傷み

鈴久育

第1話

 怪我を、した。

 病院に行かなければならない程度の怪我で、しかし入院するほどではない怪我だ。

 診察と治療を終えて、会計へと向かう。

地域では一番大きな総合病院とは言え平日の昼前、待合室に人は少ない。

探すまでもなく、その人が目に入った。

そちらへ歩み寄っていく内に、向こうもこちらに気が付いたらしい。無表情だったその顔に、何とも言えない色が滲んだ。

「こんにちは」

 私がそう言うと、彼は「ああ」と応える。そしていつも、どこか居心地の悪そうに身じろぎをするのだ。


 ***


 私が桐原一誠と出会ったのは、小学校六年の夏。差し込む午後の日差しがじりじりと目と肌を焼く、そんな総合病院のロビーでのことだった。

 昔からよくよく病院にかかるような怪我をする子供だったが、その日の私はそれまでの十二年という短い人生において、一、二を争う大怪我をしていた。

 右瞼の上を、三センチ。ざっくりと。

 幸い眼球に異常はなかったが、結論から言えば、確か何針だったか縫った筈だ。

 その原因はと言えば、何の事は無い、スポーツを――弓道をしていての、事故である。

 運と、それからタイミングが悪かったのだ。

 友人と喧嘩をしていた。当時の私は当然ながら、しかしどうしようもなく子供だった。今ならば絶対にしない事も平気でやってのけた。そこが弓道場の隅である事も忘れて最後には取っ組み合いにまで発展した、その喧嘩の理由など今はもう覚えていない。しかしそんな些細な原因に、見事に反比例した大ゲンカだった。今から振り返ってみても、瀬戸彩乃史上最大の大一番と言って過言ではないだろう。

 一応言わせて貰うと、先に手を出したのは私ではない。というのも、私は大きな大会を直前に控えていて、万が一にも怪我などしては大変困ると、怒りに沸いた頭の端の方で、妙に冷静に考えていた覚えがあるからだ。

 しかし、それが裏目に出た。

 私はそれはもう景気良く突き飛ばされ、体勢を保つべくよろよろと二、三歩よろめいた。そしてそこは偶然にも、その時射手が射損じた矢の、丁度射線上だったのである。

 目を瞑る暇さえなかった。

 気付けば私は弓道場の隅、一番端の的の前にへたり込んでいた。右目辺りからだらだらと血を流しながら。

 周囲の大袈裟な反応ほど、痛い、という感覚は無かった。実際、矢が直接刺さった訳ではない。ただ、そこだけ日射しが三倍近く当たっているのではという熱さと、右目はもう使い物にならないのだろうという漠然とした諦念と、口の端に触れた血の、あの鉄臭い味と。それだけで一杯で、私は取り乱す余裕すら無いまま、救急車で病院に運ばれた。

 救急車に乗ってからの事は、正直良く覚えてはいない。意識が無くなった訳ではないのだが、救急車に積んであった鈍く光る担架の脚だとか、十分と経たず真っ赤になるガーゼだとか、そんな一部だけを写真のように切り取って、後は白昼夢でも見ていたかのようだった。

 あれよあれよという間に近所の総合病院に到着して、縫合しましょうと言われるままに処置を受け、右目ごと傷をガーゼと包帯で覆われて。

 私が再び現実に立ち返ったのは、全てが終わった後、ロビーで遅い昼食を採り終えての事だった。因みに昼食は購買で売っていたサンドイッチで、これから先、このサンドイッチに幾度となくお世話になるなんて、この時はちっとも予想していなかった。恐らくこの時を原体験として、病院食はサンドイッチであるという、阿呆な刷り込みが私になされたのだろう。

 出たごみを一つにまとめながら、麻酔が切れてきたのかじんわりと痛み出した右目の上に、ようやく認識だけは追い付いて来る。それでも、思考はまだ寝起きのように靄が掛かったままで。

 ああ、大怪我をしたのだなあと。

 漠然とそんな風に思ってみた。

 私の保護者は連絡だか手続きだか、とにかく何処かへ行っていて、私が日曜の緊急外来だった事もあり、ロビーにいるのは真実私一人だった。

冷房の効きの悪い室内で、同じくらいぼうっとした頭を無理矢理働かせる。半分になった視界はやはり違和感があって、弓道の大会はおろか日常生活すら慣れるまでは苦労しそうだ。そうやって先を考え始めると憂鬱になる。学校の友人達に大袈裟に騒がれるのも嫌だったし、私を突き飛ばした友人や矢を射た後輩とは暫くぎくしゃくするのかと思うと、申し訳無いやら面倒臭いやらで、思わず溜息が漏れた。

