2 鎌鼬と少年
辻の柳
1
「鎌鼬って、あの妖怪のか?」
「アヤカシ――『妖』ですよ。鎌鼬は生き物でしょうに」
「御前は明確に区別をしているようだが、どういった違いなんだ?」
雑踏から離れて歩く二人。時折、上の方から遊女が誘ってくる声がする。将寿はそれを袖を振って断るだけ。顔も向けようとはしない。
「妖怪っていうのは人が生み出したものでさぁ。九十九神だとか塗り壁だとかのね……あぁ、一反木綿なんてのもそう。でもねぇ、妖ってのは違う。生きて、知能がある。極めて理知的。例えば、大陸の大妖、神格持ちの
「確かにそうだ。しかし、御前の言い分では、理性がない者は妖怪に分類されるんじゃないのか?」
「旦那が言っているのは闇堕ち《やみおち》した奴らのことですね。闇堕ちってのは、人の血肉を喰らい穢れを背負った妖のこと。奴らは闇を求めて人に憑き、その闇と共に魂を喰らう。そうなってしまった奴らだ。普通の妖はそんな事はしない。人の中で紛れて暮らせないからね。むしろ嫌悪するものなんでさぁ」
遊郭を囲う塀の南側にある大門にさしかかれば、門番の男二人が訝しむように桐辰とその前を走る将寿を睨む。しかし、そんな門番の視線など気にも止めずに、一言「通る」とだけ口にして走り抜けてしまった。門番達に止める隙すら与えなかった。
桐辰も黙ってそれに続く。
しかし、少し進んだところで、将寿は急に将寿は立ち止まった。路傍に立った柳の葉が彼の姿を覆い隠す。
まるで、世界を二分するかのように。
「これより先は妖の領分。ついて来るか否かは旦那次第……どうしやす?」
(つまり、人の入り込める場所ではないと、そういうことか)
桐辰には将寿が、どこか遠いところに立っているように思えた。
闇の中に長く白い陰が佇む。
「俺は……邪魔か?」
「正直ね。来てほしかぁ、ないですよ。来たところで、旦那は殺されて終わりだね」
「そこまで弱くは、ない」
桐辰は拳を握りしめた。
(自分には何もできないというのだろうか?)
事実、何もできないだろう。
それでも、行く意味はある。
「けど、この町を守るのが奉行所の役目。ならば、俺が止めに行かないでどうする」
「旦那、怪我をしてもアタシは知らないよ」
「無論、そのつもりでいる」
風が吹く。
二人を隔てていた柳の枝がそれになびく。向こう側に立った将寿が手招いていた。
「 早く参りましょう。もう……逢魔ケ刻だ」
*
疾走しているにも関わらず息を切らす様子もない将寿に必死でついていっている桐辰は顔をしかめた。
「それで、今はどこに向かっているんだ?」
遊郭の中とは打って変わって、夜の柳町は静まり返っている。日が暮れてしまえば、蝋燭の明かりがもったいないと寝てしまうのが普通だ。それにしても暗い。
普通の人間よりも夜目が利く桐辰だが、それでも暗いと感じている。この闇を走り抜けていく将寿の背中で揺れる銀髪だけが目印だ。だが、彼にそんなものはない。なのに、明かりもなしに迷うことなく進んでいる。
「なに、そんな遠くに向かっている訳じゃあないですよ。三丁目と四丁目の境界線。四つ
三丁目と言えば柳瀬達七組が、四丁目は一組が定廻を担当している区域だった。ちょうど、四つ橋で定廻を終えた二つの班がかち合う。
しかし、この二つが同時刻に見廻ることは珍しい。
「大丈夫だ! 柳瀬達がいる。あいつは、あんななりだがそれなりの使い手だ。辻斬りごときに、やられるわけ――」
「――それが問題なんですよ。あの後輩君を野放しにしていてはいけない。旦那がいないと特にね」
「柳瀬と、鎌鼬が、何か関係しているとでも?」
「えぇ。彼こそが、鎌鼬の正体。鎌鼬に憑かれた人間は柳瀬殿だ」
思考停止。
柳瀬は桐辰の後輩で昔からの顔見知りで、いわゆる幼馴染みだ。
何かあるごとに彼はに桐辰を頼った。ついこの間も、突然家にきたかと思えば、道ばたで鳴いていた子猫を拾ってきたはいいけれど世話ができないなどと相談に来たところだ。桐辰が、自分は羅刹の成り損ないだと話しても、恐がりもしなかったし、見た目で人を判断しなかった。
いつも暢気で素っ頓狂な柳瀬の傍にいると、どこか、落ち着いて話ができた。感情に振り回されることがなかった。たとえ、暴走しかかったとしても、何かお間抜けをやらかして気を逸らさせてくれた。
(そんなあいつが、あいつに限って辻斬りなんて、人殺しなんてあるはずがない)
妖などとは思いたくなかった。
「歩みを止めるな」
静かに、決して強くはないが確かに自分を厳しく叱咤する声が聞こえた。
「アタシは待たないからね」
はっと、我に返る。桐辰は急いで前を走っている将寿の背を追いかけた。
将寿は振り返らない。
「すまない。でも、信じられなくて……」
「それでいいんです。それが普通の反応だ」
「でも……」
桐辰は言いかけて言葉を呑み込んだ。
そして、堪えきれずに吐き出した。
「お前、昼に茶屋で会ったときには判っていると言っていただろ! 何故、判っていて昼のうちに彼奴を止めてくれなかったんだ! 俺にだって、止めることぐらいできたはずだ」
「奴らは狡猾。そして、抜かりがない。正体が明かされた時点で、柳瀬殿を喰らってしまう可能性があった。あの時点で柳瀬殿にアタシが接触するのは危険だったんですよ。旦那が彼に、アタシの事を話しているのを聞いたときは冷や汗ものでした。でも、あの場にいたから柳瀬殿が憑かれていることが判って、仕事も引き受けるきっかけとなったのですがね」
気配もなく近くにいたのはその為か。仕事の依頼を承諾したのもその直ぐ後のことだ。
「やるならば、鎌鼬が油断している時だね。それが、宿主の欲求が満たされた瞬間で、斬ること自体がそれなのだと決めつけていた。アタシは勘違いしていたんです。彼は他の誰でもない、旦那と斬り合うことを目的としていたんだ。闇が一番濃くなるこの日、彼の標的は他でもない旦那ただ一人。貴方が街を守ると言うのであれば、柳瀬殿を救いたいと言うのであれば、その覚悟がおありなのであれば――闇から目を背けるな」
将寿の背中は嫌になるほど真っ直ぐで、迷いなど微塵も感じられない。
「人は誰しも闇を持っている。その事実を忘れるのは、いけないよ。柳瀬殿は心に闇を抱え込んでいたんだ」
夜闇の中。人影のない川沿いの道を走りながら、考えを巡らせる。
(柳瀬の中には何がいたんだろうか?)
