銀鷺

          5


 将寿はその背を見送ることもせずに反対方向へと、自分も歩み始めた。


(あっ…………)


 自分は人だと訂正を入れるのを忘れていた。だが、それは別に後でもいいことか。それよりも。



 将寿は、苦笑した。

 自分の身の上を簡単にだったとはいえ、知り合って間もないような男に話すなんて考えてもみなかった。しかし、正体まで明かしてやる気はない。今は、まだ。

 とは言え、別に桐辰にばれようがばれまいがどうだっていい。ただ、からかう相手がいなくなってしまうのではと考えるとなぜだか、寂しく感じてしまう。

 

 蜂が花に寄せられるように、未知なるものに関心がよるように、男が女に言い寄るように。憧れや、好奇心。そういうものに似ているこの感情。


 女共はただ将寿が他の男よりも綺麗だからと、金が欲しいからと、そんな理由で寄ってくる。詰まらないものだ。

 だから、本当に、心から人を愛したのなんてただの一度だけ。その相手は気持ちに気づいてもくれなかった。今でも彼女だけを愛しているが、もう、思いを告げるつもりもなければ、ただの、でしかない。


 それ以来か。

 他人に何か執着心を抱かなくなったのは。



 女は遊び相手。


 客は商売相手。


 それだけのものだ。



 桐辰もそれだけのもののはずだった――



 


「よぉ! ユキ、久しぶりだな!」

「げっ、白勒……」

 手前から、将寿の向かおうとしている芦原遊郭から親しげに、友に話しかけているかのように手を振って、歩いてくる一人の男。ぼさぼさの頭に、無精髭、そして、袈裟を着た姿をしている。

 鳴光寺住職。破戒僧、白勒法師。

 「今、御前はどこから来た?」と、問うてやりたいところなのだが、それを我慢した将寿は無駄に明るい見せかけだけの笑みを顔に張り付ける。

「お久しぶりですね。えっと……一年ぶりくらいだったでしょうか?」

「八年ぶりだよ、この馬鹿が! 町で見かけて声かけようと思っても、すぐに姿くらましちまうもんだからよ、俺はお前に避けられてんじゃないかって、心配だったんだぞ! そのくせ都合のいい時には酒と手紙を寄越してきやがって」

「色々、突っ込み所が満載ですね。避けていたのに決まっているでしょ。鉢合わせてしまった暁にはどんな面倒ごとが待っているのか、判ったもんじゃあないですからね。今もまさに、顔を合わせてしまったことを後悔してますぜ」

 白勒が指をいじっているときは大概、厄介ごとを持ってきたときだ。この八年間、それが嫌で、押しつけられては困ると彼を避けて逃げ回っていたのだが、ついに、鬼灯楼にまで押し掛けてきたようだ。

「将寿。お前さん桐辰とは会ったか?」

「えぇ、お会いしましたとも。また、毛色の変わった羅刹でしたねぇ。話も聞きましたが、アタシでもあんな例は初めて聞きましたし、まさか直接お会いするなんて思ってはいませんでしたがね。つくづく、アタシは珍しいモノに縁があるらしい。まぁ、よくも飼い馴らしたものですよ」

「飼い馴らすとか、そんな風に言うな。あいつは人間だ。たとえ鬼の腹から産まれ出ようが、二親は人間なのだからな。兎に角だ、お前に頼みたいことがあってここまで来た。どうせ、見当くらい付いていたから、今まで逃げ回っていたんだろ?」

 白勒は似合わないのに、真剣な表情で将寿に詰め寄った。

 さすがに将寿も、身を引いた。

 白勒が言いたいことは、たった今飲み込んだ。関わりたくなくてこの八年間もの間、彼を避けた。彼から逃げ続けてきた。というのに。

「彼に、その人の身には剰りある力の使い方を教えてやれとかそんなところですよね?」

「そうだ」

「ああ……矢っ張りね。そんなところだろうと思っていたよ」

 将寿は溜息を吐いて、天を仰いだ。が、白勒は気にせずに続ける。

「あいつの血は羅刹の邪気にあてられて穢され変質してしまっているようだ。そのせいで、あいつは人より頑丈で力もある。おまけに感情の起伏が激しくてな。頭に血が上っちまった日にゃぁ、手が着けられなくなっちまう。お前なら、あいつとうまくやれるだろうし、どうにか穢れを祓えるんじゃないかと思ったんだがなぁ?」

