11:逃走


 




 アレックスが目を覚ますと、そこは柔らかなシーツの上だった。手足を動かそうとする彼だったが、身体は鉛のように重く、一切身動きができない。声を出そうとするが、それすらもできない。

 一服、盛られたか。アレックスは、自身の行動の危うさに、今さらながらに後悔する。


「お目覚めね」


 どこかで聞いた声だ、とアレックスは思う。ひどく懐かしい声だ。


「あと一時間は効いてるわ。まあ、軽い薬だから、心配しないで」


 アレックスの顔を覗き込む女。由美子、と言おうとするが、その声は出ない。


「まさかこのタイミングで警察が内偵に来ていたなんてね。さすがのあたしも驚いたわ。あなたの相方はどうやら、逃げちゃったみたいだけど」


 レイチェルは、アレックスの細い腕を人差し指でなぞる。しかし、彼の感覚は鈍っており、くすぐったさすら感じない。


「積もる話はあるけれど、あたしも色々と忙しいのよ。これから騒がしくなりそうだしね」




 ドリスは「姫」たちを一室に集め、着替えをさせていた。車の手配は済ませてある。


「早くしなさい!」


 デニスはその様子を所在無げに眺めている。ドリスはこれから、彼女らを逃がす気だ。警察の一人はレイチェルが捕まえたが、もう一人が出て行ってしまっている以上、応援を呼ばれるのは目に見えていた。


「あなたのせいよ、デニス」


 それは八つ当たりだ、とデニスは思うが、激高している女に何を言っても通じそうにない。


「せめて協力しなさいよ! 警察に踏み込まれたら終わりだわ! 全部終わるのよ!」


 デニスはドリスの頬を冷たく打つ。


「俺は帰る」


 デニスは部屋を出て、悪態をつきながら廊下を歩いて行く。


「くそっ、くそっ! こっちだって終わりなんだよ!」


 こうなってしまった以上、ドンに申し開きをせねばなるまい。当初はレイチェルの口さえ塞げばどうにかなるはずだと思っていたのだが、この状況ではもはや不可能だ。

 デニスは荒々しく車に乗り込み、本邸へと向かって行った。




 ボスに連絡を取ったマシューは、クレマチスの近くに停めてあった車に乗り込み、動きがあるのを待つ。一台の車が、猛スピードで走り去っていくが、それを追うことはしない。


「アレックス……!」


 アレックスが奥の扉に入り込んで数分後、マシューはサングラスの男たちに取り押さえられそうになった。それを何とかかわして、ここまで逃げてきたのだ。

 本当は今すぐにでも、クレマチスに戻って彼の元へ行きたかった。しかし、ボスの指示は機動課が来るまで待機。もっともな判断だろう、とマシューは思う。

 数分後、一台のバンがクレマチスに入って行く。入り口から出てきたのは、老いた縮れ毛の女性。彼女がドリスか、とマシューは考える。そして、コートを羽織った数人の女性たちが、そのバンへ次々と乗り込んでいく。


「ボス! ドリスはアンドロイドを一人残さず逃がすつもりだ!」

「機動課は間に合わん! 追跡しろ!」


 マシューはバンを追う。運転手は、すぐに追っ手に気付いたのだろう。信号を無視しながら、ネオネーストを駆けていく。

 バンは高速道路に入り、ますますその速度を上げていく。ボスはヘリ部隊を出動させてくれているだろうか、とマシューは思う。たった一人では、追い切れないかもしれない。

 そして、アレックスを思う。どうか無事でいてくれと願う。




 バンの中では、ドリスが運転手にわめいていた。


「もっと速く走れないの!」

「ただでさえ重い荷物を載せてるんだ! これ以上は危険ですぜ!」


 後部座席では、「姫」たちが一切喋らず、顔つきも変えず、ただ座っている。揺れる車内に動じもしない。彼女らがアンドロイドである証だった。


「後ろの奴さえ振り切れば、何とかなるわ! コンテナにこの子たちを隠す!」


 バンが向かっていたのは港の方角だった。ドリスはこういう事態に備えていたのだ。

 「姫」たちを失えば、自分はどうなってしまうのだろう。ドリスは震える。デニスがアンドロイド性愛者であるように、彼女もアンドロイドしか愛せない人間だった。




 ドリスは、クレマチスを開業した当初のことを思い返す。

 きっかけは、以前経営していた娼館が潰れたことだった。ドリスは雇っていた女性たちを、娘のように扱っていた。

 しかし、裏切られたのだ。愛しいはずの娘たちは、揃ってドリスの財産を持ち逃げし、そのまま戻ってこなかった。

 財産も従業員も失ったドリスには、借金以外はもう何も残っていなかった。そんなとき、デニスに出会ったのだ。


「アンドロイドなら、君を裏切ることはない。君を本当の母のように、慕ってくれるさ」


 まさしく甘言だった。しかし、ドリスはそれに抗えなかった。

 自分を決して欺くことのない、アンドロイドという存在。初めての「姫」を迎えたとき、ドリスは満ち溢れた気分になった。これこそが、自分が望んでいた「家族」の形なのだと。




「あいつ、まだついてきてやがる!」


 運転手は叫ぶ。そして、彼らはヘリの音が近づいてきているのに気づく。


「どうにかしなさい!」


 ドリスが声を上げた直後――バンは横転した。

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