Ⅷ:終わりを決めた女
いつもこうだ。
アイツは、あたしを殴る事でしか自分の価値を見出せない。
今日も殴られる。
頬を。腕を。足を。腹を。
髪を引っ張られて、バランスの崩れた両足にアイツの汚い足首が引っ掛けられる。
あたしの体は、糸も簡単にガサガサになった畳の上に落ちて…。
いつもこうだ。
「向井さん。
精神科。こんな所に世話になるなんて夢にも思っていなかった。
名前を呼ばれて席を立てば、周りの人間の目が刺さる。
何かの病気持ちなんだろうなって目。見た感じは普通なのにねって。
あんたたちも同じようなもんでしょ?そんな風に睨み返す。
「こちらへどうぞ。先生すぐいらっしゃいますから、お掛けになってお待ちください
ね。」
薄ピンクのナース服。歳はあたしより少し上かな…。
ホッとさせる笑顔の看護婦さんに促されて灰色した椅子に腰かけた。
室内は普通の病院とは少し違って。花を生けたお洒落な花瓶に、大きめの机。小さな窓には可愛い犬の置物が3つ並んでいる。
ぼーっとそれを眺めてたら、フリージアの甘い香りがした。
「お待たせしました。」
声のする方を向くと、工藤先生が立っている。
あたしの担当医。
「今日はお薬の事でって聞いてるんだけど。…量減らす?」
工藤先生は、あたしにいつもの優しい笑みをくれると、いつもの様にパソコンの画面を渋い顔で覗き込んでいる。
長い髪を掻き上げる姿が綺麗で。先生の高い鼻が、横顔を余計に綺麗に見せてて。
こんな風になれたらな。…華奢で、背も高くて、モデルみたいで。
「…あたしとは正反対。」
「ん?何か言った?」
咄嗟に首を振る。
小さな声で言ったはずだったけど。少し恥ずかしくなってしまう自分が嫌になった。
「薬、今の量じゃ多いんじゃないかなって思うんだけど。…その後調子はどうかな?」
パソコンを横目で見ながら、先生は考えるような顔をした。
あたしの思惑は本当は違ってて。減らされると、困るんだよね。
「…あの、調子は、調子はいいんですけど、安定剤を今より増やして欲しくて…。」
あたしの言葉に、先生の大きな目が一瞬細くなる。
怒られる?答えを聞くのが怖くて、眼を逸らす。
「伊織ちゃん。薬の量を増やしても、問題の解決にはならないのよ?」
やっぱり。先生ならそう言うだろうと思ってた。
今の量を出す時も、その前も。先生は薬を出す事に前向きだった事がないからだ。
けど…。あたしにはあの薬がどうしても必要で。必死に頼み込んだ。
―あの時も。今日もそのつもり。
「確かに、解決にならないとは思います。でも、薬がないと…―」
言いかけて、止めた。薬に頼り切った態度は逆効果…。何て言えば効果的なんだろう。
「…幻覚症状、まだあるのよね?」
先生の言葉に、あたしの唇が震える。
「伊織ちゃん、貴方は彼の呪縛からようやく逃れられたの。…警察も動いてくれたし、何より、貴方自身が解決する為に動いたのよ?―伊織ちゃん、貴方は本当に頑張ってこの問題と向き合ってきた。今、薬を増やすという事は、せっかくの努力を無駄にしかねない―ある意味ではあの頃に逆戻りしてしまう事になるかもしれないの。…まずは、幻聴、幻覚の二つの症状を治める事に専念しないと。…分かるわよね?」
先生の言葉が痛い。あたしが薬を求める事は、逃げって事?
