5章 この感情に名前をあげましょう
時の流れ
忘れてしまったこと。
ずっと覚えていること。
その違いは何なのだろう。
私はなにを持ち続けていたいの。
自分にそう問うてみる。
天国のお父さん、忘れてしまってごめんなさい。
もう会えなくても、私は永遠にあなたを愛しています。愛しています。
冬休みも残すところ一週間となり、私は今日もリビングでお正月のテレビを流し見していた。隣のキッチンでは、母が何やら作っている。甘い匂いがするから、多分スイーツだろう。正月になると和食中心のメニューに偏るため、飽き性の母はこの時期になるとお菓子を作り始める。
今日は夜勤の父が帰ってくるので、きっと彼の好きなバタークッキーでも焼いているのだろう。
私もお母さんの作るお菓子好きだからいいんだけどね。
お正月は家を出なかったから、体が大分固くなっていた。ソファーの上でストレッチをする。最近、少し太ったかもしれない。
まずいなあ、流行りのホットヨガでも通おうかな。
そんなことを考えていると、リビングから母が現れた。
「沙生、このクッキーお父さんの所に持って行ってくれない?」
「えー、なんで?今日帰ってくるんじゃないの?」
「それが帰ってこれらなくなったらしいのよ。だから差し入れ持って行ってあげて。沙生が行くと義之さん喜ぶから」
父は大学病院で医師をしている。医者というのは正月なんて関係なく、忙しそうだ。
夜勤続きの父とは、今週一度も顔を合わせていなかった。
会いたいが、わざわざ病院に行くほど会いたいというわけでもない。うーん、しぶしぶ母のクッキーを受け取る。いい匂いがした。
たまらなくなって、一枚だけ袋からぬきとり口に運ぶ。
サクッといい音を立てて、焼きたてのクッキーが口の中でホロホロとほどけた。
最高に美味しい。やっぱりお母さんの焼いたバタークッキーが一番旨い。目を閉じ、幸せに浸っていると
「あっ!こら、それは義之さんのよ。沙生のも有るから」
母に注意され、父用のクッキーを袋にしまった。
父の働く病院までは、バス一本と電車四駅程の距離がある。片道、一時間半と言ったところだろう。私にとってはなかなかの遠出になる。幼かった私は、よく母に連れられてこの病院に行ったらしい。
あまり記憶はないが、母がよくその頃の話をするので、自分の記憶のようになってしまっていた。
三時のバスはとても空いていて、乗客は私を含め四人だけだった。バスの中は暖房が効いているとはいえ冷えていた。キャラメル色のダッフルコートとマフラーを身につけていても寒かった。
今日はどうやら、本格的な冬の日のようだ。寒くて凍えそう。
バスを降り、電車に乗る。電車内には人が多く、むわむわした空気が唯一、露出した顔を覆った。私はこの空気が苦手だった。
なんというか、どうも人の息の中にいるような気がしてしまう。こういう時はひたすら目を閉じ意識を遠のかせるに限る。
気がつくと電車に揺られ、父の働く病院の駅に着いていた。
降り損ねることも無く、扉から吐き出される。
ここから病院までは歩いて五分ほどだ。
たいした距離ではないためすぐに着いた。
この間も来たが、大学病院は大きい。その大きさに気圧される。
そして、この大きな建物の中には体のどこかに不具合を抱えた多くの人たちがいるのだ。
改めて、自分の健康な体に感謝する。
ここに来ると、毎回そんなことを考えてしまう。人は平等とか言うけれど、全然そんなことはない。
産まれた時から幸福量とか決まっているのかな。よくわからない。それでも、皆が幸せに慣れたらいいのになあ。
歩き出すと手作りクッキーの袋がカサカサと音を立てて鳴っていた。
病院の屋上が、私たちの待ち合わせ場所というか、暗黙の集合場所になっていた。
こんなに寒い日でも、その決まりは変わらない。
屋上に着くと、もうそこには先客がいた。
ひょろりと痩せた男。彼も体のどこかに不具合を抱えた人間だろう。
点滴が垂れた鉄の棒を持ち、こんなに寒い空の下にただ立っている。
男が人影に気がついたのか振り返った。
目が合う。
その目が誰かに似ている気がしたが、よくわからない。
相手が何も言わないので、私は気まずくなってこんにちはと言った。
「こんにちは」
「寒くないんですか?」
「ええ、外が好きなんですよ」
彼は、本当に好きなのだなと分かる表情をしてそう言った。でも、なんだか少し寂しそうにも見えた。
「お嬢さんも、どこか悪いのかい?」
問い詰めるようでもなく、優しい聞き方だった。少し心配したような声色。
きっと、この人は優しい人なんだろうなと思わせる温度も含んでいる。
「いいえ、父がここで働いているんです」
「あぁ、そうですか。それは良かった。こんなに若いのに病院生活なんて、とても居た堪れない」
彼はそう言って目尻を下げて微笑んだ。
やっぱり誰かに似ている気がした。
誰だろう?
