咲かないサクラ
冷えた空気が頬を刺している感覚が、わたしを現実の世界へと連れ戻した。左手をカーテンの木漏れ日にかざしてみる。
その変わり映えしない光景がわたしを落ち着かせた。
これは、わたしの小さい頃からの癖だ。
腕を伸ばし先端の手を見つめる。
どうしてか、この癖は歳を重ねても抜けない。そうしていると伸ばしていた手が冷えてしまった。温めなおそうと布団に手を潜らせる。
意識を右手に移すと温かい人の温もりを感じた。
そういえば秋と手を繋いだまま寝ちゃったんだっけ。繋がった手を離さないようにわたしは身体を秋の方に向けた。
隣で寝ている秋は起きる気配がない。
その桃色に色付いた頬をそっと撫でてみる。
しっとりとした肌は少し冷たかった。
「秋、好きだよ」
呟くように口に出してみる。届くはずのない言葉を。
いつの間にか大きくなった好きがわたしを支配していた。秋はそんなわたしを拒絶したんだ。
いや、正確には距離を置かれたのかな。
こんなに近くにいるのに、わたしは秋を遠く感じた。
それでも、愛おしい。
もっと触れたい...。
この欲が無ければ、わたしたちはずっと友達でいられたはずだ。
嘘に塗りつぶされた友情は美しいとは思わないけれど、終わりを予感するよりもマシだったかもしれない。
秋ならこの気持ちを受け入れてくれるとでも思っていたのか。我ながら馬鹿だなぁと思う。
キスしたからって特別とは限らないのに。
人の気持ちは分からない。どんなに心が通じあっていると思っていても、相手は案外違うことを考えていることもある。
いや、そっちの方が多いかも。
人の気持ちなんて分からない。
特に恋愛感情なんて余計理解不能だ。
しかも、女の子同士で。
そのせいでもう触れられない。
この頬にも、この唇にも。
もう、触れられない。
失恋ってこんな気持ちなんだ。
秋と出会ってから初めて知る感情ばかりで少し戸惑う。
まだこの感情の処理の仕方をわたしは知らないから。
秋が寝返りをうち、そのまま目を覚ました。目が合う。
「おはよう」
「おはよ」
今までに無かった違和感を感じる。それが何なのかよく分からないまま、わたしは次の言葉を紡ぐ。
***********
病院から電話が入ったのは沙生の家に泊まってから数日後の事だった。なんとなく予感はしていたから、そんなに驚きはしなかった。
間に合うかな?そんな疑問が冷静に自分を支配していて正直驚いた。
わたしは父の死を既に受け入れている。
病院につくと若い看護師さんがわたしを待っていて、お父様は大変危険な状況ですなんてお決まりの科白を言うもんだから、少し笑ってしまいそうになった。
自分でも不謹慎だと思ったが、それくらいわたしは冷静だった。
廊下には前を歩く看護師さんとわたしの足音が木霊している。
父の病室に近付くにつれ人の声が増えてきた。
誰かが泣いている廊下。
機械音の鳴り響く病室。
この音が続く限り父は生きている。
やがて音は静まり、残音は元妻である瞳の泣き声のみとなった。
わたしはそんな彼女を見て、こんな風に自分が死んだ時に泣いてくれる人が居てくれたら幸せな人生だったって言えるのかなあ、なんて呑気に考えを巡らせていた。
************
大学二年生の最後のテストが終わった。
鞄にペンをしまい、スマホの電源を入れる。
今日も秋からはなんの返信もない。あの日以来わたし達は一度も会っていない。
普通、同じ学科だったらすれ違うくらいはあるはずなんだけど。
もしかして、避けられてる?
でも、英語の最後のテストにも来ていなかった。
そもそも秋は大学に来ていないのかもしれない。
そんなにわたしに会いたくないのか?
秋の家に直接行ってみるのも考えたけど、さすがにちょっとストーカーっぽく思えたのでやめた。
そこで今日は秋のお父さんが入院している父の病室に行ってみることにした。丁度テストも終わったし。秋のお父さんなら何か知っているかもしれない。
なんて考えは甘かった事をわたしは数時間後に味わうことになる。
秋の父の病室に着くともうそこには彼の姿は無かった。嫌な予感がした。
すぐに父に会いに行く。
「ねぇ、このあいだの船見さんて退院したの?」
「あっ、先日亡くなられたんだ。ごめんな沙生...」
「いつ?」
「三週間前くらいかな」
ちょうど秋と連絡が取れなくなってからそれくらい経っていた。偶然とは思えない。
やっと辻褄が合う。
わたしはそのまま病院を飛び出した。
とにかく秋に会いたかった。そばにいたい。
息を切らし走る。まだ冷える冬空の下をなりふり構わず駆け抜けた。
今すぐあなたに会いたい。
アパートに着いたときには夜になっていた。何度も訪れた秋の家。まずはスマホで電話をかけてみる。
・・・プープー只今電話に出ることができませ...ぷつ
聞き終わる前に電話を切る。何度も聞いたこの声、もう聞き飽きた。
呼び鈴を鳴らす。一度、二度、三度...
何度呼んでも出る気配がない。
「船見さんのお友達?」
不意に声を掛けられ驚く。
暗い照明に照らされた品の良さそうなおば様が揺らっとそこに居た。
「はい」
「私ここの大家です。船見さんは先日お引越しになったわよ」
「えっ?」
「あなたも知らなかったのねぇ。ここ数日、あなたみたいに彼女を訪ねてくる人が何人かいたのよ。でも、皆さん何も知らされてなかったみたいで驚いていたわ」
「あの、秋...船見さんはどこに引越したか分かりますか?」
「いいえ、ごめんなさい。何も聞いていないわ」
秋が、いなくなった。
どうしようもない絶望がわたしを襲う。
あれだけ走っても疲れを感じていなかったはずなのに、今更になってどっと疲れが現れた。膝ががくんと落ちる。
「ちょっと大丈夫?」
大家さんがわたしの身体を支えてくれるが、わたしよりも小さいその身体には無理だったみたいだ。二人して床に倒れ込んでしまった。
「すみません」
もう会えないかもしれない絶望と、何も知らされていなかった疎外感。わたしの心を折るのはそれだけの理由で十分だった。
子供みたいに泣くわたしを彼女がなだめてくれるが、それが余計にわたしを哀しくさせた。
もうわたしを支えてくれる人は秋ではないと、そう言われているように感じたから。
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