだけは耐えられなかった。ノンノコの消えた部屋には、何も残っていなかった。ノンノコは街角で物乞いをやっていた。たまにガラス細工を売っていたが、どこからくすねてきた物なのかは誰にも分からなかった。ノンノコはそれらを自分で作っていた。施設でブレマーが言っていた気がするガラスの製法を図書館で調べ、必要な原料や道具を揃えるために一年間貯めた金をすべて使った。山に溶解炉まで作ることに成功し、ノンノコは人生で今が一番楽だなと思った。ただ、普通の人は汚い人間をみると嫌悪感でいっぱいになってガラス細工を見る余裕が無くなるらしく、ノンノコが汚くなり髪が野放図に伸びるほどガラスは売れなくなった。ガラスを正当に評価できない人間どもに嫌気が差してきた。

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