うーん、と頭を悩ませいてると後ろの扉が開いた。
白衣を纏ったよく知る顔の男の人。
一週間ぶりの父だった。
ただ、父は娘との再会より、ひょろりと痩せた男に注意を払った。
「屋上に出てはいけないと言いましたよね」
「ここは私のストレス解消場所なんだ、正月の時くらい大目に見てくれよ」
「こんな所で倒れたらどうするんです?ナースコールも無いのに」
「その時は、そのときだ」
父がため息をつく。諦めたのかやれやれといった様子だった。
そこでようやく父は沙生に気がついたのか久しぶり、よく来てくれたなと言った。
「これ、お母さんから」
クッキーを渡す。
「やった!これ大好きなんだよなあ」
「一枚食べちゃった、ごめんね」
「なに!?」
父の子供のような表情に笑う。
さっきまで凍えるほど寒く感じた空気も、そんなに気にならなくなっていた。
そんな二人を遠目に、痩せた男が微笑ましそうに見つめていた。
「そうか、あなたが先生の娘さんだったんですね」
「え、はい?」
「よく先生からお話を聞いています」
どうやら彼は父の患者らしい。
私の話とは、父は一体どんな話をしているのだろう。少し気になる。
「私にもあなたと同い年の娘がいるんですよ」
「どんな子なんですか?」
「真っ直ぐで、やさしい娘です。でも、私は嫌われている、あの娘を裏切りすぎた」
「会いに来てくれないんですか?」
「前に一度だけ来てくれました。絶対に来ないと思っていたのに、あの時は本当に嬉しかった」
私はそこでようやく気づく。
彼が何者であるかを。
なんだか、出来すぎた話な気がした。
きっと、彼が秋の父だ。
確信はまだないが、間違いないだろう。
秋を泣かせるだけの力を持つ人。
秋の過去を知る人。
私はただ知りたいと思った、秋のことを。
「なぜ、娘さんに嫌われてしまったんですか?」
いきなり突っ込みすぎたか?
彼は少し驚いた顔をしたが直ぐに表情を戻し答えてくれた。
「娘が小さい時に、離婚したんですよ。
それで、子供には母親が必要だと思って再婚したんです。私は仕事上、家には殆ど帰れなかった。家には新しい妻が居るから大丈夫だと思っていたんですけどね、そうじゃなかった。結局、あの子を孤独にさせてしまっていたんだと思います。それから、お恥ずかしい話ですが、私は何回か結婚と離婚を繰り返しました。あんな父親、娘に嫌われて当然です」
それだけ一気に話すと、彼は白い息を吐いた。
「それでも、娘さんのこと愛してますよね?」
脈絡のない言葉が口をついた。
私はなにを聞いているのだろう?
でも多分、私がこの人に一番聞きたかったことはこれだ。
「もちろん、愛していますよ。あの娘が家を出てから失ったものの大きさにやっと気がついたんです。本当に大切にすべきものを間違えたって。私はずっと仕事を一番に考えていました。でも、違った。こんな状況になって恋しくなるのは仕事じゃない。人だったんです」
この言葉を最後に、彼は罪を噛み締めるように黙ってしまった。
私は掛ける言葉を探したが、見つからない。
ただ冷えた指先を丸めることしか出来ないでいた。
「船見さん、そろそろ病室に戻りましょう。ほら、こんなに冷たくなってる」
父が機転を効かせてか、単に医師としてかは分からないが、彼の肩を抱え病室に戻るように促した。
「彼を送ってくるから、少しここで待っててくれるかい?」
父はそう言い残し、二人は扉の中に消えていった。
私はまだ混乱していた。
先ほどの疑惑が、確信へと変わったのだ。
父は彼を船見さんと呼んだ。
つまり、私のお父さんが秋の父親の主治医という訳だ。
なんという偶然。運命すら感じてしまう。
だが、同時に凄く複雑な気持ちになった。
だって、父が主治医ということは...