 誰も居ないロビーで、思いの外大きく響く息を吐く音に驚いた――そう、その時だった。

 その溜息に混じってコツコツと、足音が聴こえたのは。

 硬質な響き。恐らくブーツだ。つまりヒールを履いた私の保護者ではない。こんな蒸し暑い日曜日、私と同じく不幸にも病院のお世話になった気の毒な人間の顔を拝んでやろうと、私は多分の興味を持って通路を見詰めた。

 コツコツと規則正しい足音。

 じくじくと、傷に響くような錯覚。

 やがてその音と共に至極何でもない風に現れた彼が、図抜けた二枚目である事を理解するまでには大分時間が掛かった。

 ダークグレーのスーツが誂えたように似合う。上着の前を開けたラフな雰囲気は、きっとモデルだと言われても頷けただろう。見事な着こなしに反して、しかし残念ながらそのスーツは所々汚れていた。良く見れば、襟元辺りが皺になったのを無理矢理整えたような跡も見受けられる。

 そんな衣服とちぐはぐで目を引いたのが、綺麗に刈り揃えられた短髪だ。刈り上げた、と言うにはやや伸び気味だが、ともすれば極道か囚人かといった風情。それでも彼から溢れ出す気品のようなもののお蔭で、彼の外観は不思議な均衡を保っていた。

 そして、顔。俄かアイドルなら裸足で逃げ出すような整い方だ。格好良いとかイケメンとか、そういう形容詞の顔ではない。言うなれば、ステンドグラスに描かれた宗教画の美しさ。神々しさすら感じるほどの美人なのだった。

 その神懸かった美しさにすぐには気付けなかったのは、何も私が美的センスに欠けていたということではない。芸術品のような顔立ち、その四分の一を、白磁の肌より白い包帯が覆っていたのだ。

 彼の、丁度右目の周辺。

 ――珍しい事もあるものだ。

 こちらに気付いているのかいないのか、彼は私には一瞥もくれずに、少し離れた椅子に腰掛けた。

 私の二列前、隣の行。

 その様子に、彼はこちらに気付いてはいるのだと、確信めいた考えがよぎる。最前列は避け、先客に遠からず近からず、かつ視界に入って存在だけは主張しておく。私が彼の立場であったら、間違いなく同じ位置取りをした事だろう。怪我の位置といい、何となく親しみを覚えて、改めて彼を注視する。

 当然顔は見えないが、後頭部に白い包帯が痛々しい。自分も同じ事になっているのかと思うと、今更ながら周囲の騒ぎようも少し腑に落ちる気がした。

 更にじろじろ眺めている内に、ふいに違和感を覚えた。スポーツ刈りから少し伸びたと言った風情の、高校球児もかくやといった短髪。しかしその印象とは相容れず、彼の髪の色素は極端に薄いのだ。かといって、染めているようにも――正確には、染められるようにも――見えない。明るい茶髪は、陽光のお蔭できらきらと金色のようにも見えた。

 ふと、何をしている人なんだろうか、と疑問が浮かんだ。綺麗な人に対する野次馬根性だった。失礼なのは承知の上で、よくよくその人を見詰める。少なくともまだ彼に何の迷惑も掛けてはいない、そもそもそんな容姿なのがいけないのだ。そう胸中で開き直る。

 スーツ、短髪、そして怪我。一番最初に思いついたのは、所謂その筋の人だ。

 しかし、これは違うなと脳内で首を振る。単純にイメージの問題だ。彼の気品はそういう粗野な様子とは結びつかない。

 不意に彼が身じろいだ。どうやらポケットを探っているようだ。何かを取りだして、ち、と舌打ちする。再び手をポケットに突っ込むと、おもむろに立ち上がって外へと向かった。

 私は彼に興味を惹かれて、その後について外に出る。

 外は暑かった。熱気の壁にぶつかるような錯覚に、初めて冷房の効いた場所にいた事を実感する。

 辺りを見渡すと、彼は横断歩道を渡るところだった。向かっているのは目の前の中華屋――かと思えば、そこにある自販機だったようだ。並んだ二台の内の右側、煙草の自販機へと歩を進める。成程先刻のは煙草を吸おうとして切らしていたのに気付いた動きかと、どうでも良い事に納得した。

