1 褪せぬ花ありて
比丘尼
1
男は息を潜めて、一心に朱塗りの格子を見つめることに徹していた。もう、心は地蔵になった。何が起きようとも動じない自信がある。このまま悟りだって開けるだろう。ああそうだ、
「お侍様、どうしはりましたのや?」
そう尋ねる尼僧が目の前にいようとも、顔を至近距離につき合わせていようも、無問題だ。そもそも、彼女は澄んだ声こそ美しく女であったが、顔の上半分は頭巾に隠れて見えておらず、目元など布で覆われていて形が判らない。体型もまた然り。問題はない――
――否、問題大ありである。
女の匂いは誤魔化しようがない。
「に、尼僧が気安く、お、お、男に近づくものではないだろ!?」
「ウチは客を取って寝る方の
「ひぃぃい!」
草薙桐辰は情けない悲鳴を上げて、これまた情けないことに傍で筆をとっていた将寿―今日は更紗紋様の小紋を着ている―にしがみついた。肩を掴めば、彼は怪訝そうな顔を桐辰へと向ける。しかし、今の桐辰にとってはそんなこと、蚊ほども気にならない。それよりも、嬉々としてにじり寄る女が恐ろしい。
「旦那。お侍が情けない声をお出しでないよ。小史はこうなるんじゃないよ」
「あい」
乳鉢で将寿に言われたままに
そんな小史に今更ながら気付いた桐辰は慌てて将寿の方から手を離した。
「ぼたん姉さんも、油売って薬売ってくれないなら、贔屓にするのはやめにしやすよ」
「そない連れへんこと、言わんとってぇな。ほれ、いつもの漢薬に
「そういうことなら」
白丸屋は将寿が馴染みの菓子問屋で京からの下りの品も扱っている大店である。桐辰は口にしたことがなかったが、大の甘党であると自称する将寿が白丸屋の金平糖を幸せそうに口に含むのをつい先日、目にしていた。
将寿はぼたんから薬包紙と懐紙で包んだ和三盆を受け取って、それを懐へと入れる。そして、代わりに金子を
「おおきに」
ぼたんは口元に笑みを浮かべた。
「ユキ。今更だが、此方の尼僧は……?」
「アタシが薬を用立てて貰っている
すると、彼女は「まぁ」っとわざとらしく声を上げ袂を引き寄せ口元を隠した。
「イヤやわぁ、人聞きの悪い」
「本当のことを言ったまで」
「ふふふ。まぁ、ええどす。ウチかて疾うに枯れ果てた花や。こんなお婆に姉さん言うてくれはるだけ有り難い話やわ」
ぼたんは随分と年寄りめいた物言いをする。というよりも、自分がまるで年嵩のように話す。
そのことに桐辰が首を傾げていると、将寿が脇を小突いてきた。
「何だ?」
「何だじゃありやせんよ、旦那。わざわざアタシの処まで持て余せに来れるほどお役所も暇じゃあないでしょう。って事は、何やらまた、厄介で面倒な事件の話を持ってきたんでしょうが。話だけは聞いてやるから、さっさと話しておくれ。アタシだって暇じゃあないんだからね」
将寿の言う通り。またもやこの柳町で不穏な事件が発生していた。
桐辰は居住まいを正すと将寿に目配せし、後の二人の退出を求める。
「ん? 市井の者に聞かれてはまずいことでもおありなので?」
「否、そういうことではないが……子供と女人に聞かせられる話でないというか、なんというか……」
もごもごと歯切れの悪い言葉を紡ぐ桐辰に将寿はいかにもわざとらしい溜息を吐く。その隣では小史が笑み、ぼたんは愉快愉快と声をあげて笑った。何が何だか解らない桐辰はぽかんと口を開けるばかり。
「小史はこの成りだが子供じゃあない。とっくに前髪卸してやすぜ」
「あい。あっしは俗に言う『座敷童』でありやして、柄は小せぇですが今年で十八になりやす」
「えっ……と。もしかして、君は『妖』なのか?」
「あい。由緒正しき血統の『妖』です」
「そう、か」
