道化師の繭

滝川 うみ

ZERO:清く正しき人生計画


 「もう…無理。限界なの。」

 ―蝉の声が耳元近くで喚きだしている。何かしろと、せっつくみたいに。

 今になって思えば、あの時からこうなる事を予感していたのかもしれない。―



 夏の夜は嫌いだ。蒸し暑い上に、感情を逆なでる。

 冷えた風を浴びたくて窓を開ければ、湿った空気に交じって雨の匂いがする。俺の苛立ちは、到底収まりそうもない。



 煙草を燻らせよう。そうすれば、大抵の事にケリをつける事が出来る。

 自分の前に並ぶ幾つかの紙切れを横目に、深く煙を吸い込んだ。

「…時間がないの。早くして。」

 こちらを一瞥したしかめ面の女の目を覗く。直様その瞳は逸らされて。

しょうはどうする?…あいつはまだ―」

「私の子なの。…今更父親面も何もないでしょ。」

 俺の意見はどうやら用無しのようだ。

 情けないと髪を掻き上げた所で、状況が一変するはずもない。

 こうと決めたらこう。彼女はそうゆう女で。

 覚悟を決めて、薄い紙に手を伸ばした。均整の取れた字が眼に飛び込む。

 何の感情もそこには感じ取れはしない。

 少し前まで自分のモノだと思い込んでいた「妻」という名の肩書を、容易く―無論、多くを悩んで―消し去るだけの勇気くらいなら感じ取れる。


 ペンを取って、「夫」という名の肩書を取る準備にかかる。

 ペン先が紙に触れた途端、酷く孤独を感じた。彼女も感じたのだろうか。

 ―…聞いてみようか。いや、止めて置こう。

「…これから、どうする…?」

 時間稼ぎをする様に、ゆっくりと文字を進める俺の質問に、彼女は何を言うでもなく溜息を吐いた。

「これから俺に出来る事は…その…金銭面以外で、何か…。」

 もう少しだけ。君との時間を。

 俺の話に大した意味なんてない。ただ、時間がもう少しだけ欲しいんだ。それが今の自分に出来る精一杯の事で。

 それを良く知る彼女は、俺に鋭い眼を向けて唇を震わせる。

「いや、馬鹿な事言って悪かった。…本当に…。」

「書いたの?」

 俺を見る事なく、その声だけが部屋に響いている。

 彼女との会話がこれで最後になるかもしれない。何か一言位、引き留める言葉はないのか?

