第3話 別にそれでもいいのかもしれない
「ではこれで今日は終わりますので、出席カードを提出してから帰ってください」
講義終了の時刻までまだ1時間弱もある中、2限の講義は例のおじいちゃん先生によってそう締めくくられた。
今日は講義の概要と評価方法について説明がなされただけ。ちなみに評価は出席と学期末のレポートによって決まるらしい。
優太の目の前にあるのは名刺サイズのペラペラの紙。
それを毎回の講義で提出することが出席の確認になるのだが、なんとこの講義では評価のうち50%が出席率によって決まる。
しかもその「出席カード」は先生が枚数を数えず適当に前列の学生に渡し(しかも大量に)、そのまま後列へ回させるため、実際のところ友人同士で協力すれば欠席も出席に変えることができる。
つまり講義を欠席する自分の代わりに、誰かに自分の名前を書いた出席カードを提出してもらうのだが――これを「代(わりに)返(事をする)」という。
少なくとも文学部ではよく見られる光景だ。
もちろん文学部全体がそのゆるさに溺れているわけでもなく、例えば講義終了後に先生のところへ質問をしに行くような学生もいるわけだが。
今も一人、いかにも真面目そうな男子学生がおじいちゃん先生になにやら熱心に質問をしている。
そしてその学生に対して、うんうんと頷きながら朗らかな顔を向けているおじいちゃん先生は、確かにかわいい、かもしれない。
「文学部って、ゆるゆるなんですね」
カードへの記入を終えたらしい女の子が、その紙を見つめながらぽつりと呟く。
「教育学部ではだいたい出席カードが一人ずつ配られるか、もしくは点呼されるかですもん」
「へえ、教育学部の先生たちって、真面目なんですね」
優太は内心、驚いていた。
教育学部の内情に、というわけではない。
いや、それについても多少は驚きを感じているのだが――それ以上に、つい先ほど出会った、それもたまたま隣の席に座っただけの名前も知らない異性とこうも世間話をしているという事実に、だ。
優太は基本的に、あまり自分から人に話しかけることをしない。ましてや見ず知らずの人となるとなおさらだ。
それが今、優太は教育学部の女の子と、まるで講義前の会話と地続きであるかのような自然な流れで言葉を交わしていた。
そしてそのことについて特に不快には感じていない自分に優太は一番驚いていた。
「えっと、それでですね」
「はい」
何がそれでかは分からないが、言葉を続けようとする彼女に対して、優太はなるべく冷たい態度にならないよう気を配りながら先を促す。
「私、他学部ということでただでさえ不安なのに、この講義を受ける知り合いがいなくて……もしよければ、これから一緒にこの講義、受けてくれませんか?」
伏し目がちに尋ねてくるその様子に、優太は一瞬たじろぐ。彼女の臆病な一面をまた垣間見た気がしたからだ。
しかし一方で、まあ確かに知らない環境で半年一人きりは辛いかもとか、そもそも女の子は一人って苦手だよなとか、内心で彼女のことをフォローしようとする自分もいた。
だから優太は、いろんなものに逆らわないことにした。
「……まあ、俺でよければ」
「ありがとうございます……!」
優太が肯定の意を示したと同時に、ぱああっと効果音が聞こえてきそうなほどの満面の笑みが優太の目の前で弾けた。
そしてその顔がなぜだが残像みたいに脳裏に焼き付いて、優太は内心、よく分からないむず痒い気持ちを抑えるのに必死だった。
「私、教育学部2年の更科優子と言います。よろしくお願いします」
「俺は、文学部3年の桐嶋優太。こちらこそよろしく」
なぜかお互いに出席カードを名刺代わりに差し出しながら、自己紹介をする。
「わっ、先輩だったんですね。頼りにしてます」
「いやいや、まあ、そこは適当に」
「なんですかそれ」
セミロングの髪を揺らしながら、彼女はふわりとほほ笑む。
更科優子はよく笑う子だ。
「あと、名前。優太と優子で似てますね。漢字も同じ」
なんだか嬉しいです、と優子は声を弾ませた。
それに対してまたもむず痒い気持ちになるのを抑えながら、優太が何か答えねばと口を開こうとした――ちょうどそのとき。
「あのう、君たち」
微かに聞こえてきたしわがれ声。
「出席カード、出しましたかね?」
そしてどこまでも柔和な顔――おじいちゃん先生だ。
いつの間にか講義室には彼ら以外、誰もいなくなっていた。
「す、すみません」
優太と優子はそろって頭を下げながらカードを手渡し、そのまま急いで廊下まで出る。
急ぐ必要はないのに二人して大慌てなその様子に、やっぱり二人して笑った。
そしてひとしきりそうやった後、優子がすっと姿勢を正して優太に改めて向き直る。
「それでは、来週もまたよろしくお願いします。優太さん」
優太が何か言うのを待つでもなく、優子はパステルカラーのスカートを翻して立ち去っていく。
優太はその場にしばらく立ち尽くしながら、ぼう、と彼女の消えていった道筋を眺めていた。
ああ、これでもうあの先生に顔を覚えられちゃったな。この講義で代返は厳しそうだ。
でも、別にそれでもいいのかもしれない。
柄にもなく浮かんだその言葉に、優太は一人うつむいた。
――たぶん今、誰にも見せられないような顔をしている。
頬に微かな熱を感じながら、優太はそんなことを考えていた。
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