「うまくいくなんて、本当にそんな風に思っているんですかい? アタシと? 彼が? ふざけるのも大概にしてくだせぇ」

「ふざけてなんかない。頼む。引き受けてくれないか? 血が繋がらない、何の縁も契りもない赤の他人のお前達だが、確かに俺が拾って世話してやった兄弟なんだ。なぁ、将寿」

 周りの目も気にせずにだらだらと話す白勒を将寿は無理矢理引きずって目立たない細い脇道に連れ込んでいった。

「兄弟じゃありやせんし、面倒をみるなざぁ真っ平御免被りやす。ありゃあ、放っておいても大丈夫だ。案外芯がしっかりしてらっしゃる。子供扱いも大概にしてやりな」

「弟子が意地悪なんて……師父は悲しいぞ」

「わかってくれたようなので、私は失礼するよ。女将に早く帰ると約束させられているので、ね。それから、貴方に師事した覚えはないよ」

 将寿は踵を翻して門を潜り、女達の城へと戻っていった。

 後ろから「あの女将はやっぱり別嬪さんだな」とか言う白勒の陽気な声が追いかけてきたが、手を挙げて答えるだけにした。

 あんなのにいつまでも構ってはいられない。適当に放っておくのがいい。

 自分にだって、事情の一つや二ある。何も、桐辰が嫌いなわけではない。寧ろ、自分にしては好いている部類に入るだろう。けれど、できるかどうかも判らない頼みを簡単には引き受けられない。それとこれとは話が違う。

 将寿はらしくもなく動揺し、爪先に当たった石ころを蹴飛ばした。



     *     *



 ジャリ、ジャリっと歩く度に下駄が砂利道に擦れる音がそこかしこからする。


 甘い花のようなむっとするほど芳醇な香りに噎せ返す。


 将寿を女と間違えた男達の絡みつくような視線が向けられる。


 銀糸をなびかせた彼はまるで、そこにいるのに、別の次元に存在しているかのように感じさせる。


 白い着物が赤や朱、橙の光の中にあって眩く輝いているかのような錯覚を与える。



 どこからともなく聞こえてくるのは腐るほどに与えられてきた罵声や誹謗と変わらない賛美や賞嘆の声。その全てを聞こえていないフリをしてやり過ごしながら、将寿は仲之大路なかのおおじを我が物顔で闊歩すた。

 着物の裾がめくれあがり、艶めかしく脚が見え隠れする。膝までの黒い股引と、かつては商売道具だった赤い飾り紐がちらちらと目に入る。

 将寿はふと、首を捻った。

「女将、何をやってるんだい? そんな薄着では風邪を召すよ」

 薄手の着物一枚で羽織もはおらずに、店先で誰かを捜すように辺りを見渡す美しい初老の女。将寿は自分の肩に掛けていた羽織を彼女の肩にそっと掛けた。

「あぁ、ユキさん。ちょうど良いところに帰ってきてくれたよ。頼みたいことが……少し、言いにくいのだけれどね」

「頼みたいこと、ですか?」

 今日はよく頼みごとをされる日だ。でも、佳人の女将から何かを頼まれるのには悪い気はしない。たとえ、言いにくいような頼みごとでもね。

「ええ。こんな事を頼むのはどうかと思ったのだけどねぇ。ユキさん。いつもは幇間としてお座敷を取り仕切って貰っているけれど、今日はそうじゃなくてね。その……女として、お座敷に上がってくれないかしら」


(はい?)