 私はそのまま道路のこちら側から彼の様子を窺う。彼は慣れた動作で煙草を買うと、くるりとこちらを振り返った。ぶつかった視線に今更のように気まずくなり、咄嗟にあさっての方向へ逸らす。

 車が数台行き交うのを見送り、彼は横断歩道を渡り始めた。こちらへ近付いて来る彼と目が合わないよう、まずは視線を地面へと落とした。そうして私はその場に留まったまま、どうするべきかと思案する。

 喉が渇いたので飲み物を見て来よう。ついでに、先程彼の買った煙草の銘柄も。思えば、そんな言い訳じみたことをわざわざ考えるほどには、私は緊張していたのだろう。彼が渡りきるのを横目で見つつ、道路を渡り始める。

 次の瞬間、凄い勢いで後ろに引きずられた。

 突然の事に大きくよろめいた私の身体は、しかし背後の何かに支えられ、倒れることは無かった。喉に加わった衝撃に咳き込んだところで、背後から襟を引かれたのだと気付く。息を整える私の目の前を、凄い速さの車が一台、通り過ぎて行った。

 状況を呑み込めず未だ呆然とする私の頭上から、大きな吐息が降ってきた。

「――病院前で事故とは、手間の掛からん奴だな」

「あ……」

 彼だった。

 病院前で事故。そう皮肉られて初めて状況を呑み込んだ。つまり私は、死角から来た左折車に轢かれかけ。背を預けているこの人に、襟首を引かれて助けられたのだ。

「大丈夫か」

 心配というよりは、事務的な確認に似た声音だった。

 その問いに対し、私は咄嗟に対応を選べなかった。物理的な衝撃に対する動揺。死にかけたという恐怖。そうして、彼と関わってしまった事への得体の知れない焦燥。それらの奔流に呑まれ、一瞬だけ、私の理性は完全に剥がれ落ちた。

 その、剥き出しの筈の『私』は。

 ――体面を、取り繕う事を選択した。

 乱れたままの息を整えて口を開く。自分の顔が勝手に愛想笑いを浮かべるのが、その時はやけによく分かった。

「ありがとうございました」

 たった一言を口に出すのにそんなにも労力が要ったのは、後にも先にもその時のみだ。暑さと動揺に眩む感覚を、達成感とさえ錯覚しそうだった。

「……ふん」

 そんな私を見て、神々しい彼は軽く眉をひそめると、不遜な態度で言い放つ。

「随分と胡散臭い笑みだな、ガキの癖に。」


 じわり、と、傷が痛んだ。


 やられた、と思った。

 冷水を浴びせられたように醒めていく感覚。やっと整い始めた息が止まりそうになる。二の句も継げず、呆けたように彼を見上げるだけの私は、さぞや間抜けな顔を晒していた事だろう。

 冷静になってみれば、何の事はない。彼はただ私の笑みについての所感を述べただけであり、私は決して罵倒された訳でも非難された訳でもない。

 それでも、何故か。

 絶対にばれてはいけないことがばれてしまったような――そして、それはもう取り返しのつかない事のような。

そんな心持ちで、私は彼の次の言葉を待っていた。

 私は彼を見上げ、彼は私を見下ろして。

 しばしの沈黙の後、彼は私の頭を軽く叩くと、真夏の太陽を背負った逆光の中でこう言った。

「まあ、なんだ。そう生き急ぐな。」

 その時の彼の表情を、私は今でも忘れられずに抱えている。

 まるで、灼けて引き攣れた傷跡のように。


 ***


「左足を挫きました」

「そうらしいな」

 彼はわざとらしい動作で、左足を上にして長い足を組む。動きに合わせて露わになった左足首には、幾重にも巻かれた白い包帯が見えた。

「一週間程度は様子見だそうです」

「知っている」

「痛いです」

「うるさい」

 知っている、と。億劫そうに彼は答えた。

 あの小六の夏以来、彼とは良く会うようになった。良くと言っても、それは半年に一度ほど、この総合病院においてだけの事だ。

 私と彼は、同時に同じ場所に同じ怪我をするようになった。

 同じ場所に同じ怪我、というのは初対面の時から気付いていたが、珍しい偶然程度に考えていた。しかし何度目に会った時だったか、戯れで「警官は怪我が多くて大変ですね」と言った事があった。彼はお前ほどではないと言い返して、そんな怪我の頻度の話から、お互いがほぼ同時に怪我をしていたという事が発覚したのだ。それは日付だけではなく、時刻的にもほとんど同時であった。

