第4話 今の俺には、それしかできない
「というわけで、今回のお題は『記憶』でいきましょう。――自由解散!」
文化系サークル棟3階309号室。
文芸部部長・
かくいう優太もそのうちの一人だ。
「芥川部長お疲れさまです」
「ガワちゃんおつかれー」
芥川へねぎらいの言葉をかけながら、一人、また一人と部室から人がいなくなっていく。
8人もいれば手狭になる部室。そこが部長・芥川を中心とした文芸部員たちの活動場所だった。
ちなみに、部長である彼の名前は本名だ。
――芥川治。
まるでかの有名な作家たちを足して2で割ったかのような名前だが、決してペンネームなどではない。
2年前、優太が初めてその名を耳にしたときはてっきり冗談だと思い、さすがは文芸部、ツワモノがいるもんだと妙に関心したものだったが。
優太は机に広げていたノートを閉じ、ふうと一息吐いた。
文芸部の活動として、お題に合わせた小説を一人一作書いて各々持ち寄り、合評会をするのが恒例となっているのだが――。
「記憶、かあ」
「桐嶋くん、何かアイデアは浮かびそうですか?」
一部員の独り言に、優太の目の前に座っていた芥川は優しい声音でそう問いかけてきた。
芥川は、優太と同じ文学部に所属する4年生だ。そのため芥川の方が先輩なのだが、彼は誰に対しても敬語を使う。
それに加えて人を安心させるような、あるいは眠気をも誘うような心地よいバリトンの声に細いシルエット、色白の肌、そして極めつけの眼鏡が、芥川という人間を繊細で物腰柔らかな好青年に引き立てていた。性格はもちろん、それらの特徴を裏切らない温厚さ。
それ故、芥川は文芸部において誰からも慕われる存在だった。
「いや、それがなんというか……。記憶って言われると、やっぱり『失われた記憶を探しに行く!』みたいな冒険ものとか、前世がらみのファンタジーとか、そういうものを想像するんですけど……。俺、そういう特別な世界観を持つ物語を書いたことがなくて」
「確かに、桐嶋くんは現実を舞台にした物語が得意でしたね」
「得意っていうか、なかなか想像を膨らませることができないというか……」
むず痒さを感じた優太は目線を落ち着きなく動かす。
「えっと、だから今回のお題、どうしようかなと思って」
ふむ、と芥川はその華奢な手を顎に添える。
「なるほど、そういうことでしたか。――それならば、別にそこにとらわれる必要はないと思いますよ、桐嶋くん」
芥川は眼鏡の奥の目を柔らかに細める。
「例えばそれこそ、君の『記憶』を元に物語を書いてみてもいいんじゃないですか?」
「……俺の、記憶?」
「はい、そうです。桐嶋くんにとって、覚えていたい記憶、忘れたくない記憶――あるいは、忘れてしまいたい記憶……。どんなものでもいいんですよ。君らしい、とても素敵な物語ができると思いますけどね」
忘れてしまいたい、記憶。
ドクンと鼓動が一つ、優太の胸を締めつけた。
ズシンと鉛になったように、優太の身体が重たくなった。
そうやって黙ったまま動かなくなってしまった彼の様子を見てどう思ったのか、芥川はまあ、と口を開く。
「これを機に新しいジャンルに挑戦するというのも、それはそれで僕は悪くないと思いますけどね。
それでは僕はお先に失礼させていただきます。戸締まり、よろしくお願いしますね」
「えっ、あ……はい」
言われて初めて、部室にはもう自分と芥川以外に誰もいなかったことに優太は気付く。出口へと向かう芥川を呆然と見送る優太。
「桐嶋くん」
芥川によってわずかに開けられた扉の隙間から、サークル棟の廊下の明かりがちらちらと覗いている。いつの間にか陽は沈んでいた。
芥川はその状態のまま優太の方を振り返り、それから柔らかく目を細めた。
「創作で煮詰まったり、何か悩んだりしたときは、遠慮せず僕に相談してくださいね」
では、と芥川は部室を出ていった。
ゆっくりと扉の閉まる音に優太はハッとする。
「……部長にお疲れさまでしたって、言い忘れた」
しんと静まり返った部室では当然ながら誰の反応も返っては来ない。
今日の2限の出来事を思い出す。
あの時も、気付けば周りには自分たちしかいなくなっていた。
ただ違うのは、優太は立ち去る側であったということ。
そして傍らに、優子という存在があったということ。
――取り残されるのは、辛い。
少し前まで賑やかで窮屈だった部室を見回しながら、優太は一人そんなことを考える。
自分にとっての忘れてしまいたい記憶は、忘れてはいけない記憶だ。
だったらそれを、言葉に――文字にするしかない。
今の自分には、それしかできないのだから――。
「……それしか……」
言葉は空中に溶けていく。
優太は感じた肌寒さに身を震わせた。
春の夜は冷たい風に乗って世界を平等に覆っていく。
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