 これはどういったことなのか、聞き間違いなのではと、将寿は我が耳を疑った。女将も、そんな彼の表情を見て、申し訳なさそうにしている。

 座敷に上ってくれ。それも幇間――男としてではなく女として。それすなわち、遠回しに遊女か芸妓の代わりをしてくれと言われているのと同じこと。

 いくら将寿が、女物の着物を好んで着ているとは言っても、それとはまた別の話。そもそも、女ではなく男。かろうじて芸妓の代わりをできたとしても遊女の代わりになるわけがない。ちなみに、男に股を開くような趣味も持ち合わせていない。


 女装癖。あれは昔からの悪癖のようなものだ。女形の舞手として舞台に上がっていたことがあって、それがあとを引いているというだけのこと。女装で過ごしてきた過去の習慣が抜けないだけだ。

「お酌だけでいいんだよ。ほんの少し、芸妓の真似事をしておくれ」

 鬼灯楼には恩義がある。故に、女将の『お願い』を無碍には断れないのだが、将寿にも男と産まれたからには一端の矜持くらい持ち合わせている。

 将寿は頭を抱えるようにして考え込んだ。眉をハの字に寄せて、口を噤む。

「……わかりました。やりましょう」

 矜恃は佳人を前に意味をなさなかった。

「じゃあ! 早速!」

 と、打って変わって意気揚々とする女将に無理矢理部屋に引っ張り込まれた。



          *



「これって、女将が昔、着ていたものなんじゃ……?」

「そうさぁ、綺麗だろう。ユキさんならきーっと、よう似合うとくれると思ってね。櫃の奥から引っ張り出してきちゃったよ」

 赤地に大きく派手に描かれた白い牡丹の花に銀が散りばめられた色留袖。そして、襟元に赤があしらえられた白く無地の襦袢。帯は黒に金糸が織り込まれている。それを赤い帯紐が引き立てている。

「どうですか?」

 普段よりも濃く化粧を施し、髪も綺麗に櫛を入れ、赤い牡丹の簪を添えて、見た目は女性そのもの。将寿自身は気付いてはいなかったが、十人中十人が女だと言うに違いない。

「さぁ、背筋をしゃんとお伸ばしよ。今から、貴方は廓芸妓うちげいこ銀鷺ぎんろだよ」

「銀の鷺ねぇ……で、どなたの座敷に付けばよろしいんで?」

「取り敢えず、輝凰きおうのところに。子鶯すおうが風邪で寝込んでしまってね」

 輝凰は鬼灯楼で一番の売れっ子。昼三の位を持つ花魁だ。子鶯はその禿かむろだったのだが、つい一月ひとつきほど前に突き出しの振袖新造ふりそでしんぞうにあがったばかりの少女。


 将寿は眉を寄せた。

 子鶯はまるで妹分であるかのように将寿を兄と呼び慕い、鬼灯楼に売られてきたその頃から知っていた。故に、少し心配だった。


(今度、金平糖でも買ってきますか、ね)


 


「あら? ユキさん? あらまぁ、そんな格好でどうしたのかしら」

 美しい鴉の濡れ羽の様な黒髪の花魁、輝凰。切れ長の目の眦と唇に指した赤い紅が目を引く。髪と同じくらい黒い着物に、胸の下で派手に結んだ金の帯。けっして、鮮やかではないが、他の遊女達とは違い圧倒的な存在感がある。

「今日だけ子鶯の代わりに芸妓として座敷に上がらしてもらいます。銀鷺……だそうです」

 輝凰はコロコロと笑った。

「貴方の前じゃ、私なんかじゃも霞んでしまうわ。女将も意地悪よね」

「冗談。アタシなんかその辺の道端に咲く花よりまし程度。輝凰は仙女よりも綺麗だ」

「あらぁ、他の女を誘った口で私を口説くの? それでも嬉しいわ」

「さて何のことだか」

「いいのよ。それよりも、主さんがお待ちでありんす。早よ行きんしょ」



          *



 輝凰は口を開くことなく座敷の中へと入ると、さも当然といった顔で上座に座した。

 今日の相手が初回の客だからだ。

 高位の遊女の馴染みとなるには段階を踏まなければならない。初回は客が開いた宴に遊女を招待する。その際、遊女は客を値踏みする。客とは口を利かず料理にも一切手を付けなければ、客が自分に触れることを赦さない。


 それがしきたりだ。


 将寿はなるべく顔を伏せてその後ろについて行った。肩を落とし歩幅を狭めて、女らしく見せる。

 大丈夫、完璧だ。

 巧く化けたものだと満足げに将寿が顔を上げると、客はいきなり立ち上がった。輝凰は何がなんだかわからず、二人の顔を代わり番こに見た。


 後悔し絶望した将寿の顔と、あり得ないものを見て自の犯した過ちについて記憶を辿る桐辰の真っ青な顔を。

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