「でも…。でも、どれだけカウンセリングしても、どれだけ考えないようにしても…アイツの夢をみたりするんです。…どれだけ…あたしだって…」
あたしだって…―早く立ち直れるんなら、今こんな所に用はない。
此処は、あたしの安住の地じゃない。精神科って所は、あたしにとっての唯一の逃げ場。でも、先生はその魔法ですら、与えてくれないんだ。
幼稚で、自分勝手な考えが次々浮かんでくる。あたしを思って、この2年の間何度も向き合い続けてくれた先生が敵に思えてくる。
こんなだから、あたしは負けてしまうんだ。こんなだから…。
「トラウマはね、直ぐには解消出来ないし、貴方の場合身体的被害の所為で、精神の負担は通常よりも大きく、心に負った傷もそう簡単に治るものじゃないの。でもね―」
「もう結構です。―失礼します。」
駄目だ。今日はとてもじゃないけど、此処に居られない。
真っ当な生き方してきたあの人には、あたしの気持ちなんて分からない。
「待って、伊織ちゃん!」
勢いよく飛び出した診察室の中から、先生の張り詰めた声がした。
でも、振り返るつもりなんてない。一刻も早くここから逃げ出したかったから。
あたしは間違ってるんだろう。きっと、間違ってる。先生は悪くない。あんな男と出逢った自分が全ての元凶。分かってる。分かってるんだ。
―…
空が黒く影って来た頃。あたしは漸く自分を少し取り戻せた。
小さな部屋の窓から見える濁った色の雲を眺めて、小さく溜息。
「薬飲まなきゃ。」
夜になる前に。早く飲まなきゃ。
ピルケースに手を伸ばす。真っ白な箱の中にぎっしり入った小さな錠剤達。
こんな物を見て安心する自分に笑えた。
『伊織。お前はやっぱり駄目な奴だな。』
早く飲まなきゃ。
『伊織。お前は本当に駄目な奴だよ。』
早く。
『伊織。』
「うるさい…」
『伊織。』
「うるさい…」
幻聴だ。これは幻なんだ。
アイツはもう居ない。ここに居るはずない。
アイツは…
「あたしがやっと消したんだから…。」
消したんだ。消えたの。
両手から零れそうな程の白い粒を、口へ運ぶ。
震える手の所為で、上手く飲み込めない。
苛立ちと焦りが交差して、無理矢理口の中へ押し込んだ。
脇に置いてあったペットボトルの中には、足りない水が入ってて。急いで口へ流し込んだけど、飲み込めなかった幾つかの粒達が床に零れて落ちた。
噛み砕けばいい。ガリガリと音を立てれば、口一杯に独特の苦味が広がる。
床に落ちていた粒も拾い上げて全て飲み砕いた時、今度は息苦しさが襲った。
必死に酸素を吸い込んで、何度も荒い息を吐く。嗚咽も込み上げる始末で、本当に全部嫌になる。
「…消えた…消したのっ…」
息苦しさからか、目から溢れる涙。口の端からは唾液が垂れてるのが分かる。
こんな人生が嫌だから。こんな人生、もう終わりにしたいから。だから。だからあたしは…
「アイツを殺したのに…。」
冷たい床に身体が触れる。
最初は腕。次に膝。全身にヒヤッとしたと思えば、視界がどんどんぼやけてくる。
薬が効いて来たんだろう。体の力が、がくんと抜け落ちるのが分かった。
このまま眠ろう。もう、今はどうだっていい事。このまま任せよう。
目が醒めたらきっと。何もかも良くなってるはずだから…。
新宿西警察署 刑事課
20XX年9月16日 午後8時45分 男性一名行方不明。
以下の調書は交際相手と見られる女性からの事情聴取に寄る作成である。
向井 伊織 23歳 職業サービス関係
20XX年4月頃より、行方不明男性。
行方不明当時の状況等を聞き込み。橘氏とは同棲していたと見られる。
向井さんの身体には、多数の傷、痣が見られ、医師によると頻繁に家庭内暴力を受けていた可能性があるとの事。
向井さんの供述:以下、向井と記載。
向井:彼とは、店で知り合いました。飲食店です。
数回メールのやり取りをして、付き合うようになりました。
一緒に暮らすまで、そんなに掛かりませんでした。
刑事課
黒澤:暴力はいつから始まったんですか?
向井:はっきりとは覚えていません。(一度言葉に詰まりが見られる。)
突然、始まりました。
黒澤:あなたは抵抗しましたか?
向井:はい。始めは抵抗しました。
黒澤:橘さんは、どんな暴力を?
向井:(暫し、逡巡。)殴ったりです。最初は、人から見えない所ばかりでした。
お腹とか、背中とか。
黒澤:顔にある痣は最近のもの?(向井さんの左頬に腫れが見られる。右側唇に大きな切傷。殴打に寄るものと思われる。)
向井:昨日です。昨日付けられました。お酒に酔っていたので。
黒澤:橘さんは、いつも酔うとあなたに暴力を?
向井:いえ。酔っていなくてもされます。普通、DVって、された後優しくされるとか言いますけど、彼はそんな事一度もありませんでした。
黒澤:では、質問を変えます。失踪時の状況を教えて下さい。
向井:昨日、いつもの様に殴られて。あたし気絶したんです。だから良くは分からなくて。
黒澤:昨日、いつ頃まで橘さんといらっしゃいました?覚えている範囲で結構です。
向井:目が覚めたら深夜の二時頃で。彼はもう部屋に居ませんでした。
黒澤:ここに、橘さんの携帯と、橘さんの直筆と思われるメモがありますが、これを見つけた状況は?
