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 ゆっくりと意識が戻った時、最初に眼に飛び込んできたのは青い布地とボタンだった。

 パイロットの着用する船内活動ユニフォーム。

 つまり、私の制服だ。

 完全に気を失っていたらしい。

 シートベルトをしていたから涎を垂らすだけで済んだが、もし着用していなかったら無重力の中、壁やスイッチに激突して取り返しのつかないことになっていただろう。

 コクピットは先ほどのパニックぶりが嘘のように静まりかえってる。

 でも所々、異常を知らせる赤いサインが静かに点滅していた。

 マニュアル通りなら、直ちに調査確認しなければならないのだが、その時の私にはとてもそんな気力はなかった。

 だるい。

 頭が痛い。

 おそらくニアミスの際、強烈な衝撃波の横波を食らったのだろう。

 首を痛めていないようなのが不幸中の幸いだ。

 …ニアミス?

 ぼんやりした頭が一気に覚醒する。

 そうだ。

 皆はどうなった?

 母船エメラルドは?

 そして私は、アクエリアスはいまどうなってるんだ?

 窓の外に目を向ける。

 そして私は、今度こそ本当に言葉を失った。


 海王星は姿を消していた。

 母船も。

 いや、見慣れた銀河の瞬きすらも消え失せていた。


 切れかかった蛍光灯のように、薄ぼんやりとチカチカ瞬く暗い虚空の中、前方に一際輝く巨大な虹があった。

 スターボウ。

 相対性理論が生み出す特異現象。

 光速に近づくことにより、自分の真後ろの星の光すら前方に集められ、まるで円形の虹のような姿を形つくる。

 それはこのアクエリアスが、巨大な推進器など搭載してない只の小さな探査挺が、亜光速で飛行している何よりの証拠だった。

 私は完全にパニックに陥ってたのだと思う。

 阿呆みたいに口を開けたまま、身動きとることすらできなかった。

 思考は完全に停止していた。

 訓練された肉体だけが無意識にマイクに手を伸ばしていた。

 右手から伝わる固いプラスチックの感触。

 そうだ。母船に

 母船に報告しなきゃ。

「こちらアクエリアス。エメラルド、応答願います」

 いつもと変わらない文言。

 頭と言うより、舌で覚えてる言葉をいつものように繰り返す。

 タチの悪いドッキリならば、すぐに応答が入る筈だ。

 ボビーやジョディの笑い声と共に。

 よぉマリア、たまげたかい?

 でもモニターから流れ出る音声は全くの無音だった。

 砂嵐のように低いノイズが漂うだけ。

 狂ったように何度も何度も呼び掛けても結果は同じ。

 この挺は母船の交信圏から完全に離脱している。

 半分麻痺した私の頭でも理解していた。

 それが何を意味するのか。

 いずれ必ず訪れる、緩やかな死だ。

 アクエリアスに積んである非常食は、四名の一週間分。

 幸い今は私だけだから、うまく節約すれば1ヶ月はもつだろう。

 逆に言えば1ヶ月しかもたない。

 本当に危機的状況に備えて、アクエリアスには簡易の冷凍睡眠装置も備えてはある。

 誰も試したことはないし、満足に作動するのか極めて疑わしいが。

 ボビーは「こんな棺桶の世話になるくらいなら、拳銃自殺する方がマシだね」 と笑っていた。

 そう。 さすがに拳銃はないけれど、この挺にも“最後の安全装置”がある。

 赤と白のカプセル錠剤。

 服用すれば苦痛もなく逝ける。

 今の私にとって、一番頼りになるのは、今やこのカプセルだけだった。

 飲めば一瞬で楽になれる。

 苦痛も絶望もない世界。

 それは、その時の私にとって耐え難く甘美なものに思えた。

 私が科学者なら、きっとこの状況に大喜びしたことだろう。

 ろくな推進器を持たない探査挺が光速に達するだなんて、まさに人類が初めて体験する奇跡。 解明できたらノーベル賞どころか世紀の大発見だ。

 でも私はパイロットなんだ。

「必ず生きて帰る」

 それが私に与えられた任務。

 それがどんな手を講じても無理だとわかった時、もう私に残されてるものは何もなかった。

 不思議と恐怖はなかった。この仕事を選んだ時から、死は覚悟してる。

 死ぬのは怖くない。

 でも永遠の牢獄の中、絶望と狂気に精神を蝕まれ、ゆっくりと餓死するのだけは御免だ。

 とても耐えられない。

 私はまるで風邪薬か何かのようにカプセルを口に放り込んだ。

 水は…要らないだろう。

 一噛みすればいいだけの話だ。

 それで全てが終わる。

 その時だった。

 それまで無音だったスピーカーが急に喚き出したのは。


「マリア聞こえるか! 応答しろ! マリア!」


 これが彼とのなれそめ。

 そして10日間に渡る奇妙な交流の始まりだった。

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