第5話 贖罪
※
優太はニンジンが嫌いだった。だから今日の給食で皿に盛られたオレンジ色を見たとき、それだけで込み上げてきた吐き気を抑えるのに必死だった。
「そんな馬鹿な」思わず口にした。「そんな馬鹿な!」
迂闊だった。
優太は毎朝、教室の掲示板に貼ってある「今日の献立」を必ずチェックする。そこには給食のメニューがひと月分まとめて書いてあって、優太はいつもそこに「地雷」がないかを確認するのだ。
例えば、「カレー」という文字を見つけた日には、優太は朝から臨戦態勢に入る。給食のおばちゃんが生み出すごろごろニンジンに対抗すべく、午前中はなるべく水筒のお茶を保守する。そして給食の時間、毎日必ずメニューにある牛乳と自前のお茶のダブル水分で敵を味わう間もなく流し込んでいくのだ。
食べずに済むならそうしたいのだが、優太の通う小学校では給食を食べ終わるまで昼休みに入ってはいけないというルールがある。そして優太は、昼休みに校庭からみんなの楽しそうな声が聞こえる中、教室で一人ニンジンと格闘する寂しさを痛いほどよく知っていた。
低学年の頃、どうしても食べきれなくて教室の床にわざとニンジンを落としたことがある。あたかも箸から滑らせたみたいに、一つ、二つ、三つ、と……。案の定、教室へ様子を見に来た担任の先生からこっぴどく怒られた。
それからはニンジンをいかにして味合わず、かつ昼休みをみんなと校庭で迎えられるよう短時間で処理できるか、それにかけてきた。
それにもかかわらず、だ。
迂闊だった。|
※
「……なんか、ここまで読むとただのニンジン嫌いの小学生・優太くんの奮闘日記みたいな感じだな」
大学から程近いワンルームマンションの一室。六畳一間の中心であぐらをかきながら優太はため息をこぼした。
目の前にあるのは、小さな丸机の上に置かれたパソコンの画面。
そこに優太の書きかけの文章が映し出されていた。
「例えばそれこそ、君の『記憶』を元に物語を書いてみてもいいんじゃないですか?」
今日のその芥川の言葉通り、優太は自分の記憶を元に小説を書き上げようと考えた――はずだったのだが。
「……気が重い」
ぽつりと弱音がこぼれ落ちる。
優太は一つ伸びをして両手を床につき、ぐったりと天井を見上げた。
「忘れてしまいたい記憶」――その一言が優太の頭の中をぐるぐると旋回する。
優太の中の忘れてしまいたい記憶。
それは小学5年生の春の記憶だった。
当時はその記憶を忘れたくて、自分の負った罪から逃れたくて、おかしくなってしまいそうだった。
今でももちろん、その罪を忘れてはいない。忘れてはいけない――そう思っている。
しかし時が経つにつれて少しずつ、優太の中であの春の記憶も罪の意識も、あいまいなものになっていくのは確かだった。
あいまいになって、原型をとどめられなくなって……しかしそれ故にそれらの記憶と意識は得体のしれないものとなって時折優太に襲い掛かってくる。
忘れるな、忘れることを許しはしないと、そう訴えるかのように。
だから優太は、これは一種の贖罪の機会を与えられたのかもしれないと、そう考えていた。
あの春の記憶を引っ張り出して、ありのままの事実を、ありのままの罪を書き起こす。そうして改めてそれらを認識することで、深く胸に刻んでいく。
あいつはきっと、それを望んでいるはずだ、と。
「ひとまず、俺が覚えていること全部、書き出すしかないんだ」
優太は頭を二、三度振ると、再び目の前の画面に向き直った。
これから先、画面の中の「優太」が犯す過ちを思い起こしてあの時の自分を呪いたくなりながら、優太はただただキーボードを叩いていく。
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