向井:いつも、どこかへ彼が出掛ける時は必ず携帯を持って出掛けるんですけど、これが机の上に置きっぱなしになっていて。あたし、気付いた時、畳の上に倒れてて。ぼーっと部屋を見渡してたら、この携帯とメモが机の上に。
メモの内容:以下に記載。
伊織、今まで悪かった
(読み取りが困難な個所有)ほんとうに
オレは、死のうと思う
オレは(乱雑に字が並ぶ為、読み取り困難)死ぬと思う
いおり
黒澤:橘さんが、金融関係や暴力団関係と何か関係していた事はありましたか?
向井:無いと思います。
黒澤:向井さんが思い付く限りで結構です。橘さんが立ち寄りそうな所、何か知ってらっしゃいませんか?例えば、橘さんのご実家とか。
向井:ご両親は何年か前に亡くなったと聞いています。兄弟もいないとかで。親戚関係までは分からないですけど、自分は天涯孤独の身だからって、良く言ってました。
黒澤:まだ断言は出来兼ねますが、このメモがある種の遺書だと仮定して、最悪の場合ご遺体として発見されるかも知れません。まだ、無事でいらっしゃるかもしれませんが。
向井:(下を向き、左手、爪をしきりに噛みだす。)
黒澤:きっと無事でいらっしゃるかと思います。こういったケースは、自責の念から衝動的に動いてしまって、ほとぼりが冷めた頃に戻って来るなんて事もありますしね。
向井:戻って来なくていいんです。ただ、こんな後味の悪いメモ見たら、不愉快で。だからここに来ただけなんで。
黒澤:どちらにせよ、橘さんの捜索は今から始めさせていただきますね。向井さん、大丈夫ですか?
向井:(落ち着きなく、しきりに体を摩る。)
黒澤:向井さん、今日の所はお引き取り頂いて大丈夫です。また後日、お話を伺わせていただくかもしれませんので、その時はよろしくお願いします。
向井:(無言の後、頷く。)
以上が供述内容である。以下、質疑を担当した黒澤の見解。
向井 伊織は、暴力に寄る極度の精神的ショックからか、供述にも不明な点が多く見られる。
精神科の意見を聞きたいと共に、橘氏の失踪になんらかの事件性も無視は出来ないと判断する。
精神科医は、相馬第一総合病院 精神科 精神科医 工藤 綾医師を指名とする。
相馬第一総合病院。全8階からなる大きな建物の5階部分に設けられた精神科病棟。そのフロアの中でも重要な役割を担うは、「第一診察室」である。
工藤綾はその「第一診察室」を任されている。
「先生、黒澤さんがいらっしゃってます。」
看護師に呼ばれ、綾はパソコン画面から目を上げた。「黒澤」と言う名を聞くなり、綾の眉間に深く皺が刻まれる。
「この忙しい時に…。分かった、お通しして。」
綾の声色に、看護師は些かの恐縮を見せた。
看護師に促され、診察室の扉を開けて入って来た大柄な男を目の前にし、綾は苦いコーヒーを口に付けた。
「おつかれさん。悪いね、急に。」
黒澤純也。新宿西署の刑事である。綾とは数十年の付き合いであるが、綾はこの男のにやついた笑みと、その鋭い眼光が苦手だった。
「…いつもアポ無しで来るの止めて欲しいんだけど。―それで、今日は何の御用ですか?」
綾の棘のある言葉に一笑し、黒澤は灰色の簡易椅子に腰を下ろした。
「相変わらず冷たいねぇー。あ、そういや、
黒澤は、萎びたスーツの胸ポケットから煙草を一本引き抜くと、室内をキョロキョロと見渡し、煙を燻らせた。
その一挙一動が鼻につく。
綾は、仕方なしと言わんばかりに傍にあった灰皿を黒澤の前へ押しやった。
「さぁね。どうしてるのか、見当もつかない。…あれ以来、お金のやり取り以外で彼とは連絡取ってないから。」
拓馬。その名前を聞くのは、いつも黒澤からばかり。綾の心情が不愉快に揺れる。
「そうか…。あいつが異動になってから、俺にも連絡一つ来ねぇーからさ。翔の事もあるし、お前には来てると思って聞いてみたんだが…。」
黒澤の言葉に何の感情も動いていないかの様な綾は、眉一つ動かさず黒澤を見遣る。
綾の視線の意味は、「これ以上聞くな。」と訴えるものであり、黒澤はバツが悪そうに頭を掻いた。
「あんた達、同じ刑事でしょ?同僚にでも聞いた方が早いわよ。…それで?何の用?まさかあの人の話しにわざわざ来たんじゃないわよね?」
