満ちる月
6
「何故、どうして、お前がこ、こ、ここにいる!?」
呂律が回らない桐辰を、将寿は呆れた目で見返した。
「それはアタシの台詞ですぜ。そっくりそのままお返しいたします、この鶏が。町番はどうしたんだい?」
「否、俺は白勒殿に席を用意したからと無理矢理に行けと命じられてだな。断り切れなくて……暇をもらってきた」
ばつが悪そうにする桐辰。
将寿は輝凰に合図し、少し後ろに下がってもらった。
「わかっていますよ、そんなこたぁ。事前に諸々の段階も踏まずに花魁を座敷に呼ぶなんざ、女将と見知りの白勒にしかできないことだよ。でも、筆おろしに輝凰とは……やりますねぇ」
顔に張り付ける作り笑み。
「だ、黙れ‼ お前の方こそ、その格好はなんなんだ!」
そう言いつつも桐辰は頬を赤く染めている。筆下ろしについて否定するつもりはないらしい。
「妹分の子鶯が風邪、引ぃちまってね。アタシが代わりにお酌いたしましょうか? それとも、舞を一曲? 剣舞曲芸にゃあ、少しばかし覚えがあってね」
「いい。それよりも、この状況を何とかしてくれ」
桐辰は将寿を引き寄せ耳元で囁いた。自分の手を握ってきている彼の手が震えている。
「仕方ないですね……姉さん。すみませんがこの人、アタシが借りていきやす。女将にゃ、いつも通りアタシの賃金から揚げ代を引いてもらうようにしてもらうさ。何、足りない分は依頼料から搾り取ってやりやすよ」
そう言って将寿は桐辰の背を押し、奥の座敷にへと追いやった。
「で、どうするんだい?」
後ろ手に襖を閉める。
そして、こう付け足しておく。
「輝凰姉さん。これから仕事の話をいたしますので、盗み聞きはご遠慮いただきたい」
すると、ガタンと襖が音をたてた。
将寿の憶測通り、盗み聞きしようとしていたらしい。
「どうって?」
桐辰は間の抜けた顔で、聞いてきた。さすがに、将寿も、呆れ果てる。
「旦那は阿呆ですか? それとも本当に鶏なのかい? 輝凰と会うのにいくら払わにゃならねぇと思ってんだい。後できっかり一両二分払ってもらいやすよ」
「多少不本意ではあるが……仕方がない」
「素直でよろしい。で問題は――」
「まだ問題があるのか?」
将寿は肩をすくめる。
「まだ六ツ刻、動くにゃちぃとばかし時間が早い。でも旦那は、ここから一刻でも早く出たいんだろ?」
桐辰が頷いた。
馬鹿正直なのもまた、考え物だ。
「けど私は今、女将の『お願い』で芸妓の銀鷺ということになっているので、ね。このまま出て行くのは忍びないねぇ」
「それはまぁ……申し訳ない事をした」
「良いですぜ。今度、白勒の馬鹿に迷惑料取立の書状をしたためて送りつけてやるんで」
将寿は物欲しげに桐辰を見据えた。
「何だ?」
「取り敢えず、今はこの格好をどうにかしたいんですよ。この格好では大門で止められちまう。この間も取っ捕まって着物をひん剥かれた挙げ句、一刻も足止めを食らわされたんだ。おつむ空っぽの詰め所の同心と会所の奴らに、これ以上の時間を割いてやるなんざ真っ平御免だよ」
「つまり、俺は何をすれば良い?」
「輝凰姉さんに謝っておいて下せぇ。アタシは女将のところに行って断りついでに着物を取って来やすんで」
「待て! ……行くな。頼むからこんな所で俺を一人にしないでくれ」
部屋を出ようとした将寿の着物を桐辰が掴んだ。
「あれま、旦那ったら……大胆」
「そ、そういうことじゃない! 兎に角、一人にするな」
「困ったお人だねぇ。なら――」
将寿は、着物を脱ぎ捨て襦袢姿になると、桐辰に手を出す。
「刀。差してりゃこの格好でも大丈夫だろうさ」
「刀は駄目だ。脇差しもな。でも、懐刀なら貸してやれる」
桐辰は懐から取り出した見事な金細工の施された短刀を自分に出された将寿の手に置いた。
「今となっては唯一、俺と『家』をつなぐものだ」
黒い漆塗りの柄に金泥で細かく描かれた桐と龍。竜の瞳にだけ赤い漆が入っている。刃を抜いてみれば、見事な
将寿はその魔除の龍を指でなぞる。柄の細工も意匠が凝らされている。
「いい品ですね。ずいぶんと値が張りそうだ……お父上殿は何を?」
「言いたくない。だが、その守り刀はお祖母様が先代様――祖父より贈られた品だからな。それなりの物ではある」
