永遠の一番 (里美)
付き合って一年になる翔吾への連絡を絶って一週間になった。
美しく装飾された爪を煌めかせた手には、朝から何時間も並ばなければ買えない最新機種のタブレットが握られていた。
どうしても新色が欲しく、休日を潰し働いたお金で買ったものだ。
里美は慣れた手つきでトーク画面を開いた。それは返信をしていない翔吾のものではなく、一週間以上返信のない無機質な既読という文字で終わっている。
なぜあんなことを送ってしまったのだろうと後悔した、でも過去は消せない。
里美はその事をよく知っていた。
どんなに画面を見つめても相手からは返信はない。女子なら普通、この文面を見たらすぐに反応したくなるはずだ。
なのに、沙生は違った。直ぐに返信が来ると思っていたのに反応どころか返事もない。読んだよと伝える既読の二文字が情のように里美の送った言葉に付いていた。
それに、このトークを送ったあの日から沙生とは少し気まずくなっていた。二人きりにならないように避けられている気がする。
あからさまに距離を置かれている訳では無いが、奈穂が不在の時は何とも言い難いどんよりとしたものを感じるようになった。
沙生と二人きりで緊張する時期は遠に過ぎたと思っていたのに。
沙生とは大学の入学式の日に出会った。
里美は真っ直ぐに背筋を伸ばし、代表の挨拶をしている人を見つめていた。
不意に肩に重みが加わり、驚いて横を見ると女の子が自分の肩にもたれかかっていた。
それが沙生だった。
起こすのも何だかなと思い、そのままにしていたら穏やかな寝息を忍ばせ続けていた。
結局、居眠り少女が目を覚ましたのは入学式がほぼ終わった頃だった。
あの時から二人はずっと一緒にいたが、別に特別に仲がいいという訳では無い。一定の友人関係を保っていた。それが今、崩れそうになっている。
船見秋という一人の人間によって。
「船見...秋」
口に出してその名を呼んだのは約五年ぶりだった。でも、五年前からこの名を思い出さなかった日はない。
どんなに忘れようとしても忘れられなかった。
この三文字はどんな言葉よりも残酷で美しく里美の心に深くふかく掘り刻まれている。
タブレットを鞄に仕舞う。艷めく指を乳房に押し当て息を吸い込んだ。
あぁこの感覚は、あの人に初めて会った時の感覚に似ている。
肺は空気で一杯になり、口から吸い込んだものを吐き出す。
ねぇ、きっとあなたは私のことなんて覚えていないよね。
それでもいい、それでいい。
夏休みが終わり、クラスは高校受験一色となっていた。里美も勿論その一人で、手汗で黄色くなった英単語帳を持ち歩いては空いている時間に眺めていた。
そんなどこか張り詰めたような空気が変わったのは九月の初めだった。
隣のクラスに転入生が来たのだ。
受験勉強に飽きていた中学生たちは、時期外れの転入生へ酷く興味を持った。
それは里美の友人達も同じだった。
「A組の転入生すごい美人だって!」
「ねぇ!里美もみにいこうよ!」
「んー、私はいいや」
「後で見たくなってもしらないからね!行こう友美ちゃん!」
里美はそんな友人達を冷たい気持ちで見送った。
こんな時期に転校するなんて大変だろうな。でも、どんな理由があろうと私には関係ない。転入生が気にならないと言ったら嘘になるが、あんなミーハーに混じってまで見たくはなかった。
あんな風に噂に流され、人に群がる人間とは絶対同じになりたくないと強く思った。
だが、転入生が来て一週間が経つと、あの日々が嘘のように皆受験モードに戻っていた。
やはり、こんなものなのだ。転入生には悪いが、私たちには余裕が無い。休憩は長すぎてはいけない、適度にとるのが大切なのだ。まぁ、転入生で盛り上がる期間は一週間が妥当だろう。
そんな里美の考えが変わったのは転入生が来てから二週間後の事だった。
午後にある体育の授業のため昼休みに体育着に着替えなければならなかった。しかし、ロッカーや鞄を探してもそれはどこにもなかった。
まずい、忘れた。
冷や汗をかく。里美は中学生になってから一度も忘れ物をしたことが無かった。こういう時どうすれば良いのか分からない。
見学する?いやだめだ、見学者も体育着は着なければならない。
もう、いっそ帰ってしまおうか。でも、そんな事したことが無い、駄目だ、無理だ、どうしよう。
「里美、着替えないの?」
いきなり声をかけられどきりとする。後ろには既に着替えを済ませた友美と優花がいた。
「どうしよう、体育着忘れた」
今にも泣き出しそうに自分の声が震えていた。
「里美が忘れるとか珍しいね」
「確か、隣のクラス四時間目体育だったよね、借りたら?」
「借りる...?でも、名前とか違うしバレたら怒られるよね」
「あー、あたしも前忘れた時借りたけどちゃんと申告すれば大丈夫だったよ」