綾の大きく見開かれた眼に、黒澤は視線を泳がせた。彼女の視線の厚みに委縮する。
「勿論、それだけじゃないよ。―向井伊織の件だ。」
「…あんた、やっぱり疑ってんのね。」
黒澤は腕組みをしながら、深く頷く。そして、綾が嫌うにやついた笑みを口の片端しに浮かべた。
「筆跡鑑定もした。確かに橘本人の字だった。お前に精神鑑定も依頼して、向井が何かしたわけじゃないってお墨付きも貰ってる。―ただ、あの女は信用出来ない。」
綾は二杯目のコーヒーに口を付けながら、首をもたげた。
「私のお墨付きが信用ならないみたいな言い方ね。」
「そうじゃないさ。これは刑事の勘だ。」
綾の視線が伏せられる。退屈そうに頬杖を付きながら、黒澤の話を流していた。
「いいか?向井伊織の供述は当初、恋人の失踪事件。それだけの事だった。…あのメモがなけりゃね。あのメモは不信の塊だ。大体あの女、男にDV受け続けて精神狂った割には、どうも冷静なんだよ。―どこか冷めているというのか。遺体になっているかもしれない、そう言った時、あいつは―」
「笑ってた。…でしょ?」
綾が言葉尻を引き取る。
「そう。笑ってたんだ。」
綾は、細い指先に自分の煙草を挟むと、馬鹿らしいと煙を吐いた。
「前にも言ったと思うけど。DV被害者は、時に相手を憎むわ。それは誰だって同じ。精神に異常があろうがなかろうがね。―これでやっと解放される。やっと自由になれる。そんな風に思えば、誰でも笑顔になるわよ。憎き相手が死んでくれてるかもしれない。それが自殺なら尚の事。この世の安息を手に入れられる。
…黒澤、あんたの見解はハズレ。」
勝ち誇った表情の綾に、黒澤は面白くないと煙草を灰皿に押しつぶした。
「いいや。お前の見解が大外れだ。―綾、お前なんか見落としてんだよ。自分の経験にでも重ねて同情してんのか?
例えばトラウマ。―どうだ?」
その一言に、綾の整った顔が一気に憤慨に歪められた。
「同情?ふざけないで。私は仕事に私情何か持ち込まない。―それに、拓馬は私に手を上げる勇気もないような男よ。憶測で物を言うのはやめてちょうだい。」
「…だったら、どうしてあいつを捨てた。」
睨みあう二つの眼が、互いを威嚇する。黒澤は憤慨する綾の肩に手を置くと、「やめよう。」と目線を変えた。
「―捨てたのは…私じゃない。」
「…。」
綾の淋し気な眼差しに、黒澤は責め立てた自分に後悔した。
本当はデリケートで繊細な彼女と、自身の親友でもある佐伯拓馬を重ねた為である。
―…
「…向井さんだけど、昨日来たわよ。」
「…それで?」
黒澤の質問に綾は口籠る。
「確かに…確かに、少し気になる点があるの。」
綾は、パソコン画面を黒澤へ向け、向井伊織のカルテを呼び出した。
画面には細かく内容が記されている。が、どれも専門的用語が多様され、黒澤には理解出来ないものであった。
「…つまり、何が気になるんだ?」
率直な黒澤の意見に、綾は頷く。
「そうね、これを見た所で分からないわね。―薬の欄があるでしょ?ここに記されてるのは、主に安定剤と言われる類の物なの。
他に、彼女には睡眠薬、及び睡眠導入剤、それと神経異常の際に見られる幾つかの症状を和らげる錠剤を処方しているの。」
「それで?」
「この神経異常に寄る症状なんだけど。彼女の場合は、幻覚と幻聴。―そこが気になるのよ。」
綾は眉尻を下げ、画面を閉じた。
「…と、言うと?」
黒澤は、興味に駆られた眼で綾の言葉を待つ。
「本来。DV被害者の多くが悩まされる精神的病状は、フラッシュバック―つまり過去に体現した事例を思い出す事によって起こるパニック障害の一種ね。それと、身体的苦痛から来るトラウマ。簡単に言うと、次に交際した相手のちょっとした言動や行動で、過去に立ち戻ってしまい、そこから抜け出せなくなるの。―以上の症例が大半。」
綾はそこまで言うと、暫しの逡巡の後言葉を繋げた。
「幻覚と幻聴。確かに、そんな事例も有るわ。―けど、彼女の話を聞く限り、幻覚と幻聴の内容は、とても生々しくて。まるで、今起こっているかのようでね。」
「さっき言ってたフラッシュバック―それじゃないのか?」
