まっしろな
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補助輪付きの自転車を買ってもらったばかりだった。一月の夕間詰めのこと、父親らと帰省していた保育園児の女の子が、屋根から落ちた分厚い雪の下敷きになり、亡くなった。前日は記録的豪雪であり、その瞬間に屋根から雪がごっそり滑り落ちたのは、二階で一組の男女が激しく情事をおこなっていて、それだけで微細に家屋全体が揺れるほどのボロアパートだったためでもあった。女は窓枠に手をついて後背位で挿入されていたので雪が女の子の上に落ちるのを上から見ていたが、オーガズムがきたので特に気にしなかった。男は避妊具をつけるのを忘れていた。そんなふうにして十ヶ月後にノンノコが産まれた。
父親はノンノコが産まれて間もなく漁船に乗り、滅多に家には帰ってこなかった。母親はちょっとした料理以外のことは何もしなかったため物心ついたときからノンノコが家事のようなことをしていた。数ヶ月に一度ノンノコは母親に言われて包丁を研いだ。そのときだけ母親が言う、気をつけるのよ、という言葉を大切にした。ノンノコはそう言われるのが好きだった。母親が自分の身を気にかけてくれていると感じられた。だがそれは無意識下で認識していただけだったのでノンノコは自分を包丁を研ぐのが好きな奴なんだと思っていて一生懸命包丁を研いだ。そんな錯覚をしているものだから砥石を持っていろんなものを研いだ。ハサミ、果物ナイフや十徳ナイフ、園芸用の鎌。それにとどまらずそこらへんの手頃な石、造船所の下請けの工場から不法投棄された金属の廃棄物、そしてガラス。だがガラスは研ぐ必要がなかった。適切な傷を付けて適切な力を加えて割ればそのまま切れ味の良い刃物になった。そのように様々なものを根気強く刃物の形に成型して鋭利に整え、持ち手をくっつけ、ノンノコはナイフを作った。それらは屋根裏に隠していた。ノンノコは色々な場所に行って素材を集めた。特にガラスと黒曜石がお気に入りで、ガラスは割るだけでよいし黒曜石は割って力を加えて徐々に樹木の表面みたいに剥がしていけば鋭利な刃になった。その二種だけでも小学校に上がるまでに各五〇本はナイフを作成した。
小学校に上がってもノンノコはナイフを作り続けた。ナイフというより歴史の本で見た石器を作っていたと表現した方が近いのだが、延長線上で槍投げのようなものにも興味を示し、作ったナイフを投げてみた。まっすぐには飛ばなかった。ただ、きっちりと丁寧に作ったナイフは回転させながら投げてもうまい具合に刃が確実に標的に刺さることを発見した。放課後に山に行って投げやすいナイフの形と刺さりやすい回転のかけ方、投げ方を研究し飛距離を伸ばした。女の子なのにそんなことばかりしていたので友達が出来なかった。
ある日、いつも通り森でナイフを投げているとクラスメイト四人が通りかかった。つくしを取りに行くのだという。三人男子で一人女子だった。女子は短髪で半袖半ズボンという出で立ちで、一瞬男子かとも思うがよくみると体つきや顔は確実に女子のものだった。この女子は中一で死ぬ。何してるんだこんなところで、格好いい、怖い、などと口々に言うクラスメイト達。ナイフ投げんのが好きなの、とノンノコは言ってまたナイフ投げに集中したが、彼らはじっと見ていた。「なんでナイフ投げんの好きなの」「それ手作り?」「怖い」それらの面倒臭い質問にノンノコは答えたくなかった。面倒だった。だが何かしら答えなければこいつらはどっか行かない。いろいろ作ったり、自分だけの、できるし、綺麗でしょう、包丁研いでたらなんとなくもっと他のもの研ぎたくなるでしょ……なんていうか……ええっと。たどたどしくノンノコは言った。喋るのが苦手だった。なぁ包丁研いだことあるか、と一人の男子が言い、全員がないと言った。僕思うんだけど、とここで今までずっと黙っていた一人の女子が口を開いた。小学校一年生に包丁研がせるって、それ、親、変じゃね、そんなこと普通させないって、と女の子はそう言った。女の子なのに自分のこと僕って言って変だなとノンノコは最初思ったが、そのあとに続いた言葉で完全に忘れた。なんだと、と呻くように呟いてノンノコは鋭く女の子を睨み付けた。だからそれってあれじゃん、虐待じゃねぇ、と女の子は続ける。