「えらく身分の高い方なんですね。あぁっ。だから、奉行所の同心になれたんですね」
将寿が、嫌みったらしい口調で言うと、桐辰は眉間に皺を寄せた。
「実力でないことは否定できない。だが、別に家柄だけで取り立てられたわけでもない……と思いたい」
最後の方は尻つぼみになっていた。
しかし、既に桐辰の話に興味を無くした将寿は彼を無視して窓の障子を開けた。格子戸もはずす。
外はもうすっかり日が暮れていて、空には月が鎮座し、雲の隙間で柔らかく淡い輝きを放っている。
「否定できないときましたか」
「奉行様が後ろ盾してくださっているからというだけのことだからな」
「あらま、面白くない」
「悪かったな」
将寿は一瞬だけ笑みを浮かべた。
着物の裾をたくし上げて腰のところで帯に挟めば、桐辰から借り受けた短刀を帯に直接差す。それから立ち上がると、島田に結い上げていた髪を下ろして、項で一つに縛り直した。
「行きますか、旦那。ちゃんと私の後に付いてきて下さい、ね」
ふと、将寿は桐辰の前から消えた。
桐辰は一瞬驚き目を見開いたが、窓際まで行くと階下を見下ろした。飛び降りたのだろうか。しかし、座敷があるのは建物の二階。
当の飛び降りた将寿はケロッとした表情で着地していた。
「旦那ぁ、お早く」
「早くって……この高さを飛び降りられる訳ないだろ」
すると、将寿は自分をさして、できるじゃないかと言うような表情で桐辰を見上げている。
「ぐずぐずしているのでしたら、置いていきやすよ。アタシ、待たされるのは嫌いなんですよ」
「……いいよ……解ったから、そこ退いてろ!」
桐辰は窓の桟に立つと、下を確かめることもなく、勢いよく飛び降りた。目を瞑って。
で、飛んだまではよかったのだが、どうやって着地すればいいのかさっぱり見当が付かない。将寿がどうやって、何もなかったかのような顔で立っていられているのかを問い質してやりたかった。是非とも、教えていただきたい。
と、心の中で喚くうちに――
ドサッ……。
お約束通りに、足からではなく腰から着地。
「大丈夫かーい、旦那?」
将寿は妙に間延びはしているが一応は心配する台詞を吐いた。だが、言葉とは裏腹に桐辰の顔を無表情で覗き込んで口端を上げている。桐辰は腰をさすりながら将寿を恨めしげに見上げた。
よろつきながらも立ち上がり、尻に付いた土を払い落とす。
「常識で考えて、こんな高さから飛び降りりゃ、余程頑丈でなけりゃあ死んでるところだ! それでも、こうなるのが普通なのに御前の体はどうなってやがる」
「どうって……一寸した技術力の差ですよ。旦那の方こそ、回復早いですね」
「俺は他より頑丈にできてるんだよ」
お互い徒人にあらず。
言い合ったところで仕方がないので、二人は取り敢えず店の敷地内から出る。裏庭をこそこそしながら抜けて、裏門を開けて店の裏道に出た。
「輝凰姉さんと女将には悪いですが、ここは何も言わずに急ぐとしましょうか」
「すまないが、そうさせていただこう……どうした?」
目を凝らして東の空に昇りかけた月を見て顔を顰めた将寿。
「まだ夜も暮れ始めたばかりだというのに、かかる闇が思っていたよりも濃いんだよ。月の光がこんなに強まっているなんて。まだ完全な満月になるまで時間があるというのに、陰が強くなっているんです。早く彼を探さないと、次の被害者がでてしまう」
月は陰の象徴。
その満ち欠けによって妖の力も強まり、また弱まる。光が弱ければその影響は小さいが、強ければ顕著にその影響がでる。単なる明度の問題ではない。それならば、今日の月は空気が澄んでいる分、特別明るい部類に入るだろう。だからと言って、それが影響しているわけでもない。
満月の夜には、足下に落ちる陰は色が濃くなる。満月でもないのに……足下に広がる冥闇。どっぷりと、深い深い冥がりへと続く陰。
二人は走り出した。と言うよりも、将寿が突然走り出したので、自然、桐辰は走るほかなかった。意外と、速い。桐辰も速い方だとは思っているが、ついていくのがやっとである。
「探すって何を?」
――一連の辻斬りの下手人、
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