「見た目で人は判断できない。旦那だってよくご存じのはずでしょう。まぁ、姉さんは喜ぶでしょうけど」
そして、こちらも……。
「ふふふ。褪せぬ花とはよう言われますけんど、月のもんも来やんようなった婆やよ。ちょっとやそっとの下世話な話に顔しかめるような生娘やあらへんよって、気ぃ使わんといたってや」
……ただの人にあらず。
生娘でないことは聞いたので知っているとは言えず。それを抜いても、せいぜい二十と少しにしか見えなかった。
「許容できん」
これにつきる。
兎に角、二人がこの部屋から出ていく気がないことだけは確かだ。桐辰は諦めて事の子細を話し始めた。
* *
一昨日の夜のこと。『首』のない仏が見つかった。
その仏は町一番の佳人と評判の看板娘だったそうだ。だが、自慢の黒髪も林檎のように赤い唇も、彼女の『顔』を語るものがなくなっていた。彼女は名の知れた大店の一人娘で、普段は女中が傍にいる。夜中に一人で
その身辺をまず洗ったが、綺麗に真っ白。恨まれることもしていなければやましいことなど一つも見つからなかった。
それが首を見事に一太刀で斬られて死んでいたのだ。
その切り口は鮮やか。他に大きな外傷もなく擦り傷も後から付いたもので、死因は明らかに斬首。そして、切られた『首』はその場から持ち去られていた。犯行目的は娘の『命』ではなく『顔』だったのだろうと奉行所は結論を出した。
偶々、下手人と思われる人間とすれ違った者―近くの長屋に住む男だった―がいて、彼が言うには染衣に頭巾を被り雨でもないのに蛇の目の傘をさしていたらしい。そして、血で真っ赤に染まった風呂敷を大層大事そうに抱えて持っていたのだという。
その女が下手人で間違いはないだろうと調べて回ったがその尻尾どころか陰すら掴む事ができていない。男も顔まではよく見ることができていないと言い、口はあったが鼻はなかったように思うだの、目だけがなかっただのと定まらない証言していた。
「――取り敢えず、旦那がアタシじゃなくって姉さんの方に話があって来たって事は判ったよ。本人に直接聞く前にアタシに人となりを聞いておこうとか、そういう魂胆だったんだろ? まぁ、都合よくというか間のいいことにアタシが姉さんを呼びつけてたわけだけどね」
窓の桟に腰を下ろした将寿は手にした煙管を桐辰へと向ける。その横で煙草盆を膝前に置いた小史が控える。
「何や、ウチを疑うてはったん? 堪忍してぇな。ウチがそないな事するような人間に見えますのんか?」
桐辰は首を振る。
「念の為。この辺りでその特徴に当てはまるのが貴女だけだったというだけの話だ。もう、隠す必要もないので聞くが、一昨日の夜は何処で何を?」
「一応、やんね?」
「ああ」
桐辰は頷いた。
「一昨日やったら……」
ぼたんが思い出せずに考え込むところ、部屋の襖が開いて一人の男が顔を出した。
「俺が座敷にぼたんを呼んだ日だよ」
「あら、お花ちゃん!」
突然、会話に飛び込んできた男を確認するやいなや、ぼたんは手を叩いて喜んだ。
鴇色の着流しに弁柄の羽織りの小柄な男。白髪を隠すように鴬の襟巻きを頭に巻いている。
かがちの様に赤い彼の瞳が桐辰に向けられたが、直ぐにぼたんへと戻された。
「俺ぁ、
「あ、ああ」
風華は部屋に入ると桐辰の真正面――つまり、彼とぼたんの間にできた広すぎる間を埋めるようにして座った。
「その夜は乾物問屋の
「そうでしたね。アタシもその日は他の座敷にいて、お花兄さんとぼたん姉さんが連れ立って出て行くのを見た覚えが」
将寿も頷き同意する。
「うんうん。俺ぁ、風華だ」
ひきつった笑顔で訂正を入れる風華。
「つまり、彼女は下手人でないことは証明できたわけだな」