権力欲。
征服欲。
飢えた愛を求める欲。
金に溺れたいと願う欲。
自分には無いモノを欲する心。
どれも皆、人を狂わし魅了する魔力を秘めている。自制心をなくした者はこれに飲まれ、自我を暴走させ、ついには滅ぼす。
将寿の背中に目を移す。
あの中にも闇は潜んでいる。
そして柳瀬の中にも。
俯きながら桐辰は、いきなり走るのをやめた将寿にぶつかった。
「――旦那、下がっていてくだせぇ」
将寿は桐辰を手で制し、よろめく彼を脇道に押しやってそう告げた。そして、自分は腰に差した短刀を抜き放ち、脇道から一歩それた。
一際濃い闇に包まれた通りに人影などはなく、生き物の気配はない。が、蠢く黒の固まりの気配を行く手に感じる。
「子鬼は大人しく待っていな」
桐辰が反論する間も、止める間もなく将寿は桐辰が貸した形見の懐刀を手に何かに向かって走り出していた。
気になった桐辰は、将寿の言った忠告などは無視して、抜き身の刀を右手に握りしめ、勢いよく通りに飛び出していった。
「や……柳、瀬?」
目にした光景は桐辰には信じ難いものだった。
将寿が向かっていった先にいたのは、確かに柳瀬本人。しかし、いつもの彼ではなく、つり上がった赤い瞳に狂喜の色を浮かべている。唇は弧を描き、不気味な笑みを浮かべる口端からは滴る赤。いつもは桐辰に倣ってきちんと着ている羽織袴も、今は乱れてしまっている。
「どこに行ってたんですかぁ? セン、パイ。なかなか来ないから、ミンナには先に帰って貰っちゃたぁ。折角だから、センパイが僕に刻まれるところを見て貰おうと思ってたのにぃ。残念だなぁ。余計な『兎』まで連れて来ちゃって」
不自然に上擦った声。
桐辰には柳瀬のものよりも、やや高いような、そんな気がした。記憶にある声と照らし合わせて出した結論なので一概に正しいとは言い切れないが、おそらくはそうだ。
鬼の耳にかけて、柳瀬の声に似てはいるが、これは柳瀬の声ではない。
「旦那! 下がってろって言ったでしょうに! この馬鹿が!」
将寿は地を蹴って、逆刃に持った小刀を振りかざして柳瀬に飛びかかった。その切っ先の流れには躊躇いというものが一切、感じられなかった。首を掻くつもりでいったのだろう。
柳瀬もそれに合わせて反応し、右脇腹付近で刀を構えて、腰をやや低めた。将寿が懐には入るやいなや、重心を左足へと移動させ、脇を閉めた。
ザッ――――!
柳瀬の手にした刀が将寿の首筋に、将寿の手にした短刀の切っ先が柳瀬の胸に、双方共に肌から紙一重といった至近距離に突きつけられている。柳瀬はそんな状況を楽しんでいるようにも見えた。
桐辰は構えを解く。
(どちらに助太刀すればいい?)
動けないでいる桐辰の額には汗が浮かび、口の中は乾ききり、手足どころか体自体が震えている。
止まらない。
情けない。
彼が一連の辻斬りの犯人だと、鎌鼬だと解っている。解っているのに、桐辰は動けなかった。柳町奉行所一組に名を連ねる資格もない。とんだ面汚しではないか。
「それでいいんだよ、桐辰」
心なしか胸が軽くなる言葉。それを紡ぐ将寿の声は柔らかく、緊迫した空気を忘れさせてくれる程に和やかだ。思わず口から息が漏れる程に。
将寿は何とかして刀をかわして、桐辰の横にまで下がってきていた。
「アタシに任せてくださいな」
「将寿……」
ニヤッ。
将寿は目を見開き、柳瀬に勝るとも劣らぬ、不気味な笑みを浮かべた。
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