「本当に?」
「本当ほんと。さ、時間ないから早く借りに行こう」
友美が手を引き、里美を隣のクラスへ引っ張っていく。だか、着いたそこには一人しかいなかった。
「あれー?何でこんなに人いないの?」
そこに優香が合流した。
「ちょっと、いきなり走っていかないでよお。今日、A組体育館の日だから誰もいないと思うけど」
忘れていた。体育館の日とは毎週クラスごとに昼休み体育館を自由に使っていい日の事だ。大体のクラスはその日に全員ほぼ強制参加でなにかスポーツをやらされる。
今日は第三金曜日でA組の日だった。
「あれ?でも一人いるな、誰だろう」
優香が不思議そうに首を傾げる。
里美もそちらを見た。確かに一人窓際の席で外を眺めている。顔はみえない。
「あっ、転入生じゃん」
友美が思い出したように指をさした。
あれが、転入生。
里美は初めてその人をみた。
短く揃えられたショートボブに細く白い首。紺の制服をスラリと着こなす長い手足。座っていてもスタイルの良さが分かる。
「なんであの子だけここにいるんだろう」
「里美、そんな事気にしている場合じゃないよ。次の授業まで後5分しかないよ!急いで!」
「急いでって、どうしたらいいのよ?」
「あの子に体育着借りてきなさい」
「無理無理、話したことないし」
「今から話せばいいの」
「もぅ、面倒臭いなぁ。わたしが行ってくる」
優香がそう言い行ってしまった。
「はい、貸してくれたよ」
優香から体育着を受け取った時、持ち主と目が合った。その瞳は少し茶色くてとても大きかった。吸い込まれそうになる。胸が熱を帯びたのを感じた。
なに、これ。
心拍数が上がり、息が苦しくなる。形容し難い感覚に襲われた。
「ほら、里美何してるの。早く着替えて行かなくちゃ」
ずるずると友美に引きずられてA組を後にした。
彼女から借りた体育着は里美には少し大きかった。綿のTシャツには船見と刺繍されていて、隣の二人と比べると真新しい白さを保っていた。
そうか、あの子船見っていうんだ。へぇ。
ついでにシャツの匂いをさり気なく嗅いでみる。なにか匂いがするかと思ったが無臭だった。少しがっかりする。
体育着を借りたと自己申告したため怒られることなく、そのまま体育は無事終わった。
体育着を脱ぎ、さてどうしようか悩む。借りたものは借りる前より綺麗にして返せとよく言われてきた。
ただ、今回は別例だ。どうしたものか。
洗って返してもよかったが、何も言わず持ち帰るわけにも行かない。とりあえず畳んでA組に持っていくことにした。
A組に着くとやはり窓際を眺めている彼女がいた。教室のドア付近にいた友人に声をかけ、船見さんを呼でもらった。
「これ、ありがとう。とても助かった。洗って返した方がいい?」
「いや、いいよ。そのままで」
目の前に立つ船見さんは大きかった。自然と見上げる形になる。
それにしても、本当に綺麗な顔立ちをしていた。鼻筋が通り、瞳は大きく、余計な肉がない頬はシャープで男子よりも何倍も綺麗でかっこいい。宝塚に惚れる女性の気持ちがわかる気がした。
「なに?」
まずい、見すぎた。あまりの端正な顔の造りに見惚れてしまっていた。
「えっと、なんでもない」
焦ってしまい、はい、これ、とぶっきらぼうに体育着を返却する。
突き出された体育着を船見さんがまじまじと見つめた。
「畳み方綺麗だね。ありがとう」
そう言って笑った。その笑顔は彼女をとてつもなく幼く見せた。
何そのギャップ。
そんな顔で笑われたら、もうどうしたらいいのか分からないよ。苦しい。
じゃあねと言い行ってしまう。
こんなにも誰かの後ろ姿を追いたいと思ったことはなかった。
完全に惚れていた。
それから中学を卒業するまで彼女とは一度も話さなかった。ただ、遠くから彼女の背中を目で追うことしか出来なくなってしまっていた。
自分が同性に恋をするなんて考えたこともない。だから、高校を卒業するまで自分のこの感情の名前を知らなかった。だからあなたは知らなくていい。
私との一分にも満たない会話なんて忘れてしまって構わない。それでも私はずっと覚えている。こんなにも私の心を苦しくさせられる人は、あなた以外にはきっといない。だから、私がいま付き合っている人、これから付き合う人、結婚する人は皆二番目。ずっと一緒にいても、永遠に二番目なの。私の一番は永遠にあなただけ。あなただけ。
それでよかったはずなのに、沙生と仲良くなるあなたをみて私は死にそうな程苦しい。だから、あなたと沙生を離そうとした。少しでも二人の溝を深めたかった。
絶対に誰にも言えない感情が私にはある。
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