今回の検分もまた、空振りに終わったわけだ。しかし、桐辰も彼女に会った瞬間にそうでないことは判っていたので、後退もなければ前進もしない結果に落ち込むことはなかった。
「そういうこったぁ。で、こっからが本題だ。その尼なぁ、ぼたんを送ってった帰りにすれ違ったぜ」
否、前進したようだ。
「姉さんが間借りしてる長屋を出て直ぐだったかな。何か嫌ぁーな空気がしてよぉ。そしたらその尼さんが前から歩いて来たんでぇ。よく見りゃあ血塗れの風呂敷なんざぁ抱えてるってなりゃ、俺だって早いとこそこから離れてしまおうって思ったさ。けど、そいつはすれ違いざまに声をかけて来やがった。大坂訛にまず足を止めちまった。まぁ、澄んだ綺麗な声でよぉ、染衣とは不釣り合いに若い娘だったさ。それがどういった訳か新町にいた頃の俺を知っていて、会いに来たって言うもんだから、こりゃあ驚いた。それで、ちょいと顔を拝んでやろうってな」
桐辰は身を乗り出す。
「顔は見たのか!?」
「残念ながら拝めてねぇのよ」
肩を落とす桐辰だったが、着物の裾をかすめたくらいには下手人の陰に近づくことができたことは間違いなかった。
将寿は煙の混じった吐息を吐く。
小首を傾げて垂れてきた前髪を耳にかけ、カツンッと、火皿の中の燃えカスを灰吹きに落とした。そのまま、長い指先で転がすように煙管をいじる。
「――妖怪だね」
一言、そう呟きを漏らした。
「何故、そう言いきれる? 前回は、直ぐには肯定しなかったではないか」
そう。
秋口に起こった辻斬り事件の際には、彼は一度、ただの辻斬りとして判断してその可能性を否定していた。それなのに、今回は風華の話一つで肯定した。
信頼度の違いだろうか……。
「おは……風華兄さんが大坂にいらしたのは、もう、七・八十年近く前のことなんですよ。兄さんを知っている人間はぼたん姉さんを除いて、皆とっくに三途の川の向こう岸さ」
「……あ?」
「アレまぁ、気付いてなかったのか。俺ぁ、お役人様と同じ羅刹鬼だよ」
桐辰は一膝下がり、刀の柄に手をかけた。
その言葉を聞くまでは気にならなかった赤い瞳と白髪が、激情を呼び覚まさせる。
血が騒いだ。
熱くなる。
彼は白い髪と紅玉の瞳を睨みつけた。人を食らった羅刹の証であるそれを。母を食らった鬼と同じ彼を。
羅刹は人の血を口にした瞬間に髪が真っ白に脱色し、髪と同じく色素を失った瞳が赤く染まる。日の光を浴びれば皮膚は焼け爛れ、血を飲まなければ喉が灼ける様に渇くのだと聞く。それ故に、狂ったように人の血肉を求める。
戦国の世には戦場に、飢饉の年には川縁に、泰平ならば人里に。それが羅刹という鬼だ。
桐辰は警戒心を剥き出しにする。すると、将寿が二人の間に入ってきて、彼の両頬を掌で挟んだ。
「だーんな、そんな怖い顔をしなさんな。ここにいるのはアタシをここの男衆として仕込んで下さった先輩傘持ち。アタシが堕ちた鬼なんぞに教えを請うとでもお思いかい? そんならとっくに腹の足しにしていやす。兄さんは半羅刹。母親が人であったが為に自然と『血』を口にして育てられた。それだけのことさ」
将寿に頬を揉まれて、そのことに気づいた桐辰は彼の手を掴んで赤面した顔を隠すように前に持ってきた。
「そ、うか……すまなかった」
「事情を知らなければ仕方のないことです。ね? 兄さん」
将寿は後ろを振り返る。
「せやな」
風華は口端を上げた。
それを見て少女の様に微笑んだ将寿は再び桐辰に向き直る。
「旦那、御依頼お引き受けしやしょう。詳しい資料を拝見したいので明日にでも……これ以上はご内密にしたいでしょうし、いつもの茶屋でお待ちしておりますので」
「ありがたい」
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