男子の一人が、おい行こうぜ、と小声で全員に促した。震える手でナイフを握りしめるノンノコの瞳は今にも目の前にいる四人を殺しそうな気配を漂わせていた。ノンノコの頭は溶岩の濁流が流れ込んできたかのように熱く混乱していた。包丁研ぎ。気をつけるのよ、って気遣った言葉をかけてくれた唯一の包丁研ぎ。しかし、気遣うならばむしろそんなことはさせないのか。普通はしないのか。やらせないのか。あの三人誰もしたことがないと言っていた。そんな馬鹿な。でもいつかやるのだから、そのいつか怪我をしないように今の内に練習しておかせるのが長い目で見た愛情というものだし、気をつけるのよという言葉は愛にきまっている。そうでないはずがない。誰もいなくなった眼前に思いっきりナイフを投げた。見えなくなる先まで飛んでいった。
次の日クマが出た。町におりてきて作物を荒らしまた山に帰っていったが、のさばらせておくと危険ということで学校は集団下校。生徒諸君は家から出ないようにという注意喚起が行われ、ノンノコは気にせずいつも通り山に行ったし母は気にせずテレビのワイドショーをみていた。山でナイフを投げていると昨日の女の子がやって来た。二人お互いほぼ同時に気付いた。そして二人同時に言った。「何してんの」「何してんだ」ノンノコは昨日と同じ理由でいるだけだったので何も答える必要は無かったし答える気もなかった。昨日のことで腹が立っていた。女の子は言った、クマが可哀想でさ。そして詳しく喋った、母親にいつまで家を出てはいけないのかと訊ねたところ、クマを撃ち殺すまでよ、と言われて、人里に一度降りてきたクマは殺されることを初めて知り、居ても立ってもいられなくなったのだという。先に見つけて、逃げるように注意するんだよ、人間の都合でそんな、殺すなんて可哀想だと思わないか、ノンノコ、と女の子は言った。名前を呼ばれてノンノコは驚いた。
「クマは言うこと聞かないよ」
「やってみなきゃわからないだろう」
「いや、わかる」
「きかなかったらナイフで脅せばいい。いこう」
そう言って山の奥へ歩き出す女の子。脅す? クマについて何か勘違いしているんじゃないだろうか。知能のある何かだと思っている。というか何故私もついていく感じの雰囲気になっているのだ、と思いつつノンノコは後を追った。
女の子はスチェヴィツァという名前だった。スチェヴィツァは兄と父との三人暮らしであまり家が裕福ではないのでいつもお古を着せられていて男しかいない家庭の中で言葉遣いが男になってしまったのだという。二人はしばらく道なき道を歩いて、そそり立つ苔生した崖の一カ所に小さな、こぶし大の隙間を見つけた。子供の目線でしか気付けないような位置にひっそりと、しかし目をこらすと深い奥行きをを感じる穴だった。冬眠しているのかも、とスチェヴィツァが言った。クマのことを言っているのだとノンノコははじめ気付かなかったが、穴を覗き込むスチェヴィツァを見て、やめなよ、蛇の穴かも知れないよ、と警告した。クマの住みかだったとしても同様にというかそれ以上に危険なのに蛇の穴かも知れないと言ったのはスチェヴィツァがどうやらクマを危険視していないからである。スチェヴィツァが穴の周りを崩し始めた。簡単に穴の周囲の、ほとんど苔の塊みたいな土は崩落した。腐食した鉄骨のようなものを含んでいる。ノンノコは二歩下がって逃げる準備をした。スチェヴィツァは人一人分入れるようになった穴の中に潜り込んでいった。どうやら中は広いらしい。頭のおかしい奴は放ってもう帰ってしまおうか、とノンノコは思った。しかし、穴の中からスチェヴィツァの声がする。おーい、中は広いし涼しい。そんな情報は求めていない。クマはいないの、と穴の中に問い掛けてみると、いないみたいだ、と声がした。中からまた穴をボロボロ拡げてスチェヴィツァが手招きする。ノンノコは諦めて中に入った。確かに涼しかった。真っ暗だ。小さく一筋の光が入り口から漏れていた。天井はノンノコとスチェヴィツァが普通に立っていられるほどの高さ。成人男性でも頭を屈める必要は無いかもしれない。また壁も天井もどうやらコンクリートで、頑丈に出来ている空間のようだ。虫もいない、とノンノコが感想を漏らすと、いや僕が入った時にささーっといろいろ逃げてった、とスチェヴィツァが答えた。ノンノコはぞわりと身体を震わせたが、まぁ、逃げていったのなら、取り敢えずは安心だと心を落ち着けた。どうやら防空壕だね、とスチェヴィツァは言った。防空壕という語彙があって何故クマの知識がないのか、と思ったがノンノコは黙っていた。ナイフのいい隠し場所が出来たと思った。持っているナイフを奥に置いて、ノンノコは外に出た。これで隠し場所に苦心することもないぞしめしめ、と心で笑いながら家に歩き出した。後ろからスチェヴィツァが、おーいクマまだ見つかってないぞ、とか、どこいくんだよー、とか言っている。勝手にやってろ、と吐きすててノンノコは下山した。