黒澤の言葉に頷きながらも、綾は頭を垂れた。
「私も最初はそう思ってたの。薬の処方もそれに対応出来る分を出した。―でも、彼女の症状は改善の見込みすらなかったし、前よりも酷くなる一方で。…
―2年よ。2年間彼女の担当をしているけど、昨日も、量を増やしてくれって来たの。勿論断った。過剰に摂取しても、いい傾向が見られない物を処方する訳にはいかないもの。―幻覚や幻聴の理由は他にあるような気がして。」
綾はそれ以上を言うのを止め、押し黙った。
「…他の原因ねぇ。―綾、診察の様子を何かに撮ったりしてないか?」
「あるわよ。…丁度、私が気になりだした位の時のカウンセリングの記録が。」
そうゆうと、綾はおもむろに白衣のポケットから、丁度掌に収まるサイズの黒いボイスレコーダーを取り出し、黒澤に見せた。
「習慣なの。カルテ書くときに便利だし。」
今日初めて見せた綾の笑みに、黒澤の興味が注がれる。
「綾、お前やっぱり俺の味方だな。―これ、貸してくれるよな!」
黒澤の言葉に悪戯に笑う綾は、レコーダーの代りにと、一枚のCDを手渡した。
「これは、仕事で必要なの。借りるならこっちにして。」
「サンキュ。じゃ、俺はそろそろ行くよ。俺の読みは必ず当たるんだ。」
希望の光を前に、黒澤の感情が高ぶる。
綾はそんな黒澤を横目にしながら、苦いコーヒーを飲み干した。
「―黒澤、言っとくけど、私は彼女を何かの犯罪者だなんて思ってないからね。
忘れないで。私の読みも当たるのよ。」
背を向けひらひらと手を振る綾に、黒澤は一笑した。
―…
真っ赤に熟れた太陽が、アスファルトに煌々と照付ける午後。
黒澤は急ぎ足で車へ乗り込んだ。
はやる気持ちに焦らされながらも、フッと息を吐くと、先程手に入れた「向井伊織の記録」をカーステレオへ捻じ込む。
どんな内容なのか。果たしてそれは自身の描く疑惑を照明する事になるのか。
自問自答の末、黒澤の手が汗ばんだ。
煙草を引き抜き、火を点ける。
黒澤は、半ば祈るように再生ボタンを押し、車を走らせた。
「さて…どんな話が聞けるかな。」
最初のカーブへ差し掛かる。
黒澤の意に反して中々流れ出さないステレオに苛立ちが募りだす。
―と、しばらくして聞き馴染みの有る声が、雑音に交じって流れ出した。
『8月10日。向井伊織さん12回目の来院。カウンセリング担当。工藤。今回の患者の来院目的。処方薬の増量。…前回も同じ。』
綾の溜息交じりの声に、黒澤は噴出した。
「あいつも大変だな。」
『伊織ちゃん、調子はどう?』
綾の何時もより明るい華の有る声の後に、かさついた生気の無い声が乗る。
『…あまり、よくありません。』
『眠れない?』
『いえ…よく眠れます。』
『そう。…それで、今日は確か―』
『安定剤。増やしてください。』
『…伊織ちゃん、それは出来ない。今の量以上を摂取しても、問題の解決にはならない。
…どうしてそんなに薬が居ると思うの?何か原因があるなら、先生、それを解決したいな。』
『………。』
『幻覚…幻聴…。一体どんな風に見えたり、聞こえたりするのかな?』
『………。』
『伊織ちゃん?』
『…―名前。呼ぶんです。あいつが。』
『名前?』
『いおり。いおりって。…返事しなかったら、側に来て………。』
『―つまり、伊織ちゃんの名前を呼ぶ幻聴が聞こえて、その幻聴に返事をしないと、幻覚として、橘さんが見えるって事?』
『…幻覚…?なのかな。』
『とてもリアルに見える事もある。でもそれは、あなたが体験した身体的苦痛から来る記憶でね。脳がそれを見せているの。…だから、決して現実に起こっている事でわないのよ?』
『…あたしを恨んでるんです。だから、いつも夜になると来るんです。』
『時間は決まってるの?』
『…2時。夜中の2時。…だから、先生、あたし薬飲まないとダメなんです。
今の量じゃ足りない。…お願い、先生…助けて…』
―…
『9月1日。向井伊織さん15回目の来院。今回も処方薬の増量。…前回押し切られて処方したけど。改善の見込みは薄いと思われる。橘さん失踪からもうすぐで丸一年…その所為?』
『先生、あいつは戻ってくるんでしょうか。』
『…橘さんが戻って来たら、また暴力を受けるって思うのね?』
