第6話 こんにちは

「こんにちは、優太さん」


 金曜2限。優太と優子が知り合ってからちょうど1週間。

 講義室の後ろのドアから入った優太は、先週と同じ窓際の前から3列目の席へと向かおうとして、はたと立ち止まった。


 そこにはすでに一人の女の子が座っていた。


 春の陽光に照らされて輝くマロン色の髪。

 小柄ながらもすらりと延びた背筋。


――更科優子。


 その後ろ姿の正体を認識し、優太はまごついた。

 先週一度会話をしたばかりの、しかも異性で他学部で後輩という一見何の接点もない優子の隣に座るべきなのか逡巡して、はた迷惑にも出入り口付近で立ち往生する優太。


――しかし。


「来週から一緒にこの講義、受けてくれませんか?」

「……まあ、俺でよければ」

「ありがとうございます……!」


 1週間前の、あの時。

 優子の、不安げな顔から一変した満面の笑みが思い出される。

 あの日、脳裏に焼き付いた残像が。


 それがきっかけだったのだろうか。

 優太は意を決して彼女の隣の席へと向かっていった。


 そうやって優子の元へ近づいたことで、優太は彼女が本を読んでいることに気づく。

 その姿はいかにもさまになっていて――彼女の邪魔をしないよう、優太は空いていた左の席へと静かに腰かけた。

 すると。


「あっ」


 その気配を察したのだろうか。

 優子が慌てて文庫本を閉じ、彼女にとっての左隣――優太の方へと視線を向ける。


 二人の目が、合った。


「……こんにちは」


 しおりも挟まずに本を閉じたけど大丈夫だろうか、驚かせてしまっただろうか――いや、そもそもこの席に座ること自体が大丈夫だっただろうか――と思考が散らばる中、優太はかろうじて挨拶をする。


 その、優太の精一杯の一言に対して。


「こんにちは、優太さん」


 ほんのりと頬を染めて、嬉しそうな、そしてどこかホッとしたような微笑みで優子は優太を迎え入れた。


 優太の脳裏に焼き付いた残像は、まだ消えそうにない。



    ◇



 講義が始まった。配布された資料を元に先生は話を進めていく。

 優子にとっては、初めての本格的な文学部の講義である。

 先生の話を耳に入れながら、優子は本人に気取られないよう、自分の左隣に座る男の人を盗み見た。


――桐嶋優太。


 今時の大学生にしては珍しい黒髪ショート。

 くせ毛なのか毛先が緩やかにウェーブする柔らかそうな髪質。

 前髪が長く、普段はあまり見えない目元を横から眺めたことで優子はあることに気づく。


 ……まつげ、長いなあ。


 元々男性にしては肌が白く、線も細くて中性的な顔立ちの優太だったが、その事実を知ったことで優子は改めてこんなことを考えていた。


 なんだか、かわいい。年上の男の人に対して失礼かもしれないけど。


 優子は初対面の人と話をするのが苦手だ。正確には、相手の自分に対する印象や感情、それに付随する態度に敏感になってしまうのだ。

 そしてそれが初対面の相手ともなると特に、ちょっとした失敗が「更科優子」という人間への悪印象につながってしまう。

 優子はそれを恐れていた。


 だから初めて話しかけたときには人当たりの良さそうな笑顔を浮かべていた優太が、一変してつっけんどんな返答をしてきたとき、優子はサーッと血の気が引いていくのを感じていた。


 何を間違ったのだろう。笑顔で話しかけたつもりだったけれど、どこか態度が悪かっただろうか。いや、そもそも知らない女に隣に座られるのが本当は嫌だったのかもしれない。それなのに自分が無理やり――。


 どうしよう。いったい、どうしたら。


 そうやって優子が何も言えずに恐怖と焦りに駆られていた、そのとき。


「――どうしました?」


 優太が笑顔で、こう問いかけてくれたのだ。


 きっとそれは、何かを察した優太が気を遣ってくれたという、ただそれだけのことだったのだろうけれど。

 優子は彼のその優しさに救われたのだった。



 その後少しだけ優太と話をして、優子は感じたことがある。


 それは、優太はあまり口数が多い方ではないけれど、おそらく人の感情の変化に敏感で、例えば困っているときにはさりげなくフォローしてくれるような、そんな優しさを持っているということだ。


 しかし正直なところ、優子は今日という日が不安だった。

 なぜなら優太が本当に自分と一緒に講義を受けてくれるのか、自信がなかったからだ。


 優太を疑っていたわけではない。

 疑っていたわけではないけれど、優子には自信がなかった。


 それ故に優子は、講義室に来てひとまず先週と同じ位置に座ったのはいいけれど、そわそわしてじっとしていられない状態だった。


 でもだからといって立ち上がってそこら辺を歩き回るわけにもいかず、とりあえずたまたまカバンの中に入れていた図書館に返却予定の文庫本を取り出した。

 そしてとりあえず中ほどのページを適当に開き、とりあえず文字面を追うことに専念してみる。

 だが予想通りというかなんというか、優子の頭には本の内容なんて一欠片も入ってきやしなかった。


 そうやって同じ行に何度目を通したか分からなくなったころ――優太がやって来て、そっと優子の隣に座ったのだ。


 その事実を把握した途端、優子は意識するより先に手元の本を大急ぎで閉じ、そして改めて彼の顔を見て安心すると同時に言葉では表現しがたいむず痒い気持ちに襲われていた。

 でもそれは決して不快なものではなく、胸がじんわりと温かくなるような、そんな不思議なものだった。


「こんにちは、優太さん」


 だから優子は、隣の席に座ってくれた彼に対して自然と微笑んでいたのだ。

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