 傍迷惑な偶然もあったものだと言ってはみたが、かれこれ五年、計十回も続けばそれは偶然とは呼べないだろう。かと言って何の必然なのか見当も付かないままに、私達はこの奇妙な関係を続けている。私はもう高校に通う歳だし、彼に至っては立派な新米警官だ。新米を立派と言えるのかは微妙な話であるが、少なくともあの角刈りもどきについては、警察学校の規定という事で謎が解けた。

 一方でこんなに長い付き合いになるとは予想外で、完全にタイミングを逃した私達は、名前を教え合ってすらいない。私が彼の名を知っているのは、以前彼が落とした領収書を盗み見たからだし、彼が私の名前を知っているかどうかについては私の預かり知らぬ所だった。まあ私と彼はよく似ていて、かつ一枚上手なのは彼の方だ。言及しないだけで多分把握はしているのだろう。

 ぽーん、と音がして、モニターに映る番号が更新される。新たに表示された呼び出しの番号には彼のものも含まれていたらしく、二人で同時に席を立った。

 怪我は見た目ほど酷くなく、何とか立てるし歩けるのだが、右足と同じように体重を掛けると流石に痛む。同じように重心を傾けた成人男性と女子高生が並んで会計をしている様は、端から見ればさぞや滑稽だろう。

 ほぼ同時に会計を済ませ、互いに顔を見合わせる。察するに、二人とも薬の処方は無いようだ。

 彼がぼそりと口を開く。

「昼飯は」

 私はそれに端的に応じる。

「いえ、まだ」

 少し考える振りをしてから、彼はこれまた端的な誘いを口にした。

「――行くか。」

「はい」

 私は考えずに答えた。


***


「ラーメン二つとギョーザ、あと半チャーハン」

 病院を出て向かったのは、あの日私が轢かれかけた道路の向こう側。彼が煙草を買った自販機のある中華屋だった。

 いつからだったか、私達は病院での用が済むとこの中華屋で食事を共にするのが恒例になっていた。恒例とは言え、お互い次の予定が詰まっている時は簡単にご破算になる程度のものだ。

 そう待たずに品物が出て来た。私はあまり綺麗には割れない割り箸を彼に渡し、彼は餃子の皿を少しこちらへ押しやった。五つ並んだ餃子の内、二つは私の取り分だ。対して会計はいつも五百円だけ私が払い、残りは彼が持つ。お互いの顔を立てた結果の取り決めだった。

 私は猫舌であるので、すぐには料理に手を付けられない。餃子を取り皿に取って、半分に割って、酢醤油をかけて。その最中にちらりと向かいを窺えば、元来他人を気にする性質でもなさそうな彼は、特に表情を変えるでもなく黙々とラーメンを啜っている。彼の人間らしい様子を目にしていると、何故だか少し安心した。

 先に食べ終えたのは当然ながら彼の方で、その時点で私はまだ半分近くを残していた。いつもの事なので気まずさこそ無いものの、彼がちらりと腕時計を窺ったのには気が付いた。席を立たなかった所を見るに、時間はあるが手持ち無沙汰、といった所だろう。退屈そうな彼に話題を提供すべく、私は口を開く。