『そうですね…それもありますけど…。』
『伊織ちゃん、彼はあなたの記憶から消した方がいいわ。じゃないと、いつまでもこの状態から抜け出せない。』
『消す…消す…』
『記憶から徐々に消すの。ゆっくりとね。…そうすればきっと、幻覚症状諸々改善に向かうはず。』
『…先生、消したのに…消したのに聞こえるんです。見えるんです。』
『伊織ちゃん…。』
『薬が必要です。薬を飲めば、見えないから…。ほんとです。あと少しだけ。…お願い…』
―…
『9月10日。向井伊織さん16回目。…今月に入って来院回数が増えている。前回、薬を増やすと言って置きながら、量は希望通りに処方しなかった。危険である為にそうした。…気掛かりなのは、彼女の言葉。
「消した。」って言っていたけど…。何か引っかかる言い方だった。記憶から消すとは違うように感じる…。私の考え過ぎかしら。』
ここまで聞いて、黒澤の中で何かが警笛を鳴らし出した。
「消した。」これは、綾の言う通り記憶の事では無いのでわないか。
「現実的に消した…だとしたら、自責の念で幻覚を?」
『…あの、薬をもっと…貰いたくて。』
『伊織ちゃん、それは駄目って言ってるでしょ?それに、前回来たのは10日前よ?もう薬が無いだなんて事言わないわよね?』
『薬は、ちゃんと有ります。…ただ、よくならないから…。』
『伊織ちゃん、伊織ちゃんは前、橘さんを消したって言ってたよね。…それって、私の思う通り、記憶からって事…でしょ?』
『そうです。そうですよ?…先生が言ってたでしょ?消しなさいって。』
『…えぇ。言った…。』
『他に意味ありますか?他に消すってどうするんですか?』
『…。』
『でもね…先生、あいつは消えないの。毎日、毎晩。あたしを呼んであたしに触れてくる。…あいつは消えないの…』
―…
『9月16日。向井伊織さん25回目。…今日で、橘さん失踪から2年になる。レコーダーで記録するのは久しぶり。
…今日は後学の為にも記録を取ろうと思う。来院目的は以前同じ。ここの所、症状が和らいだって言っているけど、彼女の身体に気になる痣が何ヶ所か出来ていた。…自分でやったと思われる噛み跡…。
幻聴、幻覚に拠って引き起こされた何らかの対処方法とも考えられる。
彼女の様な患者は医師にとって非常に興味深い。ただ、対応には最新の注意を払わないと…。今日は特に…。
一年前の今日、彼女はとても怯えていた。…何が彼女を支配しているのか。それを探りたいと思っている。』
「これ、昨日のか?」
先程の綾の発言を思い返し、黒澤はステレオのボリュームを上げた。
『―…の…はでね。…なの―ザッ………』
『分かってます。問題解決にならない―ザッザザ………………………―』
「どうした…?」
激しいノイズ音と共に、途切れ途切れの声が録音された状態で聞こえてくる。
黒澤は、一抹の不安に駆られ、路肩に車を停車した。
『でも…。でも、どれだけカウンセリングしても、どれだけ考えないようにしても…アイツの夢をみたりするんです。…どれだけ…あたしだって…』
向井伊織であろう人物の声が鮮明に聞こえ出し、黒澤は、ホッと胸を撫で下ろした。
『ザザッ―………いおり………おまえは』
「………なんだ?」
『伊織、お前は本当にザザザッ…………―ブツッ』
「…男?」
嫌な悪感に襲われる。
黒澤の背筋に、何か気味の悪いモノが這い回る様な。
時刻は18時を回っていた。
黒澤は、何かの衝動に駆られるように、向井伊織の自宅へと車を走らせた。
時を同じくして。綾の元へ一本の電話が入った。
電話の主が向井伊織だと気付き、綾に緊張の色が走る。
「伊織ちゃん、昨日はどうして帰ったの?…先生、心配したのよ?」
綾の声に、伊織は小さな嗚咽を漏らした。
「伊織ちゃん?…今何処に居るの?」
『…先生が…消せって言ったから…消したのに…』
蜷色の蛇が喉元へ絡み付く。
綾は言葉を失った。
伊織の放った言葉は、まるで一種の呪いの様に感じられたのである。
『消したのに…消えないじゃない…』
「…―っ!!」
目の前の大きな鏡を凝視する。
綾の背後に見覚えのある二つの目が光っていた。