 頭を巡る声はどれも情けのない男の声ばかりだ。

「…あぁ。」

 印鑑を取り出す。いつもなら、何処に置いた?なんて具合に探し回るのに、今日に限って、直ぐに見つかるそれに眉が自然と寄るのが分かった。

 判を押し当てて数秒。彼女の香水の匂いが近くに香り、顔を上げた。

「…どうも。」

 目の前に感情を全て失くした一人の女が立っている。

 俺の手に在った薄い紙切れは、彼女の手の中に収まっていて。記入漏れの確認だろうか。眼を忙しなく動かしたかと思えば、早々とカバンの中に押し込まれた。

「それじゃ。」

 一連の仕草を眼で追っていた俺の前に、彼女の手が差し出された。掴もうと伸ばす掌に、冷たい重みが広がる。用済みの部屋の鍵と気付く頃には、彼女の姿はなかった。


 ―7年。共に歩んできた7年の歳月。いつからかそれは一人で進む道に変わってしまっていた。

 あやとの間に出来た溝に、気付く事すら出来ずに突き付けられた別れ。最愛の人、そして二人の宝とも言える子供。その全てを失う事になる現実。


 どうして人は、引き返せなくなるその日まで、何も気付く事が出来ないんだろう。

 どうして俺は、この現実を変える術を持たない。


 煙草を引き抜く。咥えても、火を翳す気力がない。ただ、真っ白に塗られた天井にぶら下がる、電球の淡いオレンジを見ていた。

 雨の音がする。徐々に大きくなる雨音に耳を貸して、俺は瞼を下した。



 …―



「さようなら。…そう言えば良かったのに。」

 くすくすと笑う女の声で、俺はハッとした。

 世間話のつもりでしていた身の上話に、陶酔していたようだ。

佐伯さえきさん?」

 名前を呼ばれて、声の主と視線を合わせた。

 不思議そうにこちらを見るその人は、俺の言葉を待っているのか、頬杖を付きながらじっと押し黙っている。

「すみません…。こんな所でする話じゃなかったですね。」

「ふふ…気にしないでください。私もバツ付いてますし。離婚なんて珍しい話じゃないでしょ?」

 彼女の端正な顔が、自嘲の笑みで歪んだ。咄嗟に後悔の念に駆られる。

 俺はなんでこんな話をしてんだ?良くも知らない相手にベラベラと…。

「…こうゆうの、慣れてないものですから。その…本当、すいません。」

 冷え切ってしまったコーヒーを一気に飲み干した。

 気まずい空気がそれで変わる訳もないのだが。

「―それで、これからどうします?」

 カップを皿に戻したと同時に投げ掛けられた質問。彼女の意図が見えない。

「あぁ、じゃあ…腹、減ってますか?飯でも行きますか?」

 思い付くまま答えを返す。彼女は面白くなさそうに首を横に振った。

「今日の事、誘ったのは私です。佐伯さんともっと深く知り合いたくて。…食事もいいですけど、それ以外でも…どうですか?」

 女の顔。考えてなかった訳じゃない。男女で、しかも夜に待ち合わせ。そんな展開

 あるにはあるだろう。

 只、彼女は俺の同僚から紹介された人で。それ以上の事は何も知らない。

 どうする…。

「まだ、何か言った方がいいですか?」

 俺の真意を探るその猫なで声に、身体が緊張していく。

「…いえ。…あの、今日は帰りませんか?」

 強張った顔に、必死の笑みを作る。

 明らかな動揺。そんな俺を見てか、彼女は少し顔を赤らめて下を向いた。

「…あーあ。残念。振られちゃいましたね。…佐伯さんって、見た目と中身のギャップありすぎ。もっと積極的かななんて期待してたのに。…案外、慎重な方なんですね。」

 恥ずかしい思いをさせてしまったのだろうな。

 自分がどう見えているかなんてのは、解りかねるもので。只、少なからず期待を裏切ったという事だろう。

“据え膳食わぬは男の恥。”今日はそれでも、そんな気になれない。

 俺は、店員を呼びつけ会計を頼むと、彼女に向き直った。

 彼女はと言うと。俺とは視線を合わさずに、急いで身支度を整えながら、今にもここから走り去りたいと言わんばかりに、足をソワソワと動かしている。

 会計が済むまでの数分間。彼女に何を話すこともなく、やり過ごした。



 綾、君と別れてもう2年が経つ。俺は相変わらずで。不器用な男と言うには聞こえが良すぎるだろう。

「ろくでもないよな…。」

 タクシー乗り場で彼女を見送り、帰り際にかけられた「ご馳走様でした。」は、二度と逢う事ないでしょうけどを付け加えられた様な、何とも冷めた言葉だった。

 30を過ぎたであろう独り身の女性に対して、余りにも不躾な対応だったろうな。


 夜風が急に冷え込み出した。こんな時にも俺は、綾の顔を思い返している。

 まだ2年。どんな風に笑っていたっけ?最後に見たのはいつだった…?



「愛してたよ。ずっと。愛しているよ。」

 そう言えれば、無気力な自分を少しは慰めれていただろうか。

 

 ―…ピピピピピ…ピピッ

「はい…あぁ、女見付かった?…分かった。今から向かう。」

 感傷に浸る間もなく鳴り出した電話のベル。

 無理矢理現実に引き戻される。

 仕事ってのはこういう時、ある意味便利だ。

「…行くか。―にしても暑いな。」




 夏の夜は嫌いだ。俺の感情を逆なでる。











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