花二つ


          2


 用を済ませた桐辰は、同じく用を終えたぼたんと彼女を送る風華と将寿と大門を潜った。潜った瞬間にホッと胸を撫で卸して息を吐く。


 今度こそ、この地獄のような芦原ともしばらくの間お別れだ。

 そうあってほしい。


「それでは姉さん。酒と男は程々に」

「また、その別れ文句かいな。さすがに毎回言われてしもうたら、聞き飽きてきましたわぁ。それに、ウチにとっては酒と男がこの世の生き甲斐なんどす。程々になんかしますかいな。けど……おおきに」

 それが挨拶代わりのいつものやり取りなのだろう。薬箱を背負ったぼたんは一礼すると坂を下っていってしまった。



「ではついでですが、旦那、道中女性にお気をつけくださいな」

 将寿は無感情、無表情に言い放ち、手を払う。

「何なんだそれは!?」

「ユキ兎なりの口説き文句だよ」

「にぃーさーん。『私』怒りますよ」

「いけねぇ、いけねぇ。覇兎ぱとさん怒らせたら、俺ぁ喰われちまう」


(『覇兎』…………?)


 桐辰は将寿の硝子のような青の奥をじっと覗き込んだ。感情を映さない冷たい眼。


(そういえば鎌鼬を喰ったあの夜、ユキの瞳は血に染まったように赤かった)




「何だい? 旦那。アタシの顔に何かついているかい。眉、目、鼻、口以外なら答えても許してあげましょう」

「綺麗な瞳がある」

 桐辰としては素直に感想を述べたつもりだったが、言われた将寿はお気に召さなかったらしく顔をしかめた。

「目はなし。アタシを口説いたところで何も出やしませんぜ」

「男を口説くわけないだろ?」

 真面目に返してやれば、将寿は少しいじけた顔をした。

「あらそう。では、また明日」

 将寿に聞きたいことは色々あったが、ここは大人しく帰るべきだろう。きっと、今、話をきりだしても話してはくれない。


 桐辰はどこかすっきりしない気持ちを抱えたまま芦原を後にした。



          *



 桐辰の背中が見えなくなると、将寿は風華を柳の木まで引っ張って行って、そこに彼を押し付けた。そして、たもとに隠し持っていた苦無を風華の鼻先に突きつける。

 一方の、刃を突きつけられた風華は驚くでもなく、動揺するでもなく、呆れて溜息を吐いた。そして、少しばかり大きすぎる弟分の真っ赤になった顔を見上げる。

「すまねぇ」

「『すまねぇ』で済むもんじゃないですよ! 旦那の前で兎、兎と連呼して……挙げ句には『覇兎』の名まで!」

 普段滅多と見ない将寿の純粋な怒気に気圧された風華は、慌てて両手を上げる。下手をすれば鼻を削がれてしまいそうな勢いだ。

「奴さん生成りだって話だったろ? その上、お前の仕事にも同行したことがあるってぇなら、そりゃあ、自分がどういう者か話してるだろうって思うだろ」

「アタシだってねぇ……自分が妖喰いであることは話しましたよ。それまでです。覇兎のことや『家』のことまでは話せてません」

 将寿は苦無を下ろし袂に引き込めた。

 風華に当たるようなことではない。それは自分でも解っていた。自分が話していなかったのが悪いと。先の一件が終わればそれで仕舞いなのだと思っていた。白勒にはああ言われたが、そうするつもりだったのだ。

 それが、まさか『友』と呼べるとは思わなかった。思えなかった。

「そんなに思い詰めることかねぇ。お前なんか普通にしてる分には白子ってだけでただの人間じゃないか。俺なんか嫌われもんの羅刹だぜ? 従兄弟のせがれがチビん時には目が合うだけで大泣きされ。出会った頃の嫁さんにゃあ殺されかけたわ」

鴛鴦夫婦おしどりふうふが何を言うんです。その上、芸妓の中にも兄さんを慕う者がいるくせに」

 将寿は微笑んだ。

「芸妓は関係ぇないだろ。慕ってるって言っても一人だけだし、それも怪しいもんでい。まぁ、何だ。あの兄さんなら平気だろうよ。お前が例えば……実は全部取っちまってるって言ってもいける口だぜ」

「それはそれで嫌ですよ。誤解を招くようなことは口にしないでくだせぇ」

 将寿は踵を返した。

 すると、風華は将寿の手首を掴んで彼を引き留めた。その爪が将寿の腕に食い込むほどに強く。


 何かをひどく恐れている。


 明らかにおかしいと感じた将寿は振り返った。すると、大門の方を見て目を見開く風華がいた。彼は、将寿の腕を掴んでいない左手で大門を指す。その指先が小刻みに震えていた。


「百夜通いの芍薬……」


 そう、小さく呟いた。

 風華の指の指す方に視線をやれば、確かに、大輪の花を咲かせた芍薬が大門の脇に一本だけ置かれていた。初夏に咲くはずの花が冬にさしかかろうとしているこの時期に。


 けれど、何も震えるほど恐ろしくもなければ、別段、驚くことでもない。細工花か花にまつわる妖の仕業か、はたまた、神仙の落とし物か。深く考えることをしなければ、それで納得がいく。


 その程度のこと。


 だが、風華はその花を恐れているようだった。何の変哲もない真っ赤な芍薬の花を。

「……あと一本だ」

「えっ?」

「あと三本。三夜通う内に持ってくれば、百夜通い《ももよかよい》が終わるところだった。だから、あれは昨日の一本と合わせて二本。あと一本ってことだ」


 風華の言葉の意味を将寿が知るのにそれほど時間はかからなかった。

 間もなく、二人目の首のない仏が見つかった。



     *     *     *



《百夜や》


 ――えっ?


《ウチ、百夜かけて花に芍薬を持ってきたる》


 ――当てつけだすか? やめてくれなはれ。


《ちゃう。ウチの精一杯の誠意や》


 ――そんなもんもろたところで、俺は嬢さんのもんにならしまへん。


《ええんや。あんたが好いとるんがウチやないことくらい解っとる》


 ――せやったら……。


《それでも、一日だけでもええからウチのことだけを見て欲しいんだす》


 ――約束はできまへん。それでもええんやったら、好きにやっておくれやす。



 安請け合いだったと後に後悔しても、もう、遅かった。


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