ソレは、鏡越しに綾を覗き込み、ぎらついた瞳を綾の体中に絡ませている。
「い…伊織ちゃん…?」
身体が動かない。
鉛の様な重圧が、足の爪先から全身へとゆっくり、そして確実に身を固めていった。
「せんせ…」
生気の無い伊織の顔が綾の耳元へ近付いた。綾は眼を伏せたが、その代わりに五感が鋭くその気配を感じ取ってしまう。
「どうしてかな?」
伊織の声に、綾は言葉を発する事が出来ない。
「どうしてかな?」
今度は重く、暗い声色を放つ伊織に、尚も声を出せずにいると、綾の右肩にぐんと力が圧し掛かった。
「せんせい…薬…ちょうだい」
「ひっ………!」
間近に響く声に、綾は思わず目を見開いた。
そこに、黒く染まるソレは居た。
二つの白い眼を向けて口元を不快に歪め嗤っている。
口元から零れる白い粒。白い眼から流れる汚泥の涙に、綾は意識を手放した。
9月17日。午後21時21分
向井伊織宅に乗り込んだ黒澤は、多量の錠剤と荒らされた室内で、変わり果てた向井伊織の遺体を発見した。
目立った外傷は無く、自殺と処理される事となったが、黒澤は、その室内の異様な臭気に顔をしかめた。
臭気は部屋中に立ち込め、黒澤の鼻を刺激する。
「黒澤さん!来てください!」
後輩刑事、
「ここ、何かおかしくないですか?」
「…確かにな。」
床の一部分。他とは明らかに異なる、妙な軋み。
畳の上などに敷くフローリング風のカーペットの下が気になった。
「おい、捲ってみろ。」
黒澤の声に、周りに居た数人の刑事が固唾を飲んだ。
葉山は代表を買って出、ゆっくりとカーペットを捲り上げる。
「うっ…!!」
猛烈な臭気に鼻を射抜かれ、黒澤は眉を潜ませる。
「黒澤さん…これ…血、ですよね?」
「あぁ。」
無数の傷で荒れた畳には、傷に沿うように血痕が残されている。
畳の下に眠るモノが何なのか。黒澤には容易に見当が付いていた。
「橘の遺体があるんだろう?」
背後に立つ男に、黒澤は身を強張らせた。
「純也、見ないのか?」
声の主を振り返る。そこには、ここには居るはずではないはずの人物が自嘲の笑みを湛え、其処に立っている。
「拓馬?!お前何でここに居るんだよ!」
「何でって…橘追ってたんだよ。で、ここに辿り着いたって訳。」
佐伯拓馬の登場に、葉山ら数人の刑事が顔を見合わせる。
ほんの数年前まで同じ署で共に闘った同志との再会は、黒澤を元、皆を動揺させるには十分であった。
「…さて、橘はどうなってんのかな?」
黒澤が放心している間に、佐伯は畳に手を掛け勢い良く捲り挙げる。
「…顔だけは無事みたいだな。」
「お前…相変わらずこうゆうの得意なんだな…」
瓢々とした態度で人とも似つかないその塊を眺める佐伯に、黒澤は呆れ声を出した。
「まぁね。ほら、俺変死体専門だから。」
自嘲の笑みを貼り付けながら、無精髭を撫でる佐伯を横目に、黒澤は橘を見下ろした。
「…こいつ。自殺したんだよ。…向井伊織の目の前で。」
「自殺だ?」
黒澤の拍子抜けした声色に、佐伯は大きな笑い声を上げた。
「そうだ。自殺だ。…詳しくは後でな。」
―…
「先生、工藤先生!」
はっきりとしない視界の端に、さっきまで握り締めていたはずの携帯電話が放り出されている。
綾は、甲高い声の女を覚束ない目で探っていた。
「先生、大丈夫ですか?…先生?」
「…ここは…」
看護師の制服に身を包んだ若い女の姿に、綾は少しづつ我を取り戻そうと必死になった。
「第一診察室です。…物凄い物音がしたんで急いで来たら、先生倒れてるんですもん。びっくりしましたよ。」
気を失って、一体どれくらいが経っていたのだろうか。
綾は記憶が定かでないままに、こめかみに響く激痛に項垂れた。
「大丈夫ですか?」
心配そうに覗き込む看護師を手で制し、綾は何とか笑みを作った。
「大丈夫よ…それより、何?ずいぶん騒がしいわね。」
「あの、それが…警察の方がいらしてまして。」
―…
後日、新宿西署では向井伊織及び橘和樹両名の事件についての発表が為される事となった。
表向きは、私情のもつれに寄る心中未遂事件として、被疑者である向井伊織の自殺が今回の事件の幕引きを図ったと公表された。
「で、何でお前が橘を追ってたんだ?
