貳ノ噺 百夜通いの怪

序幕


 小雨降る。

 秋も暮れの雨ともなれば地を踏みしめ濡れた足から体の芯が冷えてくる。昼間ならばまだましだったのだろう。日が落ちればやはり、この季節では底冷えする。

 普段から日除けの傘として使用している蛇の目傘は所々の鑞が薄くなっていて雨が漏れてくるものだから、余計に具合が悪い。着物の濡れた部分から冷えはさらに広まってゆく。


 彼は今し方まで芦原の宴席で二胡にこの音を披露していたのだが、夜見世の終わる大引けには門を出てきた。

 女を買って座敷に泊まるなんてことは、仮にも見世の奉公人の男にはできないこと。こんな事ならば楼主に頼んでくりやの隅にでも寝かせてもらえばよかったのだが、何分、嫌われて部屋を与えてさえ貰えてないのだから無理な話だ。

 男は溜息を吐く。

 この一夜の為に、住み込みの男衆おとこしや遊女達が羨ましいとさえ思った程だ。例え親の借金を背負わされていようと、彼らには居場所がある。




 男は小さく震えた。寒さの為というのもあるが、それとは何か種類が違う。そんな気がして、振り返って辺りを注意深く目を渡らせた。


 が、何もいない。


 気のせいかと前を向けば、一人の小柄な女がこちらへと向かって歩いてるのを認めた。

 染衣に、白の頭巾という尼僧装束。男の持つ蛇の目よりも一回り小さい、倭舞いに使われる傘を手にしている。その上、この雨だというのに何やら大事そうに風呂敷で包んだを小脇に抱えていた。重量があるようで、傘を持ちながらもしっかりと両手で抱え込んでいる。


 暗がりを遠目に見ると、丁度、大きめの西瓜か南瓜くらいの何か。


 中身が気になった男は傘の縁をちょいと前に傾け、女に視線を走らせていることをばれないようにする。そうやって彼は、近づいてくる女の手元をじっと観察してやった。まだ遠くてよく見えない。

 夜目は利くのだが、彼はひどい近眼だったからだ。



      ひた

            ひた

  ひたっ



 女の足音が近くなってくるに従って男は目を細める。



 ひたっ…………



 赤黒く染まった藍染の風呂敷を見た男が目を見張るのと、女が足を止めたのはほぼ同時。男はなるべく動揺を気取られぬようにわざとらしく震えて見せ、「さぶっ」と小さく声を漏らした。

 少々、大袈裟だったかも知れない。

 しかし、こういうことには、人間関わりたくないと思うのが常である。関わってもろくなことにならない。

 彼は当然、足早にその場から離れようとした。しかし――



 

「ほんまに、さぶおますなぁ」


 女は声を発した。身なりからして年嵩かと思っていたが、声の張りがまだ若い女子おなごのものである。

 久しく耳にしていない国の言葉に反応して男は足は無意識のうちに止まる。まずい、と思ったときにはもう遅いことは解っていた。

 開き直って、男は後ろ首掻きながら苦笑を漏らす。

「聞こえてしまいやしたか。しとしと雨だとしても、長雨になりゃこたえますぜ。こんな日にゃぁ外へ出るもんじやぁねぇや。そいじゃあ姉さん、夜道にお気をつけて。失礼しやす」

 他愛もない会話。当たり障りなく切り上げるのにはこれくらいで丁度いい内容。

 いつもならあの手この手を使って女を煽て気分を良くさせ、できるだけ会話を続けようと努力したことだろう。しかし、今は兎に角、一刻も早くこの場を離れたかった。



「はてぇ……あんさん、上方の人間だすやろ?」



 放してはくれなかった。

 そればかりか、暇を告げた男に問いかけを返してきた。

 

「これはまた、ばれてしまいやしたか。こっちへ渡ってきて十年以上。すっかり栄戸の水に染まったと思っていやしたが……いやはや。言葉の癖まで完全には取れないもんでさぁ。時たまこうして、同郷の者に会うこともありやすが、すぅぐ見抜かれちまいやすんでぇ」

 すると、何がおかしかったのか女は笑った。

「言葉やあらしまへん。ウチはよぉ、あんさんのことを知っておますのんや。新町遊郭であんさんほど有名な男衆は、今も昔もおらへんよって。よぉ、知っとります。今日は、あんさんに会いに行こう思て、雨の中歩いてましたんや。まさか、こないな所で会うやなんて思とりまへんでしたけど」

 男は呼吸を止めた。否、止まるかと思った呼吸を何とか続ける。

 女の言葉に驚きはしたものの、確かに、男は大坂新町の人間ならば誰でも知っているほど有名ではあった。だが、そんなことは、遠い昔の話だ。それに、仮に知っていたとしても芦原にいることを知る者はとっくにはずだ。

「本当に、俺にですかい? それなら姉さん、失礼とは承知の上で、ちぃと顔ばかし見せておくんなせぇ。もしかしたら、知った顔かも知れやせん、し――」


 そう言って男は振り返った。振り返らずにはいられなかった。


 しかし、振り返った先には、女の姿はすでになく。代わりに、季節外れの真っ赤な芍薬の花が一輪、湿った地面に寂しげに横たわっていた。




 今ここに、新たな怪奇が幕上げを告げる。



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