翌日スチェヴィツァが朝から絡んできた。僕だけ怒られたじゃないか、と難癖を付けてきた。見つかる方が悪いしクマに殺されなかっただけマシだろうと思った。昼休みに担任の先生が告げた。クマは撃退されたので今日は普通に下校できますよ。ふーん、という感じの雰囲気だったがスチェヴィツァは自分の席で組んだ腕に突っ伏して寝ているふりをしていたが、ノンノコには分かった。スチェヴィツァは泣いていた。ノンノコは戸惑った。戸惑いつつも放っておいた。ノンノコは帰宅して早速屋根裏などに隠しておいたたくさんのナイフをナップザックに詰めて懐中電灯を持って防空壕に向かった。内部は昨日と同じだったが、ノンノコが入っても虫がさーっと引いていくような様子はなかった。一度引いたらまた集まってくるのに時間がかかるらしい。ノンノコは奥にナイフをしまい、今日使うぶんの金属のナイフを三本持って外に出た。穴を隠すため、カモフラージュの布を持ってきていた。接着剤で砂をくっつけて穴を覆う。上出来だ、と自画自賛したところで後ろにスチェヴィツァがいた。なんだよ、というと、クマが殺された場所に行ってきた、とスチェヴィツァは呟いた。「線香でもあげてきたの」「何もしなかった。血が残っていた」そして沈黙。数十秒後口を開いたのはノンノコ。どうしようもないよ。放っといたら人間が死ぬかもしれない、殺されるなら殺す方がいい、仕方ない、ノンノコはそう言った。歩き出そうとするノンノコに、ありがとう、とスチェヴィツァは言った。ついてきてくれたのはノンノコだけだ、と。そりゃそうだろう、とノンノコは思った。クマを助けるなんて言われて手伝おうと思う馬鹿は少ない。そのあといつもの練習場に行ってナイフを投げるノンノコをスチェヴィツァは見学した。
二人は友達になった。一緒にいるようになってノンノコはスチェヴィツァがひどく道徳的で度を超して善人であることに気付いた。例えば三年生になったとき、十歳の現在から二十歳の自分を想像してみましょう、十年後、自分は何をしていますか、フリップにお答え下さいどうぞ、という道徳の授業でノンノコは「プロのナイフ投げる人」と曖昧なことを言ったが、スチェヴィツァは「プロの、紛争地域で写真を撮り全世界に発信する人」と書いて発表した。スチェヴィツァの次に発表させられた後ろの席の男子のクォアラは「じゃあオレは軍隊に入って紛争地帯で銃撃ちまくりたい」と言った。彼は十年後実際に軍に入り紛争地帯に派遣され、地元の過激派組織に捕らえられ軍の撤退を要求するための人質になったがこの国はその要求を拒否し、リアルタイムで逐一配信されながら二週間拷問され、死んだ。彼が最後に食べたのは唐揚げにされた彼自身の金玉だった。また、スチェヴィツァは毎月の3ドルのお小遣いの中から2ドルをいつも街頭の募金箱に放り込んでいた。募金箱を持って立っているのは三十代後半くらいのおじさんで、人の良さそうな顔をしていた。スチャヴィツァもう何も買えないじゃん爆笑、とノンノコが駄菓子屋で買ったチョコバーをもぐもぐしながら茶化してもスチェヴィツァは「いいんだ」と穏やかだった。1ドルで一人の命が救える。募金箱に書かれていたそんなキャッチコピーにスチェヴィツァは心動かされたのだ。貧困国の衛生状態の悪い子供のワクチンに使われると説明してあった。子供一人の命を病死から救えるかもしれない額なのだ、1ドル。二人で2ドル。スチェヴィツァの月の小遣いは3ドル。その募金箱に毎月集まる額は200ドル。募金箱の持ち主のおじさんのパチンコ代に消えるのがそのうち平均して70ドル。食費に消えるのが130ドル。彼が既に抱えている借金が6万ドル。返しきれなくて後に彼の売った臓器の総額が7万5千ドル。その年この国で各政党が対立候補の中傷CMに使った総額が1640万ドル。