…新宿での失踪事件が、なんの因果で神奈川県警なんかにいくのかねぇ。」
黒澤は苦虫を噛み潰した顔で、佐伯をじろりと睨んだ。
「まぁ、そう言うなよ。…橘和樹は、麻薬所持の疑いで、3年程前から県警に目を付けられていたらしい。
橘の実家が川崎にあってな。実家にはもう誰も住んでないが、大量の大麻が見つかったんだよ。」
「…それで、交際相手である向井の家に転がり込んだ。」
佐伯は、黒澤の言葉に頷き返した。
「あの男は、完全な薬中でクスリの所為で起きる幻覚、幻聴に酷く悩まされたらしい。
…川崎での聞き込みで分かったんだが、橘の知り合いの男が、橘が変な事を口走るようになってたって言ってたよ。」
「変な事?」
「…―自分の女に殺されるって。」
黒澤は生唾をゴクリと飲み込んだ。
「最近付き合い始めた女に、自分と同じクスリを冗談半分で与えた。
そしたらどうだ、暴力的になり、いつ自分を殺すかも分からないくらいに変わってしまった。…橘は、向井からの暴力で精神崩壊。結果、向井の目の前で自殺って訳だ。」
「待て待て待てっ!向井は橘にDV被害を受けていたんだぞ?向井の身体に着いた痣はどう説明するんだよ。」
佐伯は缶コーヒーを一気に飲み込むと、幾つかの紙を黒澤へと手渡した。
「…これは…」
其処には、熊本県にあるとある精神病院の名前と共に、向井伊織の顔写真、そして数枚のカルテが挟まれていた。
「向井伊織は、重度の虚言壁を持つ精神病患者だ。元々生まれは熊本で、十代の時に空想虚言症と診断され長期入院させられていた。…病的な嘘吐きさ。嘘を現実にする為なら、自らを傷付ける事も厭わない。」
「あのメモは…橘のメモは本当に遺書だった…」
黒澤は口を歪めた。
事実はこんなにも救いようがない。黒澤の唇が小さく震える。
「そうなるだろうな。…向井は、自殺した橘に酷く動揺したんだろう。首から上は残して、後の部位は…」
「トイレの排水溝から、血液のカスが見付かったとよ。DNAは橘の物と一致した。」
想像力がなくとも吐き気のする異常な事態に、黒澤は目頭を抑え込む。
「向井の胃の中にも…だろ?」
「あぁ。…あの女、橘バラして、食う部分と捨てる部分と、2年かけて処理したって訳だ。」
「幻聴と幻覚が、私の処方薬で治らない訳ね。」
通った声に、佐伯の身体が緊張する。
懐かしい香水の匂いに思わず咳込んだ。
「ほんと。あなたって相変わらず。」
綾の冷たい眼差しは、あの日と変わらず佐伯へ向けられている。
「…悪い。」
黒澤はそんな二人を交互に見遣り、身を縮込めた。
「―…伊織ちゃんの症状に疑問点が複数見られたけど。これで解決したわ。」
「クスリと薬の相乗効果か?」
佐伯の質問に薄く頷き、綾は続けた。
「私が処方していた安定剤の成分の中に、大麻や錠剤のクスリと混ぜ合わせると、あっと言う間に本当の天国へ行ける組み合わせがあるの。
…伊織ちゃんが使用していたピルケースの中には、うちの病院で処方されていた安定薬の他に、錠剤型の薬物が紛れ込んでいたわ。幻覚作用や幻聴はそれによって引き起こされていたのでしょうね。」
「…なるほどね。」
佐伯の声に、綾は眉根を寄せた。
まだ慣れない距離に胸が詰まる。
「…私そろそろ戻るわね。じゃあね、黒澤。…―あなたも、元気で。」
綾は佐伯を一瞥もせず背を向けた。
その凛と立つ背中に向い、佐伯は自嘲する。
「拓馬、俺な、心霊現象?って奴を体験したよ。」
「なんだ?急に。」
「綾から預かったCDに向井伊織の診察記録が録音されてたんだけどよ。」
「…。」
「9/16日の診察記録。つまり、向井が死んだ日だな。
…それに、橘の声が入ってたんだ。」
「…。」
「でな、聞きなおしたんだよ。」
「…。」
「…そしたら、ノイズも何も入ってなかった。」
「…。聞き間違えだろ?」
「綾が言ってたよ。9/16日は、記録してねーって。」
「…こわっ。」
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