08:過去の女
落ち着いたイタリアンの店で、サム、アレックス、マシューはワインを酌み交わす。ナポリタンの旨い店だ。しかし、サムには酒の味も料理の味も頭に入ってこない。
「それで、誰なんですか? 写真の女性は。ノアとアレックスが知っている人物なんですか?」
「まあまあ、落ち着きなよ、サム。順を追って話すからさ」
珍しく冷静さを欠いているサムをたしなめ、アレックスは語りだす。
「私もノアも、ソレル研究所の出身だってことは知ってるよね?」
「ええ。もちろんです」
「あそこね、できるだけ同じ国の出身者でクラス分けがされるんだ。同郷だと、安心でしょ?日本人は日本人同士、ってわけ」
サムはそのことを知らなかったが、ちぐさがノアのことを兄と慕っている様子から、容易にその事情を呑み込めた。
「だから私もね、ノアとは大きくなるまでちゃんと話したことなかったんだ。ノア――達也と、由美子たちとはね」
由美子。ノアが口にしたことのある名前だ。
「あの二人のことは、恋人同士だと思ってた。いつも一緒に居たし、歳も近かったしね。実際はどうだったのか、当人たちも分かってなかったみたいだけど、それ同然の付き合いをしていたと思う」
アレックスは、マシューが取り分けたチーズをぱくりと口に入れる。
「由美子はね。エンパスだということを隠して、一般企業に入社した。エンパスはね、みんながみんな、オープンにするわけじゃないんだよ。私たちみたいなのが珍しいくらい」
「上手くいったんですか?」
「最初はね。でも、隠していることが重荷になって、由美子はずいぶん悩んでいたみたい。あたしは直接相談を聞いたわけじゃなかったけどね。何もかも、後で聞いたの。由美子が失踪した後に」
失踪。そのことが、写真の女性と繋がる。
「その写真の子、どう見ても由美子なんだ。間違いない。私がそう断言する位だから、彼はもっと確信を持ってる」
「ノアの元恋人が、ジョンソン・ファミリーに……」
「どうしてなんだろう。私にも、わかんないよ。彼女、そんな組織なんかに入るような子じゃないよ」
マシューが手を挙げる。追加のワインが各自のグラスに注がれる。アレックスはそれをくいと飲み干す。
「それで、サムはどうするつもり? ジョンソン・ファミリーからは手を引くの?」
「いいえ、唯一の手がかりです。もう少し詰めてみないと」
「だよねぇ。私とマシューでもそうするわ。ね、マシュー?」
黙々とナポリタンを食べていたマシューは、急に話題を振られて困り顔をする。
「例え知り合いがいようと、それを気にして仕事ができないようでは、いけないと思う」
コホンと咳払いをして、マシューは続ける。
「サム、ノアのケアをしてやれ。早退する位だ、相当動転していたんだろう」
「ええ、そうします」
「連絡取ってみたら? 家に居るんだったら、電話くらいできるだろうし」
サムはノアにメールを送る。すると、ほどなくして、いつものバーで飲んでいるという返信が来る。
「僕、ちょっと行ってきます」
「ああ、そうしてこい。俺はこいつの面倒を見ている」
酔いが回り始め、上機嫌になったアレックスと、顔色の全く変わらないマシューを置いて、サムは駆け出す。
そのバーにはノアしか客が居なかった。時間帯がまだ早いせいだろう。そして、灰皿にはタバコが三本ほど置かれている。
「よう、サム」
いつもの調子で声をかけてくるノアだが、顔つきはどことなく暗いままだ。
「アレックスから聞きました。写真の女性のこと」
「マジかよ。あのお喋り女……いや、野郎か。まあ、聞いたものは仕方ねぇよな」
ノアはふう、とため息を吐く。
「ハッキリ言って、あいつのことはまだ整理がついていなかったんだよ。それがこんな形で居所が分かったんじゃ、どうしようもねえや」
「彼女の事、愛していたんですか?」
「愛していたとか、そんなんじゃねえよ。ただ……大切だった」
酔いが回っているのだろうか。サムは、ノアがいつもより素直だと感じた。
「奴が何も言わずに行方不明になって、初めは、すぐにひょっこり帰ってくるもんだと信じてた。いつもの明るい感じでさ。何事も、無かったかのように」
ノアは続ける。
「もしかして死んだんじゃないか、そうも思ったな。だから、生きていてくれて半分安心したんだ。そうだな、あいつは生きてるんだ。それだけで、充分なのかもしれない」
「彼女に会いたいですか?」
「どうなんだろうな。自分でも分からない。俺じゃ支えきれなかったものを、あいつはマフィアに生きることで発散させた。その事実に、目を背けたいんだ」
それっきり、ノアは口をつぐむ。長い長い間、沈黙が訪れ、グラスの氷がカランと鳴る音だけが響く。それを破ったのは、サムだった。
「ジョンソン・ファミリーとルイスとの繋がりについては、このまま捜査を続けましょう」
「ああ。俺たちは、デッカード部隊だからな」
「気持ちの整理は、まだつけなくてもいいです」
「あれ、そんな事、言っちゃっていいの?」
「ええ。時間をかけるべき事だと思っていますから」
ノアはフッと鼻を鳴らし、グラスに残っていたウイスキーをゆっくりと口に運ぶ。
「ルイスの預金口座をあたろう。巨額の金が入っていたかもしれない」
サムは、心強い相棒に同意し、今日の所はゆっくりと酒を楽しむことにした。
ワンルームのアパートメント。玄関を開けると、出し忘れた燃えるゴミの袋が転がっている。ノアはそれを足で軽く蹴飛ばし、部屋の中に入る。
今夜は思ったより多めに飲んでしまった。ノアはサムと違い、そう酒に強い方ではなかった。
ノアはスーツのまま、ベッドに仰向けになる。このまま眠ってしまいたいが、ジャケットがしわになるため、何としてでも着替えなければならない。
のそのそとジャージに着替えたノアは、冷蔵庫から缶コーヒーを取り出す。そういえばあいつも、このメーカーの缶コーヒーが好きだったな、と思う。
「由美子、か」
その名を呟くと、思い出が鮮やかに蘇り、そして塵のように消えていく。過去の存在になったはずの女性が、ノアの心を締め付けた。
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