4障 冬をこえて
一番
カーテンから陽の光が漏れている。
いつも通りの朝。
わたしは少しだるい体をゆっくりと起こした。リビングからはパンの焼けたいい匂いが二階まで届いている。
昨日のことを思い出し、あまり変化のない自分に安堵した。ゆっくりと瞼を合わせ、昨日の事件を思い起こす。
病院の屋上で秋とキスをした。
というかされた。
それだけのこと、ただ唇を合わせただけ。
本当にそれだけだ。あの後自分がどうやって家に帰ってきたのかは全く覚えていなかったが、こうやって自分の部屋で朝を迎えられたという事は大丈夫だったのだろう。
あの子に自由すぎる所があるのは出会った時から分かっていたが、ここまでとは。まさか、あのタイミングでキスされるとは思っていなかった。驚きすぎて言葉が出なかったし、反則的に濡れた瞳がわたしから言葉を奪った。
涙の跡が残った少女へ責めることを言える人間なんているはずがない。少なくともわたしには無理だ。
あの後、秋は何も無かったかのように帰ろうと言ってわたしの手を引いた。あんなことをしておいて説明もなく、わたしだけモヤモヤしている。いまだにわたしは秋のことを掴めないでいた。
階段を降りて母の待つリビングへ向かう。
「おはよう、沙生。お父さんに手合わせた?」
「今から合わせるよ」
リビングの隣にある和室のドアを引く。
障子の閉められた畳の部屋は薄暗く酷く乾燥していた。
朝なのに夜を思わせる部屋の中にひっそりと仏壇が置かれている。十五年前からこれは、この部屋の主になった。
ロウソクに火をつけ、そのまま線香に火をつける。慣れた手つきで一連の動作を終え手を合わせた。流石に十五年も毎朝続けていると、何も考えなくてもこの動作は出来るようになる。
顔を上げ、思い出せないような思い出を持つ写真を見る。控えめな笑顔でこちらを見る男性が写っていた。
わたしの本当のお父さん。
十五年に病気で死んだ。あの頃のわたしは死の重さや、悲しみ、その意味が分かっていなかった。
正直、今でもよく分からない。父のことを思い出そうとしてもよく思い出せないし、感傷的な感情も持たない。
わたしは薄情なのだろうか。どちらかと言うと今の父が死んでしまった方が余程悲しいと思う。
わたしと同じ遺伝子を持つ彼を、十年以上一緒に暮らしている義父よりも愛してはいないのは事実だった。
「ごめんね」
ゆっくりと畳から膝を剥がす。こちらを見る父の写真は少し褪せていた。
リビングに戻ると、父と母がもう朝ごはんを食べ始めていた。
「ちょと待ってくれても良くない?」
「沙生が遅すぎるのよ」
「今日は別格に長かったな、何かあったのかい?」
鋭い父が確信をついてくる。昔から何かある事に仏壇の父に向かって報告するようにしていることを義父は知っている。今回は秋の一連の事件について事細かく報告していたところだ。
自分には話さないことを仏壇の父には話すわたしを、義父はあまり良くは思ってないだろう。
でも、こればかりは仕方ない。生きている人間よりも、死んでいる人の方が話しやすいことも有るのだ。むしろ、その方が多いかもしれない。
わたしには生身の人間には言いたくないことが多すぎる。
考えることが面倒になり、バターがたっぷり塗られたパンにベッタリと甘いイチゴジャムを載せ頬張った。口の中が甘味で一杯になる、永遠に噛んでいられる甘さを牛乳で流し込む。父はそんなわたしを見て、自分のパンにもイチゴジャムをベッタリと塗っていた。
大学に着くと里美が既に教室に居た。声をかけると着けていたイヤホンをゆっくりとした動作で耳から離した。
お互いおはようと言い合い会話が途切れる。あのメッセが届いて以来里美とは少し気まずい。
ヒーローの助けを待つモブキャラの如く奈穂を待つ。隣の里美を盗み見ると、ショートボブに切り揃えられた黒髪が、首筋を際立たせていてなんだか色っぽかった。
ふうーと、里美に気付かれないように息を吐く。
あの日、里美から送られてきたメッセを結局わたしは無視した。
確かに、関わらない方が良いなんて言われたら気になる。でも、それを知ってもわたしは秋と関わり続けるだろう。
それならわざわざ知らなくてもいい事を知る必要は無い。
それに、秋のことは秋の口から聞きたかった。里美から聞く必要は無い。
「沙生...ごめん怒ってる?」
声の主は里美だった。わたしの方を見つめている。若干語尾が震えていた。
「怒ってないよ、どうして?」
「だって、最近わたしのこと避けてない?」
「避けてない、ただ...」
「この間のメッセのこと?」
否定も肯定も出来ないでいると、里美が察したように目を逸らした。
こういう気まずさは苦手だ。沈黙ともいえない重い空気感、正直、困る。
どうしたらいい?そうじゃないよ、気にしないでって言えば全て丸く収まる?
でも、きっとそれを言っても、わたしの胸に突っかかったものはとれない。
「そう、メッセのこと。でも怒ってはないよ」
「ごめん、やっぱりそうだよね」
「里美は悪くないよ。ただ、秋の噂とかそういうのはあんまり聞きたくないかも」
「うん」
教室には大勢の人がいるはずなのに、二人の周りだけは静かだった。その静けさは何とも居心地が悪かった。
秋といる時には一度も感じたことのない空気感だった。キスした後もこんな息苦しくはならなかったのに、とても苦しい。
人を責める感覚、世界が縮んだ気がした。圧縮パックに入って空気がどんどん抜かれていく、息が出来なくなる。
誰か、早く穴を開けてと懇願する。久しぶりの感覚に意識が遠くなる、思考が追いつかない。
なにかフォローする言葉を探さなくては。もしくは明るくなるような話題、何かないか。そう考えると余計に頭が真っ白になった。
わたしはこういう状況に慣れていなさすぎた。人に対して感情をぶつけることを避けて生きてきた。
だから大親友もいなければ、嫌いな人もいない。昔の友達とも連絡は取り合うが、この子は特別という人はいなかった。
それで良かった、その距離感が楽だった。
だから、誰かの噂や悪口を聞いてもなんとも思わず、軽い相槌をうって流してこれた。
わたしは、そういう人間なはずだった。心に摩擦がなく、笑っていれば一日がゆったりと終わる、そんな人生を送ると思っていたのに。
秋と出会うまでは。
恋や親友と言った言葉には憧れていた。いつかわたしもそういうモノに出会えるのではないかという淡い期待と、一生出会えないかもしれないと諦める冷静な自分がいた。
そんな二人の自分が混在している時に秋と出会った。
わたしにとって秋は特別だ。秋といると誰にも感じたことのない感情が心を支配する。とても心地いい感情だった。
これが異性だったらきっとすぐに恋だと思ってしまうだろう。
でも、秋は女の子だ。同性の、気まぐれな女の子。だから、きっと秋は唯一無二の親友とか、そういったポジションなのかと思っていた。それが崩れたのは雨の日だった。
夜、耳にキスをされたあの日からわたしはおかしくなってしまった。ピアスを開けないでと言われたあの瞬間、心がざわついたことを今でも覚えている。
「沙生?」
意識を戻される。
先程まで苦しかった胸が自由になっていた。里美の隣には奈穂が座っていた。
「おはよう沙生、凄いぼーっとしてたけど大丈夫?」
奈穂のなにも知らない無垢な顔にとても癒される。でも、今一番会いたい人は秋だった。
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