スチェヴィツァはまた、当然のごとく動物にも優しかった。月に彼女のもとに残るお小遣いは前述の通り1ドルだったが、その1ドルさえもスチェヴィツァは自分のために使わなかった。あるときはそれすら募金してしまったし、あるときは空き地で見つけた飢えた犬にジャーキーを買ってやったりした。その犬は四日後にまた人から何かもらえないだろうかとお腹をすかせて町に出てきたところ、保健所に捕まり殺処分された。一分後に炭酸ガスの満ちる部屋でなお、この人たちは何をくれるのだろうと白い尻尾を振っていた。小学校五年生になる頃にはある種の尊敬に似た感情をノンノコは抱いていた。スチェヴィツァ。なんて真っ白な心を持っているのだろう。それに比べて自分は自転車のチューブ切って木に括り付けて肩の上でぎゅんぎゅん前に引っ張ってる。野球部のピッチャーが腕の筋力つけるためにやってる練習を見て真似したのだ。両手ともに同じ速度で投げられるように利き手関係なく均等に訓練した。六年生になる頃には5秒間で20本のナイフを、30メートル先の松の枝にすべて当てられるようになった。秒間4本だ。ノンノコは秒間5本を目標としていたので訓練は続いた。
この頃から街の壁のところどころが黒いペンキで塗りつぶされているのが目立つようになった。ある選挙が終わった、というわけで何かしらの政党が勝ったのだが、選挙前に街に溢れていた、その政党に関する誹謗中傷の類の落書きがすべて一夜にして塗りつぶされたのだ。ゆっくり消せばよいのにとノンノコは思った。公約に埋め立て地の開発、観光事業の拡大を掲げていた。スチェヴィツァが真っ黒い雌の子猫を拾った。拾える時点で弱った猫である。壁から流れたペンキでこんな色になったんだ、とスチェヴィツァは悲しそうに言った。そして、親からはぐれたみたいでさ、というか、こんな状態だから、見捨てられたのかも、家で飼ってもらえるように頼んだけどダメだった、と続けた。じゃあ私が頼んでみるよ、とノンノコは言って猫を預かった。スチェヴィツァは喜んだ。ノンノコは先日道路の真ん中でその子猫の母親が絨毯みたいにぺしゃんこになっていたのを知っていたので、スチェヴィツァが見つけないように、その日の夜に母猫の死体の所にまた行って山に埋めた。子猫の名前はハティと決めた。ダメで元々だったがノンノコは母親に頼み込んだ。母親はノンノコの予想通り反対したが、二時間も頼み込まれると根負けして、ちゃんと責任持って世話できるのね、と言った。ノンノコは元気よくイエスと答えた。次の日ノンノコが学校から帰ってくるとハティは顔に首からラッパのようなものを被せられていた。エリマキトカゲみたいだ。よく分からなかったがとりあえず持ち上げて撫でてやろうとして腹の下に手を差し入れてやると、ンギャアアアアアアアアアアア、と叫びハティは全力で逃げていった。何が起きたのかノンノコにはわからなかった。母親が、午前中のうちに去勢の開腹手術に連れて行っていたのだ。それでハティの腹には縫い目があった。ラッパのようなものは腹の手術痕を猫自身が舐めたりしないようにつけるものだった。母親はノンノコが責任を持って飼うならちゃんとすることはちゃんとしないとと思ってハティが子供を作れないようにしたのだ。子供ができても、もらい手がなければ捨てるしかないのだから。そして、ノンノコのような小学生には論理的に説明をして「だから子供が産めないようにする」とそんな事情を納得させるのは不可能だと思っていた。だから母親は黙ってやった。しかしノンノコが帰ってきて真っ先に腹に触ってはいけないことを告げるべきだった。ノンノコはそれからハティに徹底的に嫌われ恐れられ、ノンノコが与える餌には手もつけなかった。しょうがなく母親が餌をやった。その決定的な腹への攻撃によってハティはノンノコを敵と認識していたので、ハティは3日後に隙を見て逃げ出した。逃げ出した二日後に道路脇のドブ川で蛆虫の家になっているハティを見つけてノンノコは山に埋めに行った。ハティどこ行ったんだ、とスチェヴィツァがノンノコの家に遊びに来て言った。親のとこに行ったよ、ノンノコは答えた。墓は母猫と同じ場所にした。それからノンノコは母親に対して一ヶ月不機嫌だった。
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