第1章

第2話 ま、た、あ、と、で

「――隣、空いてますか?」


 講義開始時刻の間際、斜め上から聞こえてきた声に優太はハッと顔を上げた。


 声の先にいたのは、セミロングの髪を揺らす一人の女の子。


 毛先が緩やかにカールしたマロン色の髪。どことなく幼さを残した顔。色白の肌。

 平均身長には及ばないであろう少女的なシルエットに、白いブラウスとパステルカラーのスカートが清楚な印象を与えている。

 しかしそんな彼女の人当たりの良さそうな笑顔は、一方で優太にどこか儚さを思わせるものでもあった。


「ああ、どうぞ」


 同じく優太も人当たりの良さそうな笑顔を浮かべながら、自分の右隣の席を示す。


「ありがとうございます」


 女の子は律儀にもそう言って優太の隣にふわりと腰掛けた。

 そこでちょうど講義開始のチャイムが鳴り響くも、先生がやって来る気配はまだない。

 今期一発目から先生が遅刻というゆるさからして、例にもれずこの講義もゆるいのだろう。やはり文学部は期待を裏切らない。


「あの」

「はい?」


 そこで突然の自分への呼びかけに思わずつっけんどんな返答をする優太だったが、右隣から尻込みする気配を感じ、優太は慌てて再び人当たりの良さそうな笑顔を浮かべる。


「どうしました?」


 途端に安堵の表情見せる女の子に、どうも臆病な子だなと内心ため息を吐いた。


「えっと、ここって××の講義であってますよね?」


 不安げにそう尋ねてくる女の子を訝しみながら、優太は首肯する。


「そうですけど」

「よかった……!」


 一瞬にして破顔する彼女。ころころと表情が変わる子だ。


「もう講義が始まる時間なのに先生が来ないし、それなのに誰もそのことを気に留めてないみたいだったから、なんだか不安になって」

「いやいや、文学部の講義って、こんなもんでしょ」

「あ、そうなんですか。やっぱりそこら辺は学部によって違うんですね」


 ここで優太はおや、と首を傾げた。


「……文学部じゃ、ないんですか?」


 そんな優太の問いかけに彼女はこくりと頷いた。


「私、教育学部なんです。他学部の講義を受けるのはこれが初めてだから、ちょっと戸惑っちゃって……。あたふたしてたら講義室に来るのもギリギリになっちゃって、焦りました」


 そう言って恥ずかしそうに笑う彼女の姿を眺めながら、当初は彼女に対して臆病そうだという印象を持っていた優太だったが、その認識を少し改めていた。


 話し出すと意外にすらすらと言葉を並べるし、それに合わせて表情もなめらかに変化する。

 その上彼女の話し方はなんとなく心地よく、相手のペースを気遣うような感じもうかがえる。

 その優しさが臆病そうな印象を与えたのかもしれない。優太はそう結論付ける。


 優太はとある趣味を持つがために、ついつい人の言動を観察してしまう癖があった。


 その時、鷹揚な足音とともに講義室へおじいちゃん先生がゆったりと足を踏み入れてきた。 窓から差し込む春の陽光に照らされ、とても朗らかな顔をしている。


「……かわいい」


 ぼそりと小さな呟きが右隣から聞こえてきて、優太は思わず小さく噴き出した。

 優太のその様子に気付いた女の子は頬を赤らめて再び恥ずかしそうに笑うと、優太に向かって一音一音、ゆっくりとこう囁いた。



「ま、た、あ、と、で」



 4月、今期初めての金曜2限はこうして始まった。

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