程なくして父が缶スープを持ち帰ってきた。
「お待たせ、ここじゃ冷えるから中に入るか?」
首を横に振り、ここがいいと言った。
「君は本当にここが好きだねえ」
父はホットココアのプルタブを開け、私が届けたクッキーを一枚とった。
なんとも甘い組み合わせだ。
私も、父から受け取ったココアを開けた。甘い香りと、熱い缶が体を包み込んだ。
「さっきの患者さん、沙生のお父さんと同じ病気なんだ」
やっぱり。
何となくそんな予感はしていた。
「そっか、治りそう?」
「とても、難しい。でも、今度こそ治したいと思ってる」
サクッサクッと良い音が鳴り続けている。
母と、今の父はこの病院で出会った。
私の本当のお父さんは、この病院に入院していた。その時の研修医が今の父だ。
本当の父が死、途方に暮れた私たちを支えてくれたのが父だった。幼かった私は、彼にすぐ懐いた。まるで本当の父親に甘えるみたいに。
母も、最初はポッカリ穴が空いたような状態だったが、今の父がその穴を埋めてくれた。
幼い頃の私は、新しいお父さんに懐いてはいたが、やはり本当の父親に会いたがった。そして、私は母が自分の父親を裏切ったのだと思い込んだ時もあった。
幼いながら、私は凄く苦しんだ。新しい父を愛している自分と、本当の父を裏切っているような複雑な心境だった。
私は耐えられなくなり母に聞いてはいけないことを聞いてしまった。
「ねぇ、お母さんは前のお父さんのこともう好きじゃないの?」
母は微笑みゆっくりと語るように答えた
「沙生、お母さんの耳をみて」
そこにはブルーのピアスが付けられていた。
「なあに?これ?」
「これはね、ピアスって言うの。耳に穴を開けて着けるのよ」
「えぇ!こわい!」
「そうね、沙生にはちょっと怖いかもね」
母がピアスを外した。
耳たぶに人工的に開けられた穴は自然治癒を拒んでいた。
「この穴はね、沙生のお父さんに開けてもらったのよ」
「そうなの?」
ええ、と母が頷く
「だからね、沙生。ピアスは本当に好きな人に開けてもらいなさい」
「どうして?」
「もしも、二人が離れてもピアスの穴を見るとその人の事を思い出せるの。ずっと、その人を感じていられる気がしない?」
「じゃあ、お母さんはお父さんを忘れてないの?ずっと好きなの?」
「ずっと大好きよ。ただ、お父さんは遠くに行ってしまったの。その穴を埋めてくれたのが義之さん、今のお父さんなのよ」
母の大きい手が沙生の頭を優しく撫でた。
母が前の父を忘れていない事を確信して、私はとても安心したのを覚えている。
父がクッキーを食べ終え、服についた屑を叩いた。
今なら、聞けるかもしれない。
私はずっと疑問に思っていたことを父に聞いた。
「お父さんはなんでお母さんと結婚したの?」
「突然だな、どうして?」
「ずっと気になってたの」
父が鼻をかいた。それは父が照れた時にする癖だ。
「一目惚れだったんだよ、沙生のお母さんに」
初耳だ。確かに母は綺麗だったが、特別に美人と言うわけでもない。
「それに、沙生の本当のお父さんに尽くしている姿を見て、凄く守りたくなったんだ。それに彼が亡くなられて、二人が病院に来なくなってからずっと君たちのことを考えてた。きっと、その頃には二人のことを凄く愛していたんだろうね」
さっきまで照れていたくせに、恥ずかしげもなく父は言い切った。
なんだか聞いたこっちが恥ずかしくなる。
「お父さん、ありがとう」
こちらこそありがとう、と父は微笑んだ。
父が仕事に戻り、私は一人鈍色の空の下に取り残された。
フェンス越しに見る街はミニチュア模型みたいで可愛い。
さっき飲み終えたココアの缶を握りしめる。もうそれは少しも暖かく無かった。
人の命とは残酷だ。
そして、とても美しい。
時の流れと共に命は移り変わっていく。
それはとても自然なことで、受け入れるしかない。抗うことは許されない。
人の気持ちも同じなのだろうか。
そこにあったものが消え、同じ場所にまた別のものが置かれる、そんな感じ。
寂しいけれど、きっと、そんなものなのだろう。
でも、私は抗いたいと思った。
移ろわなくていい。たった一人でいい。
これは若者の考えだと笑う人もいるだろう。
そんなの無理だと言う人もいるだろう。
それでも私は抗いたい。
空いた穴は別のもので塞ぐのではなく、そのままにしておきたいのだ。
私の穴はもう空いてしまっている。その穴を埋められるのは一人しかいない。
秋、あなただけ。
きっと私は、秋と出会った瞬間に穴が空いてしまったのだ。
その穴の名前を知らなかった。
それに名前を付けようとも思わなかった。
この、どうしようもない愛おしいさや、苦しさ、喜び、哀しみと言った感情の詰まった穴に名前をつけるなら、私は恋と呼ぼう。
誰かの意見なんて、もうどうでも良かった。
普通なんて、どうでもいい事だ。捨ててしまおう。
この初めてであった、特別な感情を大切にしたい。
フェンスから手を離す。
街はいつの間にか星空のようになっていた。
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