「そう言えば」

 思えば自分でも、どうしてそんな事を口走ったのか。後から思い返してみても、理由になりそうなものなど何一つ無い。

 ただ、それが一つの切っ掛けで転換点だったことだけは確かだ。

「この間、所謂告白というものをされました」

 彼がこちらを見る。朝の星座占いで最下位を告げられた時程度には意外そうな顔をしていた。

「物好きも居たものだな。知っている奴か?」

「普通知らない人から告白はされません。いえ失礼、貴方なら普通にありそうです」

 普通にも色々ありますし。皮肉半分でそう言えば、整った眉が露骨に顰められた。その反応に満足して、私は話を先へ進める。

「クラスメイトですよ。時々成り行きで話す程度の、それ以上でも以下でもない、ただのクラスメイト」

「それがどうして」

「『端的に言って、興味を持った』――んだ、そうです」

 私は件の男子生徒の言葉をなぞる。

「放課後に呼び止められて、教室に誰も居なくなるまで世間話をして、そこでそう言われました」

 もう少し、お前の事を知ってみたいから。

 良ければ、付き合ってくれないか。

 お茶か何かの話かと、一瞬本気で誤解した私をどうか責めないで貰いたい。それはそのくらいには唐突で、そして降って湧いたような「提案」だったのだ。

「それで、お前は?」

 彼が先を促す。聞きたそうなのか興味が無いのか、今一つ分かり辛い顔色だ。私は答える。

「私が文芸部だという話は前にしましたよね」

「ああ」

「その部誌を渡しました。私に興味があるのなら、私が書いたものを読んでみれば良い、そう言って」

 言外に含み伝えた事については触れないでおく。

私の書いたものを読んでみれば良い。

きっと、つまらないから、と。

「それはまた、酷なことを」

 しかし意外にも、彼はくつくつと笑って見せた。その笑いはどこか皮肉っぽく、同時に自嘲めいてもいた。

「貴様、その男を苛めたかっただけだろう」

 その言葉に、ざわり、と全身が粟立った。

「……苛めるだなんて、そんな」

 そんなつもりは、無かった、筈だ。

 彼がただのクラスメイトだというのは真実本当で、私は彼の事を好きでこそなかったが嫌いでもなかった。そのはずだ。

 そのはずなのに、どうして、こうも。

 私は焦っているのだろうか。

 彼は私にそれ以上の反論を許さず畳み掛ける。

「お前は、自分とその男との違いを突き付けたかったんだろう? お前の書いたものは、お前自身の表れだ。それを否定されることで、優劣ではない純然たる違いを、決して埋まらないであろうその差異を、見せつけたかっただけだろう」

 確信に満ちたその言葉に対して、最早私に反論の余地などなかった。

 ――きっと、つまらないだろうから。

 それは、つまりそういう事だ。

「……何故?」

 言い訳のように発した私の問いに、彼はこちらから視線を外す。その目はどこか遠くを捉え、その表情は不遜な笑みで。ただし、その目は笑っていなかった。

「身に覚えがあるからだ。」

 それは確固たる答えだった。

 私は何と答えて良いか分からず、言葉を探す事も出来ず、ただただ沈黙を返した。

 そこで話は終わり――と思っていたのだが。

 意外にも、彼が先を促してきた。それも、明日の天気を訊ねるくらいの気安さで。

「で、奴は何と。思惑通り諦めてくれたのか」

「どう、思います?」

 彼の指摘に打ちのめされてしまった私は、下からそっと窺ってみる。

「素直に諦めてくれたなら、貴様はこんな話をしない」

「……そうですね」

 読まれている、というよりも、ここは行動パターンの一致と見るべきだろう。それでも何だかやるせなくて、一つ溜息が出た。

何にせよ、始めた話は終わらせる必要がある。私は溜息の反動で息を吸うと、一気に話をオチまで持っていく。

「それから三日くらいは何も、特別会話する事さえなかったのですが。突然話がしたいともう一度呼び出されました。『ゆっくり話が出来る場所を教えて欲しい』とも」

 そうして連れて行った私のお気に入りの喫茶店は、彼には馴染みの無い場所だったらしい。随分そわそわしていたのを良く覚えている。彼がようやく本題に入れたのは、紅茶をティーポット一杯空けてからの事だった。

「彼に言われました。『悪かった』、『お前の言いたい事は多分分かったと思う』、それから」


「『友達になって欲しい』、と」


 彼は今度は何も言わなかった。それはそうだ、あの時私も何も言えなかったのだから。そう思う一方、彼が何か提示してはくれないかと、期待している自分も居る。彼の沈黙は、思う所あってのもののようにも感じられた。

 結局彼はそうか、と漏らしただけで、その会話は終わりになった。私は残ったラーメンを急いで啜った。退屈しのぎにこんな話を振った事を酷く後悔していた。こんなにも居心地が悪かった事は無い。ラーメンに味が無かった事もだ。

そうして二人して無言で席を立ち、いざ会計へ向かおうという時。

彼は小さく、その男、と呟いた。

「付き合わなくとも捕まえておけ。良い男だ」

「……そう、ですか?」

 唐突な進言に、戸惑いながら聞き返す。

「ああ」

 彼が頷いて続けた言葉は、苦いものを含んでいた。

「都合の良い男だ。」


 ***


「御馳走様でした」

 店を出た所で一礼すると、彼はああ、と小さく答える。

「では、私はこれで失礼します」

 私は彼を見上げて言う。彼は煙草に火を点けながら、こちらを見もせずに頷いた。

「出来れば二度と会いたくないがな」

「同感です」

 それが決まって私達の別れの挨拶だった。

不幸な事に、その望みは未だ現実になっていない。



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傷み 鈴久育 @wrt_schell

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