兎と鼬


          2


 はだけた着物の裾の合間から露わになったのはとても男とは思えぬほどに細い脚。遊女の格好をした際に脛の毛を落したのか、やけに白い素肌が綺麗に見えていた。その足に結ばれた無数の鈴と、紐の結ばれた苦無くない


 桐辰は同時に息を飲む。


 銀髪――否、月の光を反射して輝く真っ白な髪。纏った白い着流しと赤い腰紐。白い足に結わえた無数の小さな鈴が連なる赤い紐。脚をさばく度に脚の鈴が涼やかな音を奏でる。腿に括り付けた苦無に指先で触れ、しなやかに歩む。

 目元と唇に差した紅は先ほど落とし忘れた女郎の化粧。それがやけに様になっていて違和感を感じない。


 昼間と雰囲気をがらりと変えた彼。

 息を呑むほど美しい。



 チリン……リン……



 どこから出したのか柄の先端に赤い房の飾り紐の付いた白い鞘の小振りな刀――大脇差を肩に担いで軽い足取りで桐辰の前に出た将寿。下駄を脱ぎ捨てる。

「旦那ぁ。汚れ役は、化け物の『私』に任せな」

 首を右に傾け後ろを振り返った将寿。長い前髪の隙間から覗いたのは透き通った瞳。感情のない、ただただ光を反射する紅玉のようだ。



 チリン……



「闇堕ちよ……『私』が御前を喰ってあげよう」



 チリン……――



 一瞬。全ての音が途絶えたかと思うと、将寿の姿が消えていた。否、将寿は宙を蝶の如く華麗に舞っていた。

 ひらりと舞い上がると、近くの建物の屋根に音もなく着地する。手には空中にて鞘から抜き放った白く透き通った刀身の刀。それを一旦、不作法にも屋根に突き刺すと、腿に括り付けた苦無を数本抜き取った。すると、飾り紐が音を立てて足元に落ちた。紐の先端は苦無につながっている。

 将寿は手当たり次第にその苦無を建物めがけて投げた。すると、そこには紐の足場ができていた。少し高めの位置に二本、窓の手すりと手すりを繋いだものが一本、渡っている。

 廃屋だからよかったものの、人が住んでいたなら騒音と損壊で賠償金を請求されているところだ。



「何それ?」

 悪戯な笑みを浮かべる柳瀬が首を傾げた。 

「これは『私』の為の舞台だよ」

 将寿は屋根に差した刀を抜いて、逆手に握った。

 トーンッ、と。跳ぶと細い紐の上に綺麗に着地した。あんな紐では男の体重はおろか、子供ですらて支えきれないだろう。

 しかし、将寿は真っ直ぐに一寸も揺れることなくその上に立っている。紐は弛んですらいない。

 将寿はそこから反動をつけて飛び降りながら、刀を標的である柳瀬に向かって弧を描くように振り下ろし、体勢を立て直す。柳瀬がそれをすんでのところで避けたので、将寿は彼の元いた位置に軽く着地した。地に手を着けると乾いた下唇を舌で舐める。

 柳瀬――鎌鼬もまた負けじと長刀を薙いだ。すると風がまるで刃のようになって飛び、将寿の肌を裂いていった。


「とっとと出てきたらどうなんだい。引きこもりの鼬さんよぉ!」

 将寿の頬に一筋の血が滲み出た。白い着物にも赤い染みがいくつも浮かび上がる。刀を伝って腕から流れた血が地面に滴り落ちる。



 桐辰は目の前で将寿が傷つく姿を見ていることしかできずにいた。本当は助太刀に入ってやりたかった。けれど、そんなことはできないということが、よく解っていた。


(自分は出て行ったところで、足手纏いでしかない)


 情けないが、彼には拳を握ることしかできなかった。

「人間に封じられた『兎』如きが図に乗るな!」

 柳瀬の足下に落ちていた真っ黒な影が盛り上がる。その影は縦に伸びて徐々に人の形を取り始めた。

 肩につくかつかないかの茶色の髪の少年の姿。猫のような吊り上がった形の目。その瞳は血のように紅い。髪や瞳の色をのぞけばまるで、柳瀬そのものだった。


 少年は柳瀬の首に腕を回し、指で顎を撫でる。柳瀬は魂のない人形のように、意識なく固まってしまったままだ。

「随分とイヤな姿じゃないか」

「褒め言葉として受け取ってあげるっすよ、兎ぃ」

 将寿は軽く舌打ちした。

 鎌鼬は不気味に笑む。




 対峙。


 気味が悪いほどに静かな、間。息をする音しか聞こえない。その静寂を破って動いたのは鎌鼬の方だった。鎌鼬は柳瀬の傍を離れ、将寿めがけて飛びかかった。

 咄嗟に、将寿は後ろへ飛びすさり、頭上に渡した紐に飛び乗る。

 鎌鼬はそれを見て口端を僅かに上げた。彼が空気を掴むと、その手の中に柄が現れる。柄は二本でその両方とも刃は見えない。風鎌だ。受けることも砕くこともできない風の刃だ。鎌鼬は鎌を振り上げた。


 将寿は身構える。それと同時に宙に飛び上がる将寿。圧縮された風の刃が彼の両脇を抜けていった。



 チリン、リン――



「避けろ! 旦那!」

 桐辰めがけて一直線に跳んでいく鎌風。将寿が出てくるなと言っておいたのにもかかわらず後ろに出てきていた彼を、鎌鼬は見逃してはくれなかった。

 将寿は咄嗟に踵を返して桐辰の体を押し倒していた。

 しかし、予想に反して鎌風は二人の頭上で大きく逸れる。すると、そのまま風の刃は将寿が頭上に渡した赤い足場を切り裂いていった。

 飾り紐が切れて虚しく音を響かせて地面に落ちる。

「よくも、アタシの商売道具を駄目にしてくれた、ね」

 一本だけ無事に残った紐の上に飛び上り、上から目線で文句を吐きながら、安堵の溜息を吐いた。

 鎌鼬の方は鎌を再び振り上げる。と、将寿は、今度は刀を薙いで向かってきた風の刃を霧散させ威力を削いだ。刀を振り上げ地面を目指す。そして、そのまま鎌鼬の左肩から右脇へと刀を振り下ろした。


 が、避けられた。鎌鼬は後退る。


 刃は届いていなかったようだ。その身にまとった影のような着物にすら、届いてはいなかった。裂けてもいない。

 将寿は間髪入れずに足に装備していた紐の付いていない苦無を左右に三本ずつ指の間に挟んで取ると、後ろに飛んで避けた鎌鼬に向かって一気に投げつけ、自分も地を蹴り出した。


 その攻撃は咄嗟に手を翳して防いだ鎌鼬の体を切り裂いた。


 将寿は鎌鼬の懐へ入り込み刀を振るう。鎌鼬に飛びかかり押し倒すと、その鳩尾に膝を入れて彼の肩に刃を突き立てた。

「御前は一体、何をんだい?」

「さぁねぇ。そこの腰抜けなセンパイに聞いてみたら?」

 桐辰は鎌鼬の冷たい視線に肩を揺らした。まるで、柳瀬自身に睨みつけられたかのように錯覚する。

「ほら、あんなに情けない奴なのにね。一組の副長。つまり、実質的に定廻の副長様なんすよ? ふざけてんでしょ。腕があっても七組の副長にしかなれなかったのに、お奉行様のお気に入りだからってあんなのが――!」

「嗚呼、矢っ張りそんな馬鹿げた理由かい」

「はぁ?」

「強さだけが全てではない……それを知らない君は、一生、旦那には追いつけないだろうね」

 嘲笑する将寿。

 彼の憐れみをはらんだ嘲りに鎌鼬は顔を赤くしてその身をわなわなと震わせた。

「……煩い……煩い、煩い、うるさい――――ウルサイ‼」

 将寿は右頬の脇に拳を落とした。

「弱い、弱い。お前は弱いね」

 将寿はほくそ笑む。

「黙れ! 黙れ! 黙れ!!」

 桐辰は身を振り乱して拳を地面に打った。

 そんな鎌鼬にはお構いなし。将寿は躊躇いもなく、抜き取った刀で鎌鼬の額を貫いた。



「あっ……」



 二人の後ろで柳瀬は意識を飛ばし、地面に倒れ込んだ。

 桐辰が急いで駆け寄り、その体を支えた。彼の体はまるで氷のように驚くほどに冷たかった。しかし、今は気にしていられない。桐辰の視線は真っ直ぐに将寿を見据えている。

 将寿はゆっくりと上体を上げると前髪をかきあげた。赤い双眸が鎌鼬を見下ろす。


「さてと、頂くとしますか」

 

「この……『同族喰い』がっ……!」

「何とでも言いな。『私』は悪食なんだ」

 冷たく言い放つ。

 将寿は倒れた鎌鼬に顔を近づけると、その唇に吸い付いた。まるで口付けを落としているかのように怪しく艶めかしい将寿のその行為。


 


 鎌鼬の体は柳瀬の影から出てきたときのように、黒い靄となって将寿に喰われていった。影が消えたとたんに、柳瀬の体に熱が戻った。頬にも赤味が戻る。

 将寿は地面に膝を突いたまま、顔を上向けて静かに目を閉じていた。



「――その想い、確かに頂きました」



 その瞳から煌めく滴が一粒、頬を伝って流れ落ちる。真珠の様だ。桐辰は一連の行為を見ているだけだった。なのに、急に恥ずかしくなってきて、赤面し、彼から目を逸らした。

「終わりましたよ、旦那」

 将寿がそう告げてきたので、桐辰は頬を軽くたたいて気を引き締め直してから、柳瀬を抱き上げて将寿の傍にと寄った。

「柳瀬は大丈夫なのか?」

 気絶して倒れた後輩。腕の中で浅く息をしている彼の額に自らの額を当てる。浅い吐息が顔にかかった。

「大丈夫でさぁ。その内に目を覚ますだろうから、旦那はその子を家まで連れて帰ってやって下せぇ。アタシは用事が済んだので……これにて、失礼しやす」

 そう言って早くも踵を返して桐辰に背を向けた将寿。


 何も語らず、何事もなかったかのように元きた道へと消えていった。



          *



 桐辰はそれを見送ると、柳瀬を背に背負いなおした。


 地面をよく見てみれば、何かが這った様な跡があった。

 今ならそれが刀をずって歩いた跡だということがよく解る。柳瀬が日頃から身の丈に合わない刀を使用していたことを考えに入れていたならば、犯人を簡単に特定できていたはずなのに、自分が彼なはずがないと言ってしまったために、勝手に下手人の候補から外してしまっていた。

 自分の思い込みがこんなことになってしまった。後悔はいくらしたところで、起きてしまったことが起こらなかったことにはならない。終わったことは元には戻らない。


 終わったんだ。今はそれだけでいい。


 桐辰は溜息を付くと、奉行所へ向かって、将寿とは全く反対方向へと歩み始めた。

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