本当のきもち



 沙生から突然連絡が入ったのは、冬休み最後の日だった。

 クリスマスのお礼がしたいから、うちに来て。沙生はそれだけ伝えると電話を切ってしまった。

 なんだか、その切りかたが沙生らしくないなと思いながらも支度をする。

 スッキリしない頭を覚まそうと、お気に入りの赤いマグカップにブラック珈琲を淹れた。

 無機質な部屋の中に、珈琲の苦い香りが充満する。マグカップを右手に持ったまま、朝のルーティーン化した日めくりカレンダーを捲る。

 一月十五日

 そういえば今日は家庭教師をしている美久ちゃんの高校受験の日だ。

 あの子は英語が苦手だから、ちゃんと解けてれば良いけれど。英語以外は出来るんだけどなあ。きっと、真面目にやれば英語だって出来るようになるはずだ。

 基本、真面目でいい子。

 でも、どこか不思議な子でもある。

 クリスマスの日、沙生と里美の家で留守番している時に美久ちゃんから電話が掛かってきた。

 内容は大したことじゃなかった。最初は英語で解らないことがあるから教えて欲しいという内容だったと思う。

 でも、途中から彼氏の愚痴大会が始まった。

 クリスマスなのに会ってくれないとか、嫉妬深いとか、そんなことを言っていた気がする。

 わたしからしてみれば、なぜそんなに愚痴があるのにその人と付き合っているのか分からない。

 だから、美久ちゃんはわたしにとって謎の生き物だ。

 人に対する負の感情を、他人に吐露してしうまで付き合い続ける意味とはなんなのだろう。

 わたしは面倒臭い、そういうの。

 人はどんなに親しくなっても永遠に他人だ。

 親でも、恋人でも、親友でも。

 別個体である限りわたしたちは一つになれない。

 まぁ、美久ちゃんの言っていたことは殆ど惚気なんだろうけど。

 珈琲の入ったマグカップをテーブルに置く。

 さて、今日は忙しいぞ。

 沙生の家に行く前に、会う約束をしている人がいるから。

 履きなれたジーンズにアイボリーのベルトを通し、コートを羽織り家を出た。


 待ち合わせ場所は喫茶店だった。珍しく今日は遅刻していない。

 今日のわたしはとても優秀だ。沙生がいたら褒めてくれるだろうか。

 朝も飲んだ珈琲をここでも頼んだ。

 高校生だろうか、新人と書かれたバッジを胸につけた少女がたどたどしく珈琲をテーブルに置いた。

 にこっと笑ってご注文は以上でしょうかと聞いてきたので、笑顔ではい、と答えてみる。

 少女は何度もお辞儀をしてカウンターの中に消えた。

 と、思ったら戻ってきた。

「すみません、伝票を」

 なるほど、確かにあのバッジは必要かもしれない。

 入れたての珈琲を口に含む。家で淹れた珈琲よりも濃い。

 美味しいけれど、少し苦味と酸味が強すぎる。

 いつもは入れないポーションクリームを加えた。

 随分まろやかになった珈琲は珈琲ではなくなっていた。

「秋ちゃん、お待たせ」

 顔を上げると、ショートカットの女がわたしを見下ろしていた。

 ゆったりとした動作で彼女は椅子に腰掛けた。

「瞳さんから呼び出されるとか、珍しいですね」

 船見瞳

 父の四人目の再婚相手。

「ごめんなさいね、突然」

 あぁ、これは良くない話だな。

 何となくそう察する。

 ごめんなさいと言ったときの、目の伏せ方、眉の下がり方。

 何度もわたしはみてきた、こうやって謝る人を。

「お父さんと離婚することにしたの」

 やっぱり。

「そうなんですか」

「理由、聞かないのね?」

「聞いてもどうしようもないじゃないですか、それに...」

 わたしには、かんけいない

「まあ、そうよね。話したところで結果は変わらないわ」

 ほらね、やっぱり世界は残酷だ。

 全部変わっちゃう。

 変わらないものなんてない。

 だから結局、誰かを愛することは無意味なんだ。

 永遠を誓って結婚したくせに。

 大人って馬鹿だなあ。

 なんて、大人になったわたしも同じか。

「一つ聞いてもいいですか」

「なに?」

「なぜ父と結婚したんですか?」

 ずっと疑問に思っていたことだ。

 瞳さんは若くて美人だ。別に父でなくても結婚相手なんていくらでもみつかったろうに。

 あの人のどこに惚れたというのだろう。

 お金?

 でも、瞳さんほどの容姿を持っていれば父以上の財力を持った男なんて簡単に落とせるはずだ。

 この人もまた、美久ちゃんと同じように不思議なひとだ。

 新人ウェイトレスが水の入ったコップを瞳の前に置いた。

 空気を読まず、少女は瞳にご注文はいかがなさいますかと聞いている。

 わたしはその様子に少し苛立ち、甘すぎる珈琲を口いっぱいに含んだ。早く答えを聞きたいのに。

 瞳はチーズケーキと抹茶ラテを頼んだ。長居する気なのだろうか?

「甘いもの好きなんですね」

 くすくすと彼女は笑った

「彼が、秋ちゃんのお父さんがよく頼んでいたのよ」

「え?」

 知らなかった。父がここに来ていたことも、甘いものを好んで食べていたことも。

「二人で仕事終わりによくここに寄ったのよ。私はね、そんなに甘いもの食べると体に悪いから程々にねって言ってたんだけど。全く聞いてくれなかったわ。本当に頑固なのよね」

 わかります。あの人は頑固ですよね、とても。

「好きになんてならないと思ってた。彼、バツ沢山ついてるし、私より全然年上だし、お子さんもいて...」

 瞳さんはわたしの顔を見て少し寂しそうに笑う

「それでも、一緒にいるうちに凄く好きになってた。自分でも驚いちゃうくらいにね」

「その、どこが良かったんですか?」

「どこが好きとか無いのよ。あぁ、でもそうね。ひとつ言えるのは彼の纏う空気かしら」

「空気ですか?」

「そうよ。私は、彼と出会うまで誰に対しても同じような感覚にしかならなかったの。でもね、彼と出会って一緒にいるだけでこんなに幸せな気持ちになれるんだって知ったの。彼の創り出す空気がとても好きだった」

 その人が創り出す空気...。

 どういう事だろう。

 チーズケーキと抹茶ラテが運ばれてきた。今度は伝票がしっかりと置かれている。

 瞳は美しい動作でチーズケーキを口に運ぶ。ずっと見ていたいような気分にさせる。

 不意にチーズケーキが口元に差し出された。

 じっと見つめていたからわたしがチーズケーキを食べたいと思ったらしい。

 恥ずかしいが、向けられたフォークに刺さったチーズケーキを貰った。

 濃厚でしっとりというか、ねっとりとまとわりつく。とても甘い、一口でじゅうぶんだ。

「別れてくれって言われたの」

 どうして、なんて聞かなくてもわかる。父はきっと瞳さんを自由にしたかったのだ。

 病気の自分が彼女の負担にならないように。とても父らしい気がした。

「私じゃ駄目だったみたい、信用してもらえなかった。秋ちゃん、ごめんなさい」

 瞳は綺麗に塗られた化粧を洗い流すかのように、泣いた。

 わたしはなす術をなくし狼狽える。

 色々とキャパオーバーだ。

 取り敢えず、ハンカチを渡しその大きな瞳からこぼれ落ちる涙を拭き取るように促す。

 涙を流す美人は美しい。

 そのせいか、小さな店内でわたしたちは凄い注目を集めていた。

 なんだか、わたしが泣かせたみたいじゃないか。違うんですよ、ちがいますよ、そんな雰囲気を醸し出してみる。

 醸し出せてるかは別として。

 なんとか瞳を泣き止ませ店を出た。

 お会計をする時、まだ目に涙を溜めた瞳さんがわたしの手から伝票を奪い取りお金を支払ってくれたが、会計をしてくれた店員さんは私たち二人を怪しげな目で見ていた。

 もう、この喫茶店は遠分来られないな。

「ご馳走様です」

「いいのよ。それより、ごめんなさいね。突然泣いてしまったりして」

 良いですよと首を振った。

「瞳さんが良ければなんですが、父との事考え直して貰えませんか?お願いします」

 わたしの予想外の発言に瞳は目を丸くした。

「秋ちゃんからお父さんのこと頼まれるなんて思ってなかったから、少し驚いたな」

「わたしは、父の娘です。けれど、それ以上でもそれ以下でもない。それに、お父さんがそばにいて欲しい人はわたしじゃないから」

 そして、わたしが側にいたい人はお父さんでもない。

 つまり責任放棄。

 責任なんて持ちたくなかった。

 父と娘と言うだけで彼の責任を背負うなんて勘弁して欲しい。

 出来るだけ、なにも背負わずに生きていきたいのだ。

 もう、なにかを失うのは懲り懲り。

 お母さんみたいに、みんないつか居なくなるんだから。

 瞳はまた目に涙を溜めて頑張ってみると言った。


 沙生の家に着いたのは六時。

 あの後、瞳を見送り、一度家に戻ったからだ。

 リビングに通されると甘くいい匂いがした。

「クッキー焼いてみたんだ、お母さんに教えて貰ったから味の保証はするよ!」

 焼きたてのクッキーは少し柔らかく、でもサクサクしている。

「美味しい」

「本当に!?良かったー」

 沙生は嬉しそうに頬を緩めた。そんな顔をされると、頭を撫でてやりたくなる。

 我慢出来なくなって頭をワシャワシャすると、沙生に子供扱いするなと逆に反撃された。

 お互い髪がぼさぼさ。

 なんだかそれが無性に可笑しくって二人して大笑いした。

 沙生といると、どうしてこんなに楽しいのかな。

「うち今日誰も帰ってこないから、秋泊まっていきなよ」

 泊まりと聞いて心臓がドキリとする。

 ちょっと、わたし、何を考えてるの?

 でも、考えずにはいられない。

 この間はキスをした。

 しかも、ちゃんと同意を得たキスだ。プレゼントという大義名分付きだったけれど。

 あんな事があって、しかも泊まりで、今夜は誰も帰ってこないとか、そんなの誘ってるとしか思わないよ、普通。

 まぁ、わたしが男だったらの場合だけど。

「それじゃあ、泊まらさせて貰おうかな」

 お夕飯何がいいと聞かれ、ハンバーグ!と答えると笑われた。

 材料が無かったため、二人で近くのスーパーに買い物に行くことになった。

 キンと冷えた外気が夜道を支配している。

 沙生が手を息で温めた。白い息が漏れだしている。

「寒い?」

「寒い」

 沙生の手を自分のポケットに入れた。

「あったかい?」

「うん」

 手よりも、顔の方が暖かくなったみたいだ。うっすら色付いた気がした。暗くてよく見えないけど。

 手を繋いだままスーパーに入るのはさすがに目立ちすぎるので、暗黙の了解で指が離れる。

 少し名残惜しい。もっと触れていたかった。そんな気持ちが離れた途端湧き出る。

 沙生を見ると、さっきまで繋いでいた方の手には玉ねぎが握られていた。

 わたしが籠を持ち、沙生がどんどんと具材を入れる。

 なんか、同棲中の恋人同士みたいだ。

「ソース何がいいとかある?」

「デミグラスソース!」

 沙生が秋ってほんと子供みたいだね、なんて言うからわたしは少し不貞腐れる。

「ほら、そういう所とか」

「子供じゃないもん」

「見た目はねぇ」

 むむっとなったが、これ以上言うと余計に墓穴を掘りそうなのでやめた。


 ハンバーグはとても美味しかった。ちょっと焦げてるけど、そこを見なければなかなかの完成度だと思う。

 二人でなにか作ったのは初めてで、新鮮で楽しかった。

 家で誰かと向かい合わせにご飯を食べるなんて久しぶり過ぎて不思議な感じがする。

 でも、なんだかとても幸せ。

 そうか、幸せってこういう事を言うんだ。

 好きな人と食べるご飯ってこんなに美味しんだ。

 わたしはやっとその事に気がつく。

 こんなことを気づくのに二十年以上かかってしまった。

 それでも、気が付けてよかった。

 知らないまま死ななくて、本当に良かった。

 心底そう思う。



「秋、先にお風呂入っちゃって」

 風呂場には新しい下着と、パジャマが置かれていた。

 この家にくると、人の温もりを感じる。

 愛に包まれている、そんな錯覚を覚えてしまう。

 わたしが、一番恐れていること。


 お風呂からあがると、沙生が髪を乾かしてくれた。

 相変わらず、気持ちいい。

 幸せすぎて死んでしまいそう。

 もういっそ、この瞬間に死んでしまいたい。

 本気で思った。

 わたしの中に、こんな気持ちが眠っているなんて知らなかったから驚く。

 沙生と出会ってからわたしは変わった。

 いや、自分でも知らなかった自分が表に出てきただけかもしれない。

 乾きたての髪を指ですいてみる。シャンプーの香りが手について、その香りが沙生の香りなんだと思うと胸が苦しくなった。

 泊まりかぁ。

 静まっていた鼓動がまた騒ぎ始める。


 沙生が風呂からあがり、わたしが沙生の髪を乾かしてあげる。

 髪を乾かし合うのをわたしたちは気に入っていた。

 沙生の柔らかい髪の毛を乾かし終え、白い首筋が露わになる。

 なんだか、見てはいけないものを見てしまったような気がして目をそらした。

「秋どこで寝る?布団敷く?」

「沙生と一緒に寝ちゃダメ?」

「いいけど、狭いよ?」

 全然いいと答え二人で同じベッドに入る。

 確かに狭い。でも、暖かい。

 そして、顔が近い。

「電気、消すね」

 部屋の明かりが頼りないオレンジの小さな豆電球のみとなった。

 お互いの顔がやっと認識出来るくらいの。

 少し動くと身体がぶつかってしまう。

 その度に、わたしの心臓が高鳴る。

 やっぱり、別々の布団にしておけば良かったかも。心臓がもたない。

「秋、起きてる?」

「起きてるよ」

 少しの沈黙

 一瞬酸素が消えたかと思った。

「ねぇ、秋って好きな人いる?」

「え?」

 すきなひといる?

 暗号のようなその言葉。

 英語のリスニングより理解しにくい。

「沙生はいるの?」

 いるって言われたらどうしよう。

 臆病者のわたしが聞いてしまったことを直ぐに後悔する。

「いるよ」

 あぁ。

 それが、わたしであってほしい。

 でも、わたしであって欲しくない。

 矛盾する、気持ち。

「だれ?」

「秋、知ってるでしょ」

 震えた声と、揺れるベッド。

 それが、答えだ。

 嬉しさと、不安がわたしを支配する。

 お互い向き合うように体を傾かせた。

 ちょっと動けばキスできる距離。

 息の匂いがする。混ざりあって、どっちの匂いかも分からない。

 なにか、言わなくちゃ。

 でも、言葉が見つからない。

 だって、何を言ってもわたしには責任を取れないから。

 きっと、沙生も居なくなる。

 わたしたちの関係に名前をつけても、ただの鎖にしかならない。鎖はいつか腐って、わたしたちを錆びつかせてしまうだろう。

 だったら、今のままの方がいい。

 曖昧な関係。

 いつかお別れしても、何も残らない。

 その方が傷つかなくてすむ。

 ごめんね、沙生。

「わたしは、沙生のこと好きだよ。友達として」

 暗くてもわかる。

 沙生の悲しそうな表情が。

 ごめんなさい、ごめん、沙生。

 臆病者でごめん。

「秋は友達とキスするの?」

 わたしの肩の辺りを沙生が掴んだ。

 強い力だった、何かを願うような。

「するよ」

 にっこりと笑ってみる。

 沙生の頬を涙が伝った。

 今日は人を泣かせてばかりだ。

 よくないなあ。

 左手で沙生の頬を拭う。そのまま自分の胸に抱き寄せた。

 これがどれだけずるい事かも知っている。

 それでも、こうせずにはいられなかった。

「沙生、ごめん」

「どうして、秋が謝るの?」

 いつの間にかわたしも泣いていた。

 キスまでしておいて、いまさら友達だと言う。こんなわたしに泣く資格はない。

 それでも沙生が悲しいと、わたしも悲しくなってしまう。

「秋、キスして」

「え?」

「今日で最後にしよう、こういう事するの」

 本当は嫌だ。この温もりを手放すなんて、そんな約束したくない。

 でも、手放したのはわたしだ。

「分かった、最後にしよう」

「電気、消していい?泣いてる顔見て欲しくないの」

「うん」

 真っ暗の部屋。何も見えない。

 でも、沙生がいる場所はなぜかはっきりと分かる。

 ゆっくりと覆い被さるようにキスをした。

 しょっぱい。

 こんなに切ない気持ちでキスをするのはこの先の人生でも今日が最初で最後だろう。

 甘い吐